第02章 05話 絶叫頭脳
”浮遊する絶叫頭脳”は金切り声を上げ、アッシュたちに迫った。
側頭葉に生えた、引きずりだした腸を束ねたかのような触腕が空中から突き出される。その先端は鳥のくちばし状にになっていて、人間の頭など果物のように食い破ってしまいそうだ。
「こいつぁすごい!」
アッシュは瞬時に鋼鉄のメイスを構え、触腕をフルスイングで打ち返した。
空に浮かんだ叫び声を上げる巨大な脳みそ、などという醜怪な生き物を見るのは初めてだったが、手応えはあった。
アッシュは薄く笑った。
手応えがある。ならば殺せる、このメイスで。
その双眸から何かが抜けて――かわりにぞっとするモノが宿った。
「きぃェェェェェェッ!!」
浮遊頭脳が耳を聾する絶叫を上げた。
あまりの騒音にカルボは耳を抑えしゃがみこんでしまう。骨がびりびりときしむような音だ。これは単なる声ではなく、相対するものを一時的な行動不能に陥らせる特殊な機能なのだろう。
カルボに触腕が襲いかかった。
アッシュはその正面に滑り込み、メイスで打ち返し、その振りを体重移動に使って回し蹴りを叩き込んだ。金属製のブーツによる蹴りは、メイスには劣るがそれでも人間相手ならば一撃でこめかみを割る程の威力がある。
くちばし状の先端にはヒビが入り、白濁した体液が点々と床にこぼれた。
絶叫する頭脳に果たして感情はあるのだろうか。前頭葉の一つ目でアッシュを睨み、絶叫音波の矛先をアッシュに向けた。
「きゅアァァァァァァッ!」
「……うるさいッスよ」
アッシュのつぶやきは、音量の全く違う絶叫の中でも何か恐ろしい響きがあった。
ダッシュで床を滑り、絶叫の範囲からするりと抜けると、鎧のベルトに挿した小さな手投げ斧を取り出し――次の瞬間には投擲し、脳みその裏側に突き刺さった。
巨体相手にどこまで痛みを与えたのか計り知れないが、絶叫する頭脳は空中での姿勢をわずかに崩した。
「カルボ!」アッシュは頭脳を真下から睨みつけたまま言った。「庇いきれない、どこかに逃げろ!」
カルボは一瞬唇を引き結び、それからつきだした。
アッシュはカルボに避難の指示が伝わったと気配で感じたつもりだったが、カルボの取った行動は予想外だった。
ベルトのホルダーにつけたエリクサーポットを巨大な頭脳の目玉に投げつけたのである。
「ひぃャャャャッ!?」
絶叫、いや悲鳴が上がった。
そのエリクサーは水分に触れると毒に変わるものだった。全身がぬるりと湿った脳みそにはてきめんな効果を発揮した。前頭葉がまだらに紫色になり、数滴は眼球に入ったらしく、透明なまぶたが何度も閉じたり開いたりを繰り返す。
「ばかにしないで!」カルボがアッシュのことを指差した。「わたしだってプロなんだから! 泥棒の!」
アッシュは一瞬、状況を忘れてぽかんとなった。
「……泥棒の?」
「泥棒の!」
「わかった、そういうことなら……」マントの中から投げ斧をもう一本投げつけつつ、「手を貸してくれ、カルボ!」
*
絶叫する頭脳は、果たしていつから巨神文明の遺跡の中にいたのだろう。
メッセージの中に自らを”孤独な研究者”と称したジャコメ・デルーシアなる人物が生前に神殿の天井に潜むよう仕掛けたのだろうか。
ジャコメの残したメッセージには”安全装置”という記述がある。
ならばジャコメがそのように命じたか、何らかの手段で強制したと見て間違いないだろう。
だがジャコメは何時の時代を生き、何時の時代に死んだのか、アッシュたちにはわからない。
アッシュたちが神殿まで昇ってくる時を延々と待ち続けていたのだろうか。もしアッシュたちがたどり着かなければ、いったいいつまで、誰を待ち続けることになっていたのだろうか――。
アッシュたちが神殿に踏み込んだのは”浮遊する絶叫頭脳”にとって幸福だったとも言える。
これで彼はようやく死ぬことができる。
*
毒を浴びた脳みそは一時的に浮遊能力を乱されたようで、高度が下がって床すれすれにまで落ちてきた。
それを見逃す手はなく、アッシュは鋼鉄のメイスを渾身の力で叩き込んだ。
脳みその感触は予想に反しやや固いものだったが、容赦ない鈍器の衝撃を耐え切れるほど頑丈ではなかった。
一撃は皮質を貫いて内部までめり込み、どろりとした中身が盛大にぶちまけられた。危うく身にかぶるところだったカルボは悲鳴を上げたが真正面からそれを浴びたアッシュは瞬きすらせず、静かで硬質な殺意の眼差しを向けるだけだった。
「ア……アッシュ! これ使って!」カルボはエリクサーのポットをアッシュに渡した。「さっきの毒! 肌に触れないようにしてね!」
アッシュは脳汁にまみれたメイスの頭にポットを引っ掛け、脳球同士の隙間に突っ込んだ。
絶叫脳球はまさしく絶叫した。叫びによる攻撃ではない。純粋な苦痛による悲鳴だ。
右脳と左脳の間が見る間に毒に染まり、脳みそは神殿の床を盛大に汚しながらのたうち回った。
その光景を見て、カルボは内心恐々とした。毒薬として購入した――違法エリクサーを扱う悪徳薬剤店から”タダ”で購入した――のは自分だが、まさかここまで威力が強いとは思っていなかったのだ。そんな劇物を気軽にベルトに挿していたことを思うと血の気が引く。
そして、アッシュもまた恐ろしい。
苦痛から逃れようと残された力で浮かび上がろうとする脳みその触腕を踏みつけ、まだ動いている小脳をメイスで叩き潰し、ゆっくりと回りこんでただれた眼球をブーツで蹴り潰した。
「しぶといな。これ、どこまでやったら死ぬんスか?」
ぽつりと脳みそに尋ねるそのさまは、カルボを動揺させた――瀕死の怪物に何を尋ねているのだ?
アッシュはメイスを無造作に2、3回叩きこんだ。虫や魚は完全に死んだと思ってもぴくぴくともがく。その時虫や魚は生きているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか。そんな単純な疑問を、単純な方法で解こうとするかのように。
結局、絶叫する脳みそがいつ、どのタイミングで死んだかはわからなかった。
だが今日この時のために神殿の天井に潜んでいたその年月のことを思うと、無意味な疑問にすぎないだろう――。
*
さて――。
真鍮色のふたつの球である。
神殿の祭壇から取り外したふたつを使わなければ、ここまで来た意味はない。
アッシュとカルボは球を蒼い柱――ジャコメは”タンク”と記していた――のくぼみにはめ込み、かちりと押し込んだ。
ごぼ。
柱と見えていたのは不透明なサファイア色の液体だった。”タンク”というのはその液体の入ったガラス製の筒で――それは音を立てて激しく泡だった。
「なにが入ってると思う?」
見る間に水位が下がっていくタンクを見上げつつ、カルボがややこわばった顔で尋ねた。
「あー……」全身に浴びた返り血ならぬ脳汁もまだ乾いていないアッシュは口ごもり、「全然思いつかない」
やがてタンクの水位が半分ほど排水されると、長い布のようなものが液体の中で揺らめき始めた。間をおかず、水面から顔が現れた。
顔である。
布と見えたのは長く量のある髪の毛で、左側が黒、右側が白い。
すぐに顔が見え、首が見え、肩が、胸があらわになる。
アッシュは眉をひそめ、タンクから少し目をそらした。中に入っているのは裸の女だった。まだ年若い。10代前半くらいだろうか。そういうものはまじまじと見るものではない――とアッシュは思っている。
「みてほら! おっぱい! 女の子だよ!」
なぜかカルボが興奮し、アッシュの背中をバンバン叩いた。しっかり見ろとでも言いたげだ。
やがて全ての液体が抜けきり、圧縮空気の漏れる音とともにタンクの蓋が開いた。
「ど……」アッシュは動揺し、「どうすりゃいいんだ、こんなモノ……?」
「とにかくタンクから出してあげようよ」
アッシュはなにがなんだかわからないまま黒髪の少女をタンクから引っ張りだし、マントで包んでやった。
ふたりの少女は眠ったまま――それとも死んだまま――動こうとしなかった。
ジャコメ・デルーシアなる人物の遺産だというこの少女たち、いったい何者なのだろうか?
第02章終わり
第03章に続く




