01話 ハックアンドスラッシュ
雨。
どす濁った空からこぼれ落ちるひとしずくの雨。
泥の中で槍を携えた兵士の鼻先にぼつりと弾け、無数の飛沫の向こうに消える。
呼子の音が湿った緞帳を切り裂くように鳴り響き、兵士はぬかるみに足を取られつつ立ち上がった。
視線の向こうには、雨の降り注ぐ戦場を挟んで反対側にずらりと居並ぶ緑の肌の鬼の群れ。
ゴブリンだ。
そこはアロケルカイム王国領土内のバラム平原。
ここ10年の間、7度もゴブリン軍との衝突が起こり、その度に人類種、鬼族双方の血を吸ってきた戦場である。
アロケルカイムの戦士や魔法使いたちはその都度多大な犠牲を払ってゴブリンどもを追い払ってきた。しかしゴブリンは、攻撃のたびに数を増やし、隊伍を組み戦術を複雑化させ、武器を防具を洗練させてより強力に、狡猾に、いやらしく執拗に軍勢を増していった。
今回、八度目の大攻勢も過去の例にもれず見たこともない大軍勢であった。
戦場の各所に控えている伝令術士たちが、将軍の命令をせわしなく送受信している。
何か異常事態でも発生したか――勘のいい兵士たちの間から不安の臭いが漂い始めた。
良くない傾向だった。不安は不信を、不信は疑心を、疑心は恐怖を生む。
「1番から3番隊、構えーい!」
伝令術士たちが、己の声を魔術で増幅させて号令を下した。
この期に及んで転進はありえない。兵士たちは槍を構え、銀色の穂先を悪しき小鬼の軍団に向けた。
「進めーい!!」
雨。
土砂降りの雨の中、アロケルカイムの兵たちは一歩を踏み出した。
背後に位置しているはずの首都の王城は霞んで見えない。
退くことのできない防衛戦が始まろうとしていた。
*
一方、アロケルカイム王国の地下領域。
一週間前にゴブリンが地下遺跡の構内に武具の生産工場やエンチャント施設を運用しているところを発見し、破壊したアッシュたちは国家の要請で再び同じ場所に舞い戻っていた。
目的は地下遺跡の探索、およびそこに潜むゴブリンに対する破壊工作である。
折しも地上ではゴブリンの大軍がバラム平原に集結し、人の目も鬼の目もそちらに集中していた。こっそりと地下を調べて回るには絶好の機会というわけだ。戦力を地上の合戦に最大限導入したいというアロケルカイム軍の意図もあって、地下探索はほとんど冒険者へ委託されることになった。
さすがに規模と危険性を考慮してアッシュたちとは別のグループにも声がかかり、4人だけで地下遺跡を全部探索することにはならなかったが、依頼料に加えて見つけた宝を自分たちの所有物にしていいという条件はありがたいものだった。
見方を変えれば早い者勝ちの遺跡探索ということになる。未踏査の場所へ誰よりも早くたどり着く競争というのは、冒険者としては胸の躍る話といえる。
「こないだの子供たちみたいに、さらわれた人がまだ生きているかもしれないよね」カルボはそう言って、緩いウェーブのかかった髪を後ろになでつけた。「なるべく急いで奥に行こうよ。ね?」
「そうだな。地上の戦いも気になる」とアッシュ。「準備ができ次第、出発だ」
それぞれに前回来たときよりも重装備になっているアッシュたちは、早速探索を開始した。
*
巨神文明の遺跡は、その主であった巨神たちのサイズにあわせてとてつもなく大きい物がほとんどである。
同時に、人類種でなければ入っていけない設計の構造物もある。
巨神たちが世界の果ての果まで支配した10万年の歴史の中で、奴隷化されていた人間やエルフが寝起きし、働いていた施設がそれだ。
アッシュたちはひとつの都市国家がまるごと入るほど広大な地下空間を進み、奥へ、さらに下層へと足を伸ばしていく。
はるか太古に巨神が使っていた驚くほど大きなへらや桶が往時の姿のまま積み重なったエリアがしばらく続き、やがて視界がひらけると、生臭い薄湿った空気が流れてきた。
「ふわぁ~……」
カルボが感嘆の声をもらした。
こんなものは見たことがない。
広大な地下空間に広がる湖――人工の地底湖である。
端から端まではひとつの町が水没するほどある。真鍮色の信じられないくらい太いパイプが湖面から突き出し、同じく巨大な構造物に接続されている。おそらく往時はポンプと連動して湖水の汲み上げでも行っていたのだろう。
「これは……なんだろうな。巨神がいなくなってから水が溜まったわけじゃないようだが」
高い位置にある腰に両手を当て、セラが言った。鼻をひくつかせて少し嫌な顔をしたのは、淀んだ湖面が揺らいでドブ水の臭気が漂ってきたからだ。
「生活用水に使っていたのでは?」とドニエプル。「先程通ってきたところにあったのは、あれは桶や柄杓のようでしたから」
「巨神が自分で炊事洗濯でもしてたのか? そういうのも全部奴隷にやらせてたんだと思ってたが」
アッシュはそう言って、湖のほとりまで近づいた。
カビとコケと、その他にもわけの分からない植物が繁茂して水際は滑りやすく、生臭い。どこから入りこんだのか、羽虫が飛び回り小さな両生類がちょろちょろと這い回っているのが見えた。
アッシュはしばらく考えた後、他の三人の後ろまで下がった。
「どうしたの?」
カルボの怪訝そうな問に、アッシュは答えない。
一週間前に遺跡に訪れた時の装備に加え、今回は頑丈な凧形の盾まで持参してきている。万が一足を滑らせて湖面に転落すれば、少々厄介なことになるはずだ――泳げないアッシュにとっては特に。
「いつぞやのリザードマンの遺跡を思い出しますなあ」
ドニの言葉に、一同はそれぞれに思うところがあった。南のガープ王国でトカゲの大軍と戦ったのはふた月ほど前の話だ(註:11章および12章)。沼の中から発掘された遺跡の中に始源種――始源の塔から生み出されたその種族の祖か、それに近い個体のことをそのように言う――のリザードマンが眠っており、凄まじい死闘の末、鎮圧した。
「あのときはリザードマンの始源種が何か悪さをして、大湿原のレプティリアンが活発に活動してたんだよな」とアッシュ。
「そうだな」セラが少し面白がるように言った。「その一件がなければ、私がお前たちと同行することもなかったのだから、巡り合わせとは不思議なものだ」
「んっと、じゃあこの遺跡にもゴブリンの始源種が?」とカルボ。
「かもしれない」とアッシュ。「それを探るのが俺たちの仕事だ」
*
地底湖のほとりをしばらく進むと、奇妙なタンクが視界に入ってきた。
アッシュの身長のゆうに倍はある太い円筒形で、てっぺんには上から押し込むと中身が出る機構が付いていた。ちいさな奴隷ではなく、巨神が自らの巨大な手で扱うものらしい。
カルボが物珍しそうにタンクの周りをぐるりと見て、「エリクサーのボトル……みたいなもんかな?」
「いくつもおなじようなのがあるな」とアッシュ。「なんというか……銭湯みたいだな」
桶。柄杓。へら。ポンプ式のエリクサーボトル。
「あ、もしかしてここは巨神の銭湯ってこと?」カルボはぱちんと両手を打ち鳴らした。「あのへらって垢すりかなにかかな? だったらこんなに大きい人工湖っていうのもありえるかも」
「おお、なるほど。言われてみればあそこにあるのも巨大な蛇口でしょうか」とドニエプル。
一万年以上の巨神文明時代に、巨神たちがその名の通りの巨体をここで洗い清め、人口湖にしか見えない湯船で汗を流していた――アッシュたちは考古学者ではないのでそれ以上の真相は不明だが、そう考えると辻褄は合う気がした。
太古の巨神が使っていた地下銭湯に多くのゴブリンが住み着いて、地上の人類を攻めている。なんとも奇妙な構図である。
「……だが今はそれを論じている暇はないようだ」
パーティにやや先んじて進んだセラがそう言って、”止まれ””しゃがめ”のハンドサインを送った。
視線の先では、複数の小舟に乗ったゴブリンが湖面に網を投げかけ、漁をしていた。
*
地下遺跡の中の巨大浴場は、いまや独自の生態系を成してゴブリンたちの食料供給源となっていた。
数隻の小さな漁船に乗り込んで漁をするゴブリン漁師と、それを監督するゴブリン水兵。
鍛冶、エンチャント、おまけに漁まで行っているのであれば、ここ十年ほどの間アロケルカイム王国をして追い散らすことの出来ない戦力をゴブリンたちが維持できるのも当然ではないか。
「どうする、潰すか」セラが弓の弦を指でなぞりつつ言った。「食料源を断つのもひとつの手だ」
「しかし数が多いですな。ちと骨が折れそうだ」と言ってドニエプルは己の拳同士を軽くぶつけた。
「あ、ちょっとまって」
カルボが水揚げされた魚が台車で運ばれていくのを見て、指差した。いったん倉庫に集積された後、配達先ごとに分配されて運ばれていくようだった。そうした作業そのものは人間やエルフの漁師町で行われているのと同じだ。すでにアッシュたちによって制圧された工場やエンチャント工房も、おそらくは配達先のひとつだったのではないか。
「あれを追いかけていったらいいんじゃないかな」
「なるほど、魚を運ぶ先にゴブリンのすみかがあるってわけか」とアッシュ。
水揚げの様子を覗くアッシュたちの気づくことなく、ゴブリンたちは労働に勤しんでいる。
やがて分配が済んだのか、3台の台車が動き出しそれぞれが別の行き先へと引かれていく。荷駄は地上から引っ張り込まれたのであろうロバを使っている。
大きく重そうな台車と、コンパクトな1台。その中間ほどの1台――あわせて3台。
「手分けするか?」セラが短く尋ねた。
「いや、4人しかいないところを分けるのはよそう」とアッシュ。
「ではどれか1台を?」とドニエプル。
「……多くの魚を持っていくのはゴブリンが大勢いるからだろうな」
「ならあの大きい方を追うのか」
セラはさっそく腰を上げかけたが、カルボに制された。
「何だカルボ」
「ぐへへ……見ちゃった」
「何を?」
「小さい荷台の方はね、形が良くて大きい魚を入れてたよ」
「うん?」
「いい魚を持っていくってことは」
「ああ、なるほど」アッシュは自分の着ている軽鎧の装甲を小さく叩き、「ゴブリンの偉いやつがいるってことか」
そういうこと、とカルボはうなずいて、携帯用の望遠鏡を畳んでザックにしまった。
「その”偉いゴブリン”ってのがどの程度偉いのかわからないけど、もしゴブリン軍団の首脳部に近い存在なら、そっちを潰したほうがダメージは大きいだろうな」
アッシュの言葉にドニエプルはうなずいて、「でしたらあの小さい方を追いましょう。相手がゴブリンと言えど、非戦闘員を投げ飛ばすよりは親玉と戦う方が修行になる」
カルボとセラも同じようにうなずいた。
「だいたいわかった。行こう」
追跡が始まった。