2.施設での生活
翌朝、枕元の目覚し時計をみて、さやかは飛び起きた。
今日は土曜日で、学校はもちろんお休み。そして、仕事があるわけでもなかった。
それでもさやかは枕元のメガネをはめてから、大急ぎで、お洒落っ気のない、無地で白色のパジャマを脱ぐと、クロゼットのハンガーにかけてあった学校の制服に着替える。
ファッションに興味のないさやかにとっては、これが私服のようなものであった。制服ということで、作りも頑丈である。
さやかの部屋は、さながらビジネスホテルのようであった。6畳のほどの部屋に、ベッド、ちいさな机、テレビ、シャワーにトイレと最低限必要なものがコンパクトに備え付けられている。もちろん、ホテルと違って掃除は自分でしなければならない。
同僚のなかには、部屋を自分の趣味にあわせて女の子らしく飾り立てる人もいるが、さやかは不思議とそういうことに、興味がなく、一切部屋には手をくわえていなかった。
ただ、机の上には、今のお客である、咲子と二人でピースサインをしている写真を飾っていた。
その小さな机の上に、昨晩読みかけて放り出してあった、咲子に関する資料を掴み取ると、鞄に入れて、髪のセットもそこそこに、部屋を出た。
肩まで伸ばしたセミロングの黒髪を揺らしながら、急いで、管理棟へ向かう。
森のなかにある施設の窓には、新緑の木々が、初夏の風に揺れていた。
さやかのいる施設は、人材派遣業を行なっている。国民の福利厚生の充実という公的側面もあるので、国からの出資も受けており、半官半民の経営形態となっている。
その業務はといえば、子供のいない老夫婦に5歳くらいの教育の行き届いた、孫代わりの人材を用意したり、見栄をはりたい教育ママのために、東京の有名大学へも軽々合格するくらいの学力を備えた、高校生くらいの少年少女をその人の子供として、あるいは親戚として派遣したりする。
派遣期間は、内容によりまちまちで、1日という短期レンタルもあったりする。
さやかも、5歳くらいのときは、子供のいないある夫婦の孫として、派遣されたことがあった。
その夫婦はさやかをとても気に入っていたようで、たびたびご指名があり、派遣されては、その夫婦と一緒に、楽しい時間を過ごした思い出が、さやかには残っていた。いまでも、ときどき、およばれしたりするし、手紙が来たりする。
そんなさやかも、いまは14歳である。
そして、現在は、中学校でひとりぼっちになっていた咲子の友達として、派遣されているところなのであった。
さやかは幼い頃の記憶がなかった。自分は、どうしてこの施設にいるのかわからなかったが、自分は親に捨てられてここへ引き取られたのだろうと思っていた。さやかの他の同僚たちも、きっと自分と同様、親に捨てられてここへ来たのだろうと思っていた。
息を切らして管理室の前へやってきたさやかは、呼吸を整えてから、
「失礼します」
と、ドアを開けた。
職員室のような管理室の中程に、パステルピンクのブラウスと、ライトグレーのパンツを着た、耳が見えるくらい髪の短いボーイッシュな女性が、さやかの担当職員の美羽が座っていた。同じ職員でも、さやかとちがって派遣されるのではなく、さやかたちを管理する側の職員である。私一人で、20人くらい抱えているの、と、さやかは美羽から聞いたことがあった。
美羽は、さやかに合う仕事を用意したり、スケジュールを調整したり、お客とのもめごとを解決したり、はたまた、さやかの体調や心のケアをしてくれる。さやかが幼いころからの世話役だったので、最初、さやかは美羽と本当のお母さんと勘違いしていた。
さやかは、美羽に駆け寄ると、持ってきた資料を胸に抱えながら、寝坊してしまったことをお詫びした。
今日の朝8時から、咲子の経過について、美羽と打ち合わせる予定だったのである。昨日のよるの予定だったが、美羽はさやかが疲れているのを気遣い、翌朝ということになっていたのであった。
美羽は机の資料から、目を上げて、さやかをじっと見つめた。
「よく眠れたかしら? ランチでもしながら、話しましょうか」
美羽は、さやかの遅刻をとがめることはなく、机に両手をついて立ち上がった。
咲子との関係は順調だったし、咲子の家庭、学校、周辺の環境に大きな変化はなかったので、打ち合わせはすぐに終わった。
「今日はお休みなんだから、仕事のことは忘れてゆっくりしてね。そういえば、明日は、咲子さんとデートで、遊園地に行くんだっけ」
美羽のちゃかすような声に、考えごとをしていたさやかは、自分が今食堂にいることに、あらためて気がついた。テーブルの上には、デザートのアイスクリームに刺さっていたポッキーが溶けて落ちそうになっていた。
「あまり考えこんではだめよ。どうせ、大人になったら、咲子さんは、さやかのことなんて、忘れちゃうんだから」
美羽は、お客に入れ込みすぎるさやかを気遣って、あえてすこし冷たいことを言ってみた。
「そうですね」
さやかはうなづくと、やっとアイスクリームのスプーンを手にとって、食べ始めた。
部屋に戻ったさやかは、机に腰掛けると、携帯電話をチェックした。咲子から明日は楽しみ、というメールがあったので、そうだね、と返信しておいた。
それから会社から支給されている小型のノートパソコンを開いて、明日の旅程やスケジュールをチェックした。
一息ついたさやかは、カーテンを閉めて部屋を薄暗くしてから、制服をハンガーにかけて、ベッドに横たわった。
どうして、こんなに疲れるのか、わからなかった。最近やっときた、遅めの初潮に、体が慣れていないせいなのかもしれない。今度、美羽に相談してみようと思った。
ちょっと寝るだけのつもりだったが、いつの間にか、さやかは静かに寝息を立て始めた。
午後のゆるやかな日差しが、カーテン越しに薄暗い部屋に差し込んでいた。
さやかが目を覚ましたのは、夕方の18時過ぎだった。明日は、遠くの遊園地へ行くので、朝5時には起きて、支度をしなければならない。今晩、眠れるだろうかと、心配になってきた。
カーテンを開けると、黒い森の向こうに、赤く染まった夕焼け空が広がっていた。明日は天気もだいじょうぶそうである。
すこし汗ばんでいたからだをシャワーで流して、机の前に腰掛ける。
夕食の時間であったが、夕方のこの時間は混雑する。さやかは混雑を避けて、20時前に行くことが多かった。
明日もって行く荷物を、リュックサックに入れたりして、準備をしていると、ようやく、19時30分になった。
さやかは、トレードマークの制服を着て、部屋を後にした。
食堂までの廊下は、冷たい裸の蛍光灯で照らされていた。食堂へ歩いていくと、遠くにある体育館から、時折にぎやかな声が聞こえてきた。
窓の外はすっかり真っ暗である。あらためて、この施設が山奥にあることを思い知らされる。しかし、どうして、こんな僻地に作る必要があるのだろうか、と時折さやかは疑問に思う。
べつに悪い事業をしているわけではない。むしろ、捨て子の自分をひきとり、住む場所と食べ物を与えてくれて、また、社会で困っている人に向けて、人材を派遣している。
しかし、さやかのような子供を働かせるのは、よくない事のような気がする。そういえば、テレビでも、夜おそい時間帯は、子供のアイドルは出演しない。なにかの法律に違反している事業だから、ひっそりとやる必要があるのだろう。
食堂への通り道にある休憩室には、職員同士が自由に交流できるよう、椅子やテーブルが配置されている。
さやかは、朝早い、だれもいない時間に、ここでなにも考えず、窓の景色を見て、ぼんやりしているのが好きだった。
その場所で、さやかと同じ年齢くらいの、男子と女子が、明かりを消した中で、顔をよせあっていた。行為に夢中で、さやかには気がついていないようである。
よく見ると、男子は女子のブラウスをはだけさせて、そこに手を入れ込んで、ゆっくりと女子の体を愛撫しているのがわかった。耳を澄ますと、二人の荒い息遣いが聞こえてきた。
さやかは急に、気まずくなり、静かにその場を立ち去った。
部屋でやろう、東京の地下鉄のポスターを思い出した。
もっとも、自分の部屋には、ほかの人を連れ込むことは禁止で、だから、休憩室があるのだけど。
20時前の食堂は、いつもどおり閑散としていた。
今日は寝てばかりで、食欲も湧かないので、サンドイッチとコーヒーのセットにした。
さやかが食券販売機のボタンを押すと、それだけで、食券が発行される。さやかの指紋をボタンが読み取り、給料から天引きという形で、月ごとに請求される。部屋の鍵も、指一本で開く。
さやかは、夕食を受け取ると、食堂を見渡し、てきとうな場所に腰掛ける。
「あら、ひさしぶり」
さやかが、サンドイッチを手に取ったとき、お盆を持った、高校生くらいの女の子に声を掛けられた。顔を上げると、友達ではないが、知り合いの舞子が、さやかを見下ろしていた。
舞子はそのまま、さやかの前に腰掛けて、お盆をおいた。
A定職(ごはん、味噌汁、野菜炒め)であった。
舞子は、教育熱心な母親がいる家庭に派遣されていた。
目的は、自分の家庭の子供を東京の有名大学に合格させるという、お客の夢を叶えること。舞子は、この家の実の娘として派遣された。
高校1年の春から派遣された舞子は、常に成績はトップクラスで、そのお客の自慢の娘として振舞った。
でも、その成績を維持するのは、大変だったに違いない。
仕事とはいえ、この3年間、いつも図書館にこもりきりで勉強ばかりしていた舞子を、さやかは気の毒に思っていた。
そしてこの春、舞子は東京の有名大学の医学部に合格し、ついに、そのお客の念願を叶えたのであった。
「こんばんわ、東大生のエリートさん」
さやかは冗談めかして言った。でも、舞子は視線を落として、
「もう、東大生じゃないよ」
と寂しそうにつぶやいた。
聞けば、合格したことを報告したら、お客は、
「舞子さんが、本当の娘だったらね…」
と、あまりよろこんでくれなかったということであった。
そして、お客は、自分がしていることの無意味さに気づいたのだろうか、合格した日に、舞子の派遣契約を打ち切った。
もっとも、合格したら、契約は終了だったのだが、舞子は契約を更新してくれたら、キャンパスライフを満喫できたのに、と笑った。
でも、本当は、3年間のがんばりをお客の母親に認められなかったのが、せつなかったのだろうと、さやかは思う。この3年間、お客の母親との話をする舞子は、うれしそうだった。たとえ、それが、成績と引き換えに与えられる愛情であったとしても。
舞子の合格は、施設の手により、舞子の意思とは無関係に辞退させられた。
4月から、舞子は、ときおり単発のレンタル恋人や、家庭教師の派遣をこなすものの、継続的な契約はなく、暇をもてあましていたのであった。
暇なのがいけないのだろうか、舞子の服装は最近、乱れてきているように感じられた。耳にはピアスをし、やり始めた化粧は妙に派手で、体の女性らしいラインが引き立てられる服ばかり着ていた。気のせいか、胸とお尻が大きくなったように、さやかには見えていた。さやかは舞子の胸を見て、つい自分のと比べてしまい、落ち込んだ。
髪もうっすらと茶色く染め始めたようである。3年間の間、優等生を演じてきた時にしていた、分厚い眼鏡はコンタクトレンズに変えたに違いない。仕事に差し障りがない程度のおしゃれは、許されていたが、舞子のは度が過ぎていた。
舞子が施設に反発しているのか、それとも、施設の意思なんだろうか。
「あたしも、もう18才か」
舞子は、ポケットからライターとたばこをだして、口にくわえたが、
「ここ、禁煙だよ、それにたばこは20…」
とさやかに指摘され、舞子は、残念そうに、たばこをしまった。
「やっと、あたらしい継続的な仕事が決まったんだ」
という舞子だったが、あまり嬉しそうではなかった。
さやかが、何もいえず、自分のコーヒーの水面を見つめていると、
「さやかも、手遅れにならないうちに、将来のこと、かんがえなよ」
舞子は、立ち上がり、お盆を片付けて、食堂を出て行った。
舞子がいなくなったあと、さやかは、ふと将来について、思いをめぐらせた。
そういえば、この施設には20歳以上の派遣される職員は見たことがない。20歳になると、施設を出て、自立するのだろうか。それとも、美羽は30歳と聞いているから、今度は、管理する側の職員として、雇われるのだろうか。
あるいは、本当の家族の下へ返還されるのか。
美羽に聞いても、きっとはぐらかされるだけで、話してはくれないだろう。美羽のやさしさは、いつもその場しのぎなのが、さやかにはよくわかっていたからだ。
「もうしめますよー」
調理場から、食堂のおばさんの声が聞こえてきた。