第17章 02話 アロケルカイム王国
アロケルカイム王国は青銀珊瑚(註:陸上で育つ珊瑚の一種。銀と同じ強い魔除けの効果を持つ。高価)の一大生産地を抱える裕福で歴史ある国家である。
ここ百年は大きな災害や戦争とも無縁で、王家も国民も平和を享受していた。
そこに突如影が差す。
大規模なゴブリン一族による青銀珊瑚の森への侵略である。
鬼族の代名詞的存在であるゴブリンは人類社会にとって常に潜在的な脅威である。陰湿で嗜虐的、捻くれた性根で罠と毒と誇大妄想を練り上げ、地図上に汚らしいインクの染みをこぼすように版図を広げようとする邪悪な者共。
ゴブリンの集団的な侵略行動は必ずしも珍しいものではない。たいていは鉱山跡や遺跡に住み着いて家畜や人間を襲う程度だが、旺盛な繁殖力のサイクルの中でときおり現れる知能の高い個体が多くの集団を率い、より大きな被害を人間社会にもたらすことがある。
アロケルカイム王国は当然のごとく軍を派遣し、討伐を開始した。
数の多いゴブリンの一斉蜂起とはいえ、正規の軍隊が適切に対処する限りほとんどの場合はそれ以上深刻化しない。それは人間とゴブリンの知恵の差であり、また世界支配者の証”ジ・オーブ”の所有権が人類種にあるためでもあった。オーブの力は簡単に覆せるものではないのだ。
だが状況は悪化した。
人間側の軍略家がだれも予想しなかったほどに戦いは泥沼化し、時を経るごとに死者が増え、青銀珊瑚の森の4分の1がゴブリンの支配下に落ちた。
それはすでに国難の様相を呈し、王族の女子供を一時的に国外へ避難させる必要まで生じた。
幸いにしてアロケルカイムは周辺諸国と穏便な関係を保っていたため、これは速やかに実施された。
その中に、国王の四女クレリア姫も含まれていたが、彼女だけは他の兄弟姉妹とは別にひとりだけ聖都カンの修道院入りが決まっていた。
彼女にはそのように遇されるべき理由があった。
その理由とは――。
*
コークスは生前、円十字教会シグマ聖騎士団の団長を務めた人物である。
シグマは、聖騎士団の中でも特殊な位置づけをされるアルファ、オメガのふたつを除けば最精鋭戦力として構成されており、その責任者であった人間はそれにふさわしい場所へ葬られる。
円十字教会の本拠地である聖都カン、その地下に位置する聖墳墓殿堂の、さらに聖別された埋葬エリアがそこにあたる。
巨神文明時代の終焉、そして人類種の時代が始まって間もない頃から円十字教会はその原型が存在したとされており、額面通り受け取るなら一万年の歴史を誇る世界宗教ということになる。
現代まで連綿と続く聖騎士団の系譜においては、そこに葬られるほどの人物も膨大な数に登るが、それらを全て埋葬してもなおスペースの余裕がある聖墳墓殿堂は、他の都市の地下施設も多くがそうであるように巨神文明時代の遺跡を利用したものだ。
巨神たちの遺跡のありとあらゆる場所に円と十字の意匠を散りばめ、芸術的に非常に優れた施設でもある。そのため巡礼者だけでなく一般観光客にとっても大いに好まれている。
アッシュたちはそれに紛れ込むようにしてコークスの眠る場所へと向かっていた。
「見てあれ、すごい大きな柱!」
「わあ、本当に」
「どうやって立てたのかわかりませんの」
カルボと黒薔薇、白百合はいつもの旅装束でなく墓参りになるべく似つかわしい落ち着いたものに着替えている。とは言え、やいやいと物珍しそうにあたりを見物する様子はただの観光客にしか見えない。少し騒々しいくらいだが、ドニエプルが龍骸苑の行者としての正装を着込んでいるのも同じ理由で、ひと目で何者か分かる方がかえって目立たないというカルボの判断があった。
そう、目立つべきではない。
アッシュは円十字教会から破門を宣告された身だからだ。
「どうした、顔色が悪いぞ」長い銀髪をフォレストエルフ流の礼装に結い上げたセラが、からかうようにアッシュにささやいた。「カルボの言うとおりだ。もっと堂々としたらどうだ」
「……そうしたいのは山々だけどな」
アッシュは声を低くしてあごの下の汗をぬぐった。冷や汗とはよく言ったもので、手の甲に本当に冷たい雫が残る。
――気軽に言ってくれる。
周囲の視線を気にしつつ、アッシュは顔を伏せドニエプルの陰に隠れるように墓所の奥へと進んだ。
もし通路の要所に立つ警備員が自分を破門者だと気づけばどうなるだろう。教会の中枢、その中でも聖所とされている場所である。拘束され、教会の敵として処罰されるだろうか? いや、不祥事の処罰としてすでに聖騎士団を追放された上にさらに罰を加えるようなことは出来ないはずだ。だが少なくとも歓迎はされまい。特にかつての同僚だった聖騎士に見つかれば、忌み嫌われ追い払われるだろう。文句はいえない。そうされるだけのことを――魔導結社の罠にはめられて上官殺しをしでかしたのは事実なのだ。
だから、その程度の扱いなら正当なものだと受け止められる。シグマ聖騎士団の、円十字教会の下した罰とはそういうものだからだ。
問題は――。
アッシュは無意識に腰の後ろに手を回した。いつもはそこに差しているメイスはない。特注のハードレザーアーマーも脱ぎ、カルボに見繕ってもらった墓参り用の服を着ている。護身用のバトンだけは懐に忍ばせているが、いまのアッシュはただの旅行者と変わりない。
小さくため息をひとつ。
――俺はオジキに合わせる顔があるのか?
アッシュの頭をめぐる問題はその一点だった。
コークスに拾われなければ、アッシュはそもそも聖騎士になどなっていなかった。それどころか、戦災孤児のままどこかで野垂れ死にしていたかもしれない。
メイスを握って戦う、その意味も価値も理由も全てコークスに与えられた。
そんな自分が、不名誉の極みである教会からの破門を受けてのこのこと墓参りに出向こうとしている。少なくとも破門されて三年間は足を向けることすら避けていた。
だが――アッシュは手元にある写真の束に目を落とした――コークスの友人・ウェムラーたっての願いは承諾してしまった。彼の撮影した写真を墓前に供えると約束したのだ。
アッシュは写真を憂鬱の種として預かったが、同時に『この機を逃してはいけない』という本能的な感覚にもなった。そうした外的な要因がなければずっとコークスの墓前には出向くことがなかったはずだ。
「アッシュ、顔色悪いよ。なんか霊薬のむ?」
いつものキャットスーツではなくシックなタイトミニを着ているカルボが、アッシュのそばまで来て心配そうに顔を覗き込んできた。髪型もそれに合わせていて、雰囲気が少し大人びている。
アッシュはカルボの提案をやんわり拒否し、もう一度小さくため息をついた。
もうやるべきことは決まっているのだ。
あるいは、自分ひとりだけならもっと死地に赴くような気持ちだったかもしれない。
だが今は一緒に旅をする仲間と呼べる者たちがいて、それが背中を押してくれる。仲間。仲間は仲間だ。背中を預けられる相手。それもひとりじゃない。
――俺がとっ捕まっても、カルボたちが代わりに墓参りをしてくれるなら、それでいい。
アッシュの肩からようやく力が抜けた。
それを待っていたかのように聖墳墓殿堂内のめざす埋葬エリアへ続く門が見えてきた。
と、その時。
巡礼者、観光客、アッシュ一行、その他その場にいる誰もが全く想像しないことが起こった。
突然、殿堂の高い高い天井付近に青白い火花が散った。それは強力なエーテル流が空中でぶつかりあうときに生じる現象に似ており、アッシュたちは互いの顔を見比べて一斉に緊張の度合いを高めた。エーテル流の急速な乱れは闇か光の勢力から何かを召喚する際によく発生する前兆なのだ。
アッシュはあたりの様子を素早くうかがった。何かを呼び出すというのなら召喚術を使っている術者がいるはずだ。円十字教会の施設でも特に聖別された場所で妖魔を召喚するなど言語道断だが、それがもし天使の召喚であっても場違いも甚だしい行為である。教会に生涯を捧げた人物は安らかに眠り続けるべきだ。騒がしさは歓迎されない。
しかし術者らしき存在はどこにも見られず、エーテル流のスパークはより激しくなった。
「いったいこれは」「何ごとですの?」
黒薔薇と白百合の様子に変化が現れた。上空から静電気に引っ張られるように、ふたりの長い髪が扇形に逆立ち、可愛らしいスカートの裾も同じようにお椀のようになる。
「何だあれは!?」
「誰か人がいるぞ!」
巡礼者の一団が天井を見上げ、指差した。言葉通り、荒れ狂うエーテル流の渦中に肌色の肘から先が浮かんでいる。ほっそりしたもので、おそらくは女子供のそれであろう。
「あっ、待ちなさいクロ、シロ!」
カルボが慌てて制止したが、わずかに遅かった。
黒薔薇と白百合は生まれつき備わった飛行能力で宙に浮かび、エーテル流に翻弄される何者かの腕を掴みに行った。
「えい!」「やっ!」
ふたりは言葉をかわすこともなく完全に息の合った動きで何者かの腕をはっしと握りしめた。
その途端、エーテル流は透明な爆発を起こし、静謐に保たれるべき聖なる墓所に突風が吹き荒れた。
「出てきたぞ!」
誰かが叫んだ。
爆風の中心地で、何もない場所から人ひとりが穴を抜けるようにして現れていた。
小柄である。子供、女の子だ。黒薔薇と白百合と同じくらいの外見年齢。気を失っているらしく、ふたりに両脇を抱えられぐったりとしている。
それが何者であるか、その場にいる誰にもわからなかった――ただひとつ、これが何らかの事件の始まりになるということ以外は。