第18章 02話 クレリア姫の憂鬱
辻馬車がアロケルカイム領事館につくと、アッシュはうなじの毛がわずかに逆立つのを感じた。
漠然とした警戒心が頭をもたげる。嫌な予感。敵の存在。が、それが何なのかはっきりしない。気のせいかもしれない。
――いくらなんでも、領事館でいきなり襲われることはないだろう。
アッシュは自分が神経質になりすぎていることに苦笑いし、瀟洒な領事館の門をくぐった。
*
自分が精神術師であるとクレリアが自覚したのは6つの頃だったが、サイオニクスを無意識に扱うことができるようになったのは物心付く前からだった。
アロケルカイム王国は古い歴史を持つ国家であり、その歴史の中で王家の血筋には特別強いサイオンが生まれることがある。当代、アジー2世の第四王女クレリアはまさにそうした血が顕在化した存在ということになる。
クレリアは明らかに強力なサイオンで、手を触れずに誰かを屈服させることも、頭の中を覗くことも、遠く離れた場所に念波を飛ばすことも、どれも彼女にとっては容易いことだった。
彼女の”いたずら”を止めることのできる者は少なく、そうした子供が傍若無人な性格に育つことは程度の差こそあれよくある話である。
やがてクレリアは”テレポート”の能力に目覚め、わがままでいたずら好きで捕まえようにも瞬間移動で逃げてしまう彼女は13歳にしてはっきりと王家の腫れ物扱いされることになった。
折しもアロケルカイム王国ではゴブリンクランの一斉蜂起による大規模な戦争の最中である。王家の子女を安全のために国外へ逃がすというていで、クレリアは聖都カンの円十字教会修道院に入れられることになった――本人の猛反発には、父王含め誰も耳を貸さなかった。
――そんなことしたって、私のテレポートがあればすぐに逃げ出してみせる。
クレリアはそう考え、自分ならいつでもどんな時も自由だと信じて疑わなかった。
異変は、まさにその修道院へと送られる馬車に乗っている最中に起こった。
『お迎えに上がりました、クレリア姫』
あの長剣を背負った男――クロウが現れたのだ。
一目惚れこそしなかったが、憂鬱な馬車の扉を開け放ったクロウは、自分に自由をもたらしてくれる救いの手としてクレリアの目には映った。
だからこそ、彼らの用意した馬車へと移り、その導きに従うことにしたのだが……。
それは幼さゆえの愚かな選択であった。クロウたち武装集団は悪名高い魔導結社”キサナドゥ”の一員であり、馬車の列を襲撃し護衛を何人も殺した上で別に用意していた馬車にクレリアを招いたのだ。
そのことに気づいた時はもはや手遅れだった。
なぜなら、魔導結社キサナドゥの用意した馬車には非常に強力なサイオンジャマーが仕掛けてあり――青銀珊瑚を客車のフレームに埋め込んだもので、エーテル波を妨害するというものだ――クレリアは誘拐された。
『クレリア姫、我々はあなたの能力を必要としている。どうか協力をお願いしたい』
クレリアのこころは、不思議と揺れなかった。
キサナドゥのメンバーである彼らに与えるものは何ひとつない。
自分はアロケルカイム王国の姫であるという誇り高い感情は、自由を欲するわがまま姫でいたいという幼い考えを遥かに上回っていた。
だからクレリアはテレポートした。
――どこでもいい、この馬車の外へ出られるならどこであっても構わない。
その強い力が、幾重にも張り巡らされたサイオンジャマーの力さえ打ち破り――気がつけば聖都カンの地下、聖墳墓殿堂に空間転移していたのである。暴走してキサナドゥのメンバーたちまで転移させてしまったのは完全な想定外であったが。
なぜ聖墳墓殿堂であったのか。
クレリア自身はその場所を望んだわけではない。
馬車の外へ、どこか彼らの手の及ばない場所へ。念じたのはそれだけである。
聖都カン、その中でも聖墳墓殿堂は特に強いエーテルが渦巻くスポットであることに間違いはない。だから最初は強い力に引き寄せられたのかと考えた。
クレリアの知識が及ぶ範囲では完全に否定できないが、直感がそうではないと告げた。
聖墳墓殿堂という場ではなく、そこにいた黒薔薇と白百合という、不思議な双子の少女に引き寄せられたのだ。
彼女らの強いサイオンとしての能力がクレリアのテレポーテーションを導いてくれたがゆえのことであると。
その場所が、クレリアが行きたくないと思っていた聖都カンだったのは運命のいたずらとしか言えない。
魔導結社キサナドゥの手から逃れ、領事館に避難したクレリアは不思議な少女たちに興味を抱き、呼び寄せ、いろいろなことを語らった。
ふたりが普通の出自ではなく、人造人間であるということもその時知った。
只の人間ではないせいだろうか、黒薔薇と白百合はクレリアに対して同じサイオンの少女として接し、王族という肩書で特別扱いはしなかった。
クレリアは今までに出会ったことのないふたりの個性に強く惹かれ、友情を感じるようになった。黒薔薇と白百合もまた同じくクレリアとの結びつきを特別なものとして捉えた。
かくして3人は親友となったのである――。
*
「……それで、クロとシロを召し抱えたい、と?」
クレリアから話を聞かされたアッシュは見るからに困惑を隠せないという顔で尋ねた。
「いかにもその通りです」とクレリアは腰に手を当てて大きくうなずき、「決して悪いようにはしません。聞けば、ふたりの保護者はあなた方ということで、ぜひ認めていただきたくお呼びしたのです」
「保護者……といえばたしかにそうなんですが……クロ、シロ、お前たちはどう思ってるんだ?」
アッシュはテーブルの上の料理を次から次へと平らげている美しい双子の少女に問いかけた。ふたりは食いしん坊なのだ。
「クレリア姫は、なんと言えばいいのでしょう、ずっと”特別”なお方だったんですの」と黒薔薇はそら豆色の冷製パスタをくるくるっとしてはむっと一口で平らげた。
「そりゃ、お姫様なら特別なのは当然じゃないのか」
「そうではありませんわ」と白百合はオレンジ色のソースがかかった大きなエビをもぐもぐしてからアッシュのことをまっすぐな目で見た。「クレリア姫のサイオンの力はとても大きいものだったのです。わたくしたちと同じように、生まれたときからずっと」
アッシュはまた面食らった。黒薔薇たちの物言いは、クレリア姫の側に立ったものとしか聞こえなかったからだ。
「姫様は近日、この聖都カンの修道院にお入りあそばされることになっています」クレリア姫の侍従らしき中年女性が控えめに口を挟んだ。「姫様のご要望は、このおふたり……黒薔薇様と白百合様をご学友としていっしょに入りたい、ということでございます」
「いっしょに、って……」
絶句して、アッシュは軽くむせた。
助けを求めるようにカルボとセラの様子をうかがう。カルボは目を真円近くまで見開いて驚き、セラは突然の話を面白がるようにして肩をすくめ、『お前に任せる』とジェスチャーした。
「ええと、なんだ、その……クロ、シロ」
「はい!」「なんでしょう」
「お前たちはどうしたいんだ? 本当に……修道院にいっしょに入るつもりなのか」
「それは……」
黒薔薇と白百合は一度口の周りを拭ってから、お互いの顔を見合わせた。
「アッシュたちと旅を続けたい気持ち」「クレリア姫のおそばにいたい気持ち」「両方あります」「半々です」
繊細な眉間を曇らせてふたりは言った。本気で思っていることを口にしているらしい。
「でも……」黒薔薇はクレリアのことをそっと見て、慈しむように微笑んだ。「アッシュにはカルボもセラも、ドニもいます」
「けれど」白百合はアッシュたちに懇願の目を向け、「クレリア姫はずっと独り。同じ力を持った人にはずっと出会わなかった」
「わたくしたちなら」「姫といっしょにいられますわ」
自分たちの意思をはっきりと告げたふたりの少女に、アッシュは戸惑った。こんな風に言われては否定のしようがない。むしろ、自分で物事の判断ができるようになったその成長を喜ばしくさえ思えた。
「……だとさ」
お手上げという表情でアッシュはカルボたちに振り返った。
「うーん……クロとシロが自分からそう言うなら、ね。わたしたちに決められることじゃないと思う」
「私も同感だ。無理にこっちが引っ張るという話でもあるまい」
アッシュたちの反応を見て、クレリアは我慢しきれないという感じに両手をふりふりと揺らした。
「じゃあ、じゃあ、いいのですね?」
いいんじゃないでしょうか、とアッシュは苦笑いした。
どうも、そういうことになったらしい。
そのとき、ドアをノックする音がした。
「失礼、今日はもう一組客人をお招きしていて……」まだ興奮を抑えきれないクレリアがアッシュに慌てて言った。「先に話しておくべきでした、彼らはあなた方にお会いしたいと」
「自分たちに、ッスか?」
アッシュはそう口にした瞬間、領事館に入る前に感じた悪寒の、何十倍も強い何かの気配を感じ取った。
目を疑った。
ドアを開けて入ってきたのは、白と青を基調にした制服を身にまとった男たちだった。
白と、青。
そして円と十字。
それは円十字教会シグマ聖騎士団の制服であり――その先頭に立っていたのは、アッシュもよく知っている人物だった。
ロト。
3年前、アッシュに聖騎士団追放と教会からの破門を言い渡した副長ロトその人であった――。