02話 血と鋼鉄と肉と骨
かつての巨神たちが集団浴場に使っていた痕跡と思しき地下人工湖は、いまはゴブリンたちの漁場として食料供給源になっていた。
食料を運んでいく台車のひとつをアッシュたちは追跡し始めた。
広大な地下遺跡には要所要所に明かりが掲げられ――巨神文明時代に作られた半永久エーテルランプであったり、ゴブリンが後から設置したオイルランプやかがり火のこともある――真っ暗闇ではないため、行先を追うこと自体はそれほど難しくはなかった。
「……しかし青銀珊瑚(註:陸上に生える珊瑚で、強い魔除けの効果を持つ)の森の下がここまでゴブリンの温床になっているとはな」
誰に言うでもなく、フォレストエルフのセラがため息混じりにつぶやいた。
「魔除けの森だからこそかもしれませんぞ」ドニエプルが大きな体をなるべく目立たぬよう縮めながら言った。「探知の魔法が青銀珊瑚に散らされて、地下に何があるか調べられなかったのかも」
「偶然か、それともゴブリンどもがそれを見越していたのか」とアッシュ。「どっちにせよ、10年も片付かなかったわけだな」
「んもー、みんな静かに。せっかく尾行してるんだからもっと忍んで」
先頭に立つカルボが頬を膨らませた。
「すまん。で、何か変化は」
「ぜんぜん。ずっと止まらず、寄り道もなし」
「このまま”卸先”に連れて行ってくれそうか」
「たぶんね……っと、ちょっと止まって」
「どうした?」
「……あれ」
声のトーンを落とし、カルボはゴブリンたちが魚を運ぶ台車の方向を指差した。
その先には、何者かが全速力で走ってくる姿があった。
「……人間だ?」
遠目にもかかわらず、ものすごい形相でなりふり構わない走り方をしているのがわかった。どうやら男のようで、まさに命がけの全力疾走といった様子だ。
そのまま走っていけば数秒でゴブリンたちとすれ違うことになる位置関係だが、当のゴブリンがその状況を何事もなく見過ごすはずもない。荷を引いていたロバの足が止まり、荷台から武装したゴブリンが3匹飛び降りた。地下遺跡の中で食料の魚を運ぶにしては厳重な警備と言えた。一週間前にアッシュたちが工場とエンチャント工房を台無しにしたことがゴブリンの警戒意識を高めたのであろうか。
「ええい、さっそく絡まれてるぞ!」
セラが忌々しげに言った。視線の先では男がとおせんぼをされて刃物を突きつけられ、尻餅をついていた。
「アッシュ殿、行きましょう。何であれみすみす殺させるわけには」とドニエプル。
「だな」
アッシュたちは男を助けるべく、身を隠すことをやめて台車の方へと駆け出した。
*
「た、た、助かったぜぇ……」
男は両膝に手を置いて呼吸を整えようとしながら、やっとのことでそういった。
ゴブリンたちはアッシュらによって制圧され、死体になるか死体に近い状態になって道に伏している。
「デシルだ。秘術師のデシル」
まだ若い男はそう言って、ホコリだらけになったローブをはたいた。
改めて近くで見ると、アッシュはデシルと名乗った男に覚えがあった。
この広大な地下迷宮に入った別のパーティのメンバーに加わっていたはずだ。
「仲間はどうしたんだ?」
アッシュの問いにデシルは眉をひそめ、「ああ、それな……オレ以外は捕まった……いや、もうやられちまったかも知れねえ」
「穏やかではないですな」ドニエプルが身を乗り出した。「どれ、詳しく聞きましょう」
「ああ……」デシルは一度肩をすくめ、言葉を吟味してから、「オレたちは遺跡探索の途中で地図を拾ったんだ……メモリー・クリスタルに入ったやつ。それを手がかりに、ゴブリンどもの中枢を暴こうとこの奥の建物に侵入した」
「ほいじゃあ本当にこの先にゴブリンの親玉がいたんだ」
カルボは自分の予想が当たったことを驚き半分に喜び、大きな目をさらに丸くした。
「侵入自体はすげえ簡単だった……でもそれは」
「罠だった?」
「そうだ……ん?」
デシルは会話に割り込んだカルボのことを見て、阿呆のように口をぽかんと開けた。いったん視線が泳ぎ、二度見し、さらに三度見。
「ふぉう!」
悲鳴のような、歓声のような、素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ?」
「す」
「す?」
「すっげえ美人……!」
「何を言っているんだこいつは」セラがデシルのことを胡散臭げに眺めた。
「おうふ! こっちもすげえ美人!」
突然の言葉にセラは戸惑いの表情を浮かべ、「何を言っているんだこいつは?」
「おい、真面目にやれ」とアッシュ。
「お? ああ、そうそう。侵入したんだがな、建物に。あっさりと。でもそれはゴブリンの罠だった。参ったね。全員とっ捕まって、なんとか隙を見てオレだけ逃げ出したんだ」
デシルは別人のようにスラスラと答えた。
「おぬしの他に何人いたのだ?」とドニエプル。
「4人だ。オレたちは5人パーティだった」
「まだ無事なのか」
「わからねえ。檻の中に入れられる直前に逃げたから……どうだろうな。とにかく、あそこにいたゴブリンはそのへんの働きアリクラスじゃなかった」
「というと?」
「体格も装備も別物だ、ありゃあ。小鬼どころか食人鬼って言われても通じるね」
デシルはその時の光景を思い出したのか、自分の肩を掴んで震えるような仕草をした。
アッシュたちは顔を見合わせた。この地下遺跡構内にいるゴブリンがただの臆病者たちだけではないことはすでに身をもって知っている。デシルの言葉は嘘や冗談ではないと察しがついた。
「では本当にこの魚は敵の本拠地に運ばれようとしていたと?」ドニエプルは生臭い台車をごつい拳で小突き、「カルボ殿の予測が当たりましたな」
「ぐへへ」
「だったらここで突っ立っているわけにはいくまい」とセラ。「捕まった連中がどんな目に合うか、想像したくもない。まだ生きている可能性があるうちに救出しなければ」
「救出……」
「そうだ。デシルと言ったな、案内は任せた」
「ちょ、ちょっと待ってくれよエルフのお姉さん」デシルは慌てて言った。「死に物狂いで走って逃げてきたっていうのに、直で戻れって? 勘弁してくれよ」
「勘弁も何もない。お前の仲間なんだろう?」
セラは流麗な眉をつり上げた。
「それはそうだけどよぉ……」
デシルは反論しようと口の中でぶちぶちと言葉を浮かべるが、何も言えなかった。
「んー、でもそんなに強そうなゴブリンなら、わたしたちでも勝てないかも」とカルボ。
「そう、そうだよキミ!」デシルが思わぬ助け舟とばかりにカルボのところまですっ飛び、両手で少女の手を握った。「仲間の命も大切だけどさぁ、二次被害ってあるよね? どうせならもっと大人数で乗り込んでさぁ……そう、他のパーティと合流するとか! そういうことにしようよ。ね?」
「……おい」
アッシュが黒いものが混ざった眼差しでデシルを睨んだ。秘術師を名乗る軽薄な男の態度に腹を立てた――そんな風な目つきだが、実際にはカルボの手を気安く握られたことが気に食わないという無意識の苛立ちだった。
「……この遺跡は広い。合流ポイントまで戻るのもそれなりの移動距離だ」
「そりゃたしかにそうだけど!」
「だから、ひとまずその建物に行く」
「う……」
デシルは口ごもった。アッシュの態度は気楽な反論を許さないものがあった。
「まだ生きている可能性が高いうちに救出できるかどうか試す。無理なら撤退する。他のパーティを探すのはその後だ。それでいいか、セラ?」
「問題ない」
「ドニ?」
「拙僧も人命救助最優先に賛成ですな」
「カルボは?」
「いいよ。もともとこの台車の行き先まで尾行するつもりだったんだし」
「決まりだ。デシル、案内を頼む」
「とっほおおぉ……」
若き秘術師はがっくりと肩を落とし、己の命運がまだ完全には救われていないことを嘆いた。
*
その頃、アッシュたちの頭上、すなわち地上では――。
土砂降りの中、アロケルカイム軍とゴブリン軍との間で激しい戦闘が行われていた。
雨粒の音に紛れて重く湿った空気を引き裂く無数の矢が、人類の陣へと降り注ぐ。
アロケルカイムの槍兵たちは盾を掲げてそれを待ち構えた。頑丈な鉄板張りの大盾に、ゴブリンどもが念入りに人類への悪意を込めて作った矢じりが、背筋がゾッとするような金切り声を立てて激突する。大半は盾の曲面を滑って弾き落とされるが、中には鉄板を突き抜けたり、盾と盾とのわずかな隙間を縫って兵士の身体を射抜くものもあった。
悲鳴は雨風のうねりにまぎれ、血の飛沫は泥水に洗い流される。
人類側もただ射たれるだけではない。
アロケルカイムの魔術兵たちによる破壊魔法が列をなしてゴブリンの一群をなぎ払い、そこに弩兵が報復の一斉射をしかけた。哀れな緑の小鬼どもはバタバタと倒れ、バラム平原の泥濘に新たな血が注がれる。
「ホフゥーック! ホフゥーック!!」
「ディヤーッ! ディヤーッ! ニィエンディヤーッ!!」
「チンダキィーオオシャ!」
ゴブリンは興奮し、人類に対する呪詛の言葉を口々に叫ぶ。
おぞましい鬼族の陣からも魔法が解き放たれた。
戦場の一角で空間が歪み、世界の外側から”闇の勢力”が滲み出す。ゴブリン妖術師による妖魔召喚の術だ。
角の生えた毛むくじゃらの巨体、角のある男がゴブリンの戦陣に加わった。その数10体。手には闇が凝り固まってできた武器が握られている。
「妖魔、出ました!」
叫んだのはアロケルカイム側の伝令術士である。広い戦場で情報を緊密にするには無くてはならない存在だ。拡声音と念話の2チャンネルで情報が伝達され、軍司令部は即座に付呪鉄騎兵の投入を決定した。
付与術師による強化魔法を幾重にも施された重装甲の騎兵が、並の馬車馬よりも二回り以上巨大な特別調整半生体馬にまたがり、猛烈な速度と質量をもって敵陣を打ち破る。そのような戦術を担うのが付呪鉄騎兵である。
迫りくるホーンドマン軍団相手に、左右に別れた付呪鉄騎兵が蹄を打ち鳴らして馬上槍突撃を行った。戦場のぬかるみが舞い上がるほどの強い踏み出し。
機動力が運動エネルギーのかたまりとなってホーンドマンの巨体に叩き込まれた。
この世界に受肉していた身体がダメージに耐えきれずに崩壊し、一気に半数の妖魔が黒い霧となって元いたところ――世界の外へ移相した。
だがホーンドマンそしてゴブリンらも黙って突撃を受けてばかりではない。
突撃に対して武器を振り回しカウンターを叩き込み、相打ちに持ち込んだ個体もいた。
凄まじい突進力ゆえに反撃を受けるとそれを相殺しきれず、兜ごと頭を叩き割られて討たれる付呪鉄騎兵。
強力な者同士の激突に、アロケルカイム軍もゴブリン軍も双方が昂ぶった。歓声。怒声。罵声。兵士たちは土砂降りにかき消されぬよう声を張り上げる。
槍兵が呼子と太鼓、そして念話によって動き、進撃し、ゴブリンの陣を打ち破れば、ゴブリン祈祷師のまじないが伝令術士たちの脳を操り誤命令を出させて混乱を招く。
互いにじわじわと犠牲者を増やしながら、戦況は五分と五分のままであった。
――おれは死ぬのか……。
ゴブリン戦長の豪剣に切り裂かれた兵士の一人が、降り続く雨に打たれながらぬかるみの中で命を終えようとしていた。
濁った雲に遮られ、空の向こうにあるはずのアロケルカイム王都の景色は何ひとつうかがうことが出来ない。
――ああ、だが見えてきた。
兵士は、何も見えないはずの空から不可思議な光輝が差し込むのが見えた。
曇天を割り咲くようにして姿を見せたのは、この世のものとは思えない巨大で神聖なものだった。
”始源の塔”。
始まりの時よりさらに古くから世界の中心に立つ、この世界のあまねく全ての生物を生み出した生命の根源である。
兵士は、人間は、人類種は、否、すべての生物は死ねば始源の塔に還る。ドラゴンや巨神たちでさえ例外ではないはずだ。少なくとも円十字教会はそのように魂のゆくえを説く。
死ぬ前に見るという光景、まさにそれそのものを目にし、兵士は安らかなこころで戦死する己を受け入れた。
離れたところでは、同じように人間の武器で刺し貫かれたゴブリンが、同じように始源の塔を見た――死にたくない、還りたくないとか細い泣き言を繰り返していたが、結局はゴブリンも事切れた。
無論、暑く雨雲の垂れ込めた戦場から始源の塔を肉眼で見ることなど出来ない。
死にゆくものが見る幻覚にすぎないのだろうか。
あるいは世界を生み出した造物主が差し伸べた、死者への救済なのだろうか。
この場で真相を確かめようとするものは誰もいない。
今はただ、人類種と鬼族の互いを否定し合う血肉と鋼鉄だけが支配していた――。