初めての試練 Ⅰ
『Bluest blue in blue』
青の中の青 ――――― 。
遠いギリシアのガイドブックを見ながら母さんが言った言葉。
母さんはあの時、エーゲ海とダブらせていたに違いない、自らの騎士の瞳を。
海は空の色を映す。
だとすれば、エティエンヌの真っ青な瞳は一体何を映しているのだろう。
あたしは遥かフランスに続いている青空を見上げた。
「なぁに、辛気臭い顔してんのよ」
「冴子・・・・?」
「あれっ、もしかして陸上部に意中の彼でも出来た?」
冴子はあたしの視線を目で追うと言った。
「・・・・」
確かにこのポジションは陸上部の練習を熱く見つめるにはうってつけである。
あたしはずいぶんと長い間、教室の窓際の机に頬杖をついたままグランドを眺めていたようだった。
でもさ、あの連中からどうやって意中の彼を見つけろというんだ?
そんなあたしの内心を正確に読み取ったのか冴子はにんまり笑い、
「そりゃ、あんたの騎士様と比べちゃ、日本の男なんて芋か南瓜よねぇ~」
と、からかいやがった。
「なっ、あいつがいいのは顔だけよ。超最悪な性格してんだから」
それに、エティエンヌはあたしの前に二度と姿を現さないだろう。五日前、あんなに傷つけてしまったのだから。
あの晩 ―――――― 。
東京まで出かけた上、エティエンヌとさんざんやりあって疲れたあたしは普段より早めに床についた。翌朝はぎりぎりまで寝ているつもりなのはいうまでもない。
けれど早朝、人の髪を何度もひっぱるヤツがいるから、誰かと思えば、あの心臓に悪い顔がどアップで。
『緋奈、何度起こされれば気がすむのです!
そんなことでジャンヌの継承者は、到底務まりませんよ』
しかも、朝から妙にテンション、高いしね。
『なんだぁ、エティエンヌじゃない。
ほら、まだこんなに暗いよ、一緒に寝よう』
あたしはエティエンヌの首を抱きよせ、布団の中に引っぱり込んだ。
だって寝ぼけてたんだもん。
起こされるのはイヤだったし、エティエンヌも一緒に寝かせてしまえば、これ以上睡眠を妨害されないと思ったのよ。
『なんとも積極的なお誘いですね』
と、エティエンヌはあたしに首を抱かれたまま、頬に口づけた。
そして、空いているほうの手でパジャマのボタンをふたつほど外し、そこに顔をうずめてくる。
そこまでされてようやく目を覚ました。
あたしはエティエンヌを突き飛ばすと、あわててベッドから飛び起きた。
『何すんのよ!』
『何ってあなたがお望みになったのではありませんか?』
『の、望んでるわけないでしょう。エティエンヌのバカ、スケベ!』
あたしは外されたボタンを急いでとめると、手で両胸を隠した。だって、何げにノーブラだったんだもん。
『なら、さっさと起きなさい!』
エティエンヌの怒鳴り声が狭い部屋いっぱいに響きわたる。
『あんた、わざとやったでしょ?』
あたしは毛を逆立てた子猫のようにエティエンヌを睨みつけた。
『当たり前です。あなたのような子供に手を出すほど、女性に不自由していません!
そんなことより、わたしのファクリティが欲しいなら、着替えてさっさと外に出なさい』
むっかぁ・・・。子供で悪うござんしたねぇ。
そりゃ、あんたはその顔だもん、女性に不自由しなかったでしょうよ。
でも、あたしは鼻先に人参をぶら下げられた馬、どんなに腹立たしくても、エティエンヌの言いなりになるしかない。
だって、ただの女子高生がなんの武器も持たずに“ゆらぎ”なんてわけわかんないのと戦えるわけないもん。
それなのに、そこまで我慢したあたしに、エティエンヌがくれたファクリティってなんだったと思う?
ただのレイピア一本よ。
あたしたちはエティエンヌが誰も近づかないように張った結界の中でまたもや睨み合っていた。
『悪い冗談よね?』
『わたしが冗談を言う性格に見えますか?
それに、これはただのレイピアじゃありません!』
『へぇ~。タダじゃなきゃいくらなのよ?』
あたしは嫌味ったらしく言い返した。
でも、エティエンヌはまったく取り合わない。
『このレイピアはジャンヌのものです』
『だから・・・・?』
『だからとは何なのです。ジャンヌが遺した貴重な物なのですよ!』
エティエンヌは整った顔をしかめ、いっそう声を荒げた。
『ジャンヌ・・・・ジャンヌ・・・・ジャンヌ。
もう、うんざり・・・・!
そんなに彼女がやり残した使命を果したきゃあんたがやればいいじゃない。
この際だからはっきり言うけどね。あたしがあんたの言うことを聞いてるのは父さんと母さんの敵を討ちたいからよ。
世界を救うだの、先祖がやり残したことを果さなきゃだの、そんなことはちっとも考えてないんだからぁ!』
あたしはそう言うと、ジャンヌのレイピアを野原にほっぽり出した。
夜明けのさやさやとした風がススキとエティエンヌのマントをほんのわずか乱していく。
息が詰まるほどの長い時間。いや本当は、数分位だったろうけど。
その間、エティエンヌは一言も口を訊かなかった、いつも怒ってばっかりいるくせに。
まるで、親にはぐれた子供みたいに、泣き出したいような叫びだしたいような顔のまま突っ立っていた。
エティエンヌは、レイピアを拾い上げた後、あたしに深々と頭を下げ、セルリアンブルーのマントを翻した。あのBluest blue in blueの瞳を翳らせて。
そして、それを境にエティエンヌは、ちらっとも姿を見せなくなっていた。
***
「騎士様とケンカでもしたの?」
「うん。エティエンヌに一番言っちゃいけないことを言ったみたい」
「ふぅーん、なんて言ったの?」
冴子はじぃっとあたしを見つめた。
母さんが遺したトランプのことも、そのトランプにエティエンヌがついて来たことも全て白状させられた瞳で。
「あんたの言うことを聞くのは世界を救うためでもジャンヌのためでもない、父さんと母さんの敵を討つためだって。
それに、そんなにジャンヌが大事ならあんたが“ゆらぎ”を退治すればいいじゃないって・・・・」
あたしは俯き、手の中に顔を伏せた。
「あんたは本当にバカね。
どうして彼が五百年以上も導きの騎士をやってんのかは知らないわよ。
でもね、これだけはわかる。彼が心からジャンヌを愛していて彼女の死を自分のせいだと思ってることくらいわね」
冴子はふうと溜め息をついた。エティエンヌと自分とをだぶらせながら。
ジャンヌ・ダルク ―――――――― 。
大人なら誰でも知っているこの歴史上の人物の右腕といわれた「ラ・イール」を調べることは容易かった。
一四四三年一月十一日。
モントーバンで死ぬまで『ジャンヌを死なせた』と悔やみ続けていたことも。
何故、エティエンヌが導きの騎士になったのかはわからない。
けれど、恋人が死んで五百年以上、彼女の子孫を守り続けてきた、これは尊敬に値する。
「うん」
「なら、あんたがやるべきことはわかるわね」
「うん、エティエンヌに謝る」
あたしは家に帰ったら、早速、謝ろうと考えていた。
それなのに冴子ってば、次の瞬間、とんでもないことを言い出したのだ。
「でも、甘えられる人が出来てよかったじゃない」
えっ、あたしがエティエンヌに甘えてるって?
「それだけは天地がひっくり返ってもありえないから!」
あたしは冴子の鼻先で手をヒラヒラ振ると、開けっ放しになっていた窓を勢いよく閉めた。
晩秋。夜の訪れは早く、すっかり暗くなった空には細い三日月が上がっていた。