ファティマの預言書 Ⅱ
「やれ、やれ。東京に行くと疲れるわ」
ようやくアパートに帰り着いたあたしは大きく伸びをした。
ここ、神原さんの借りてくれたアパートは家具家電付きで、旅行バックひとつ分しか持ち物のないあたしには、心底ありがたいものだった。
ダイニングテーブルにノートを広げると頬づえをつく。
レトルトカレーを突っ込んだ鍋があげるシュンシュンという音を聞きながら、あたしは今までの出来事をひとつひとつ整理していった。
母さんは自分たちが死ぬことを知っていたと書いていたが、それは導きの騎士とやらから訊いたのだろうか。
それに、“ゆらぎ”って一体どんな化け物なんだろう?
こうして考えてみると、わからない事がまだまだたくさんある。
刹那、キッチンから鍋が沸き返る大きな音。
レトルトカレーを温めていたのを忘れてたあたしは、勢いよく立ち上がった。その拍子に膝の上の鞄を床に落としてしまう。もちろん、中の物は全部ぶちまけられている。
まぁ、仕方ない、後から拾えばいっか。
「腹が減っては戦は出来ないってね」
ご飯にカレーをかけて、ついでに冷蔵庫から春雨サラダも取り出す。
木製のトレイに山盛りのカレーライスと春雨サラダ、ミネストローネを乗せ、部屋に戻ろうとしたあたしは自分の目を疑ってしまった。
「えっ・・・・!?」
さっきまで誰もいなかったはずの空間に『キングアーサー』ばりの騎士様がトランプを手に不機嫌そうに立っていたのだ。我ながらよくトレイを落とさなかったものだと思う。
念のため、もう一度目をこすってみる。
どうやら夢じゃないらしい。
午後の光にきらめく白金の髪は、肩に届くほど。
ブルーサファイアの瞳に縁取られた長い睫毛は、高い鼻梁に優雅な陰影を落としている。
薄い口唇が歪められているのさえ映画のワンカットのようだ。
おそらく騎士服なのだろう、セルリアンブルーのマントに、銀の刺繍が鮮やかに施された白いチュニック、といった出で立ちは、スーパーモデル並みの身長と鍛えられた体躯を持つ彼をより上品に際立たせている。
例えて言うならギリシア神話の太陽神アポロン降臨といったふう。
「Who are you?」
あたしは唐突に登場した美神に片言の英語で話しかけてみた。
「記憶力の欠如」
第一声はそれだった。聞き惚れてしまう程の美声だというのに、妙に無機質。
「日本語、話せるんですか?」
「あなたはとことん記憶力がないようですね。
その上、危険予知能力も低いとは・・・・」
むっ、なんで不法侵入してる外人に罵倒されなきゃいけないわけ?
あたしはトレイを置くと、テーブル越しに睨みつけてやった。
それにしてもこっちがいい加減、腹を立ててるっていうのに、不機嫌そうに眉を寄せたままで。
しかも、次の言い草がさらにむかつくのよ!
「あなたはバカですか?
見知らぬ男が現れたらまず逃げるべきではありませんか?」
「逃げる・・・・?」
「そう、こんなふうにされないうちにね」
「えっ・・・・?」
いきなり肩を掴まれて、後ろの壁に痛いくらい叩きつけられる。
二本の腕が作り出す甘やかな牢獄の中、容赦なく髪をつかんだ白い指に思いのまま仰向かされる。
それなのに、男の瞳を覗き込んだ刹那、がたがたと震えが止まらなくなってしまう。まるで、雷に怯える小さな女の子のように。
彼の瞳は、夜闇を切り裂く一条の光、罪人を断罪する。
人の形をした稲妻は冷たい手を頬に伸ばし、口づけという罰を課そうとした。
「あんたのしたいことをすればいいじゃない!」
あたしはやけっぱちになって叫んだ。
もし、自身を差し出した代償に彼という剣を得られるなら、この見知らぬ男に抱かれてやってもいい。神の雷など恐れるものか。あたしはどんな手段を使おうと自分の運命に復讐すると決めたんだから。
「これ以上、無くすものなんかないのよ」
あたしは口唇を突き出すと、大人しくまぶたを閉じた。
「緋奈・・・・」
あたしの名を呼んだ男の腕が唐突に緩んだ。
「導きの騎士さん、あなたのお名前は?」
「ラ・イール・・・・」
「ラ・イール?」
あたしはオウム返しに訊き返した。
フランス語は選択科目の一つとしてこの春から習ってるけど、あたしの少ない語彙にこの言葉はなかった。
「怒れる者と言う意味の古語です。今では癇癪持ちと訳されることが多いようですが」
「へぇ~。それで、ラ・イールはあなたの名字なの?」
「いいえ、あだ名です。
本当の名は、エティエンヌ・ステファン・ド・ヴィニョール」
「ふぅーん。じゃあ、エティエンヌ。あなたの知ってることを話してくれない?」
あたしはさも当然のようにお願いすると、恐ろしいほどこの部屋に不似合いな騎士様に向かいの席に座るように頼んだ。
でも、いつまで待っても座ろうとしない。
いいかげん痺れを切らしそうになった頃、ぽつりと言った。
「ラ・イールと呼んでいただけませんか?」
「いや!」
一言の元に断ってやる。すると、騎士様は狷介そうな眉をピクリと動かした。
「あなたのお母様は、わたしをラ・イールと呼んで下さいました」
「だから・・・・?」
「ラ・イールと呼んでください!」
「いや! さっき、あたしのこと、緋奈って呼び捨てにしたじゃない。
だから、あたしもあんたのこと、エティエンヌって呼ぶわ!」
あたしの言い分にエティエンヌが、がっくり肩を落とす。
ふふふっ。あたしはむっとしてるエティエンヌの顔を見ながら、さも可笑しそうに声を立てて笑ってやったのだった。