恋を眠らせて Ⅲ
「ずいぶんと大荷物ですね」
エティエンヌがあたしの旅行バックをちらっと見て言った。
「うん。“そうだ、京都へ行こう”なんてことになるかもしんないからね。
それよりあんた、稲荷社へは歩いて行くからしっかり姿を消しててよ」
「何故、そんな面倒くさいことを?」
「この罰あたりが。
巡礼者はエルサレムに徒歩で行くでしょうが、それと同じよ!
大体、場つなぎで行ったら気持ち悪くてしゃべれなくなるじゃないの」
あたしがそう言ったとたん、エティエンヌはぱっと姿を消した。
こんな早朝、誰かにそうそう会うとは思わないんだけどね。でも、念には念を入れねば。
もう店を開けてるお豆腐屋さんで油揚げを十枚買うと、おっちゃんが、
「稲荷社に行くんかい? 若いのに感心だね」と、油揚げを一枚サービスしてくれた。
そして、いつものコンビニの角を曲がり、緑が丘一丁目の点滅している交差点を渡ると、そろそろ稲荷社が見えてくる。
あたしは鳥居の前で立ち止まると、相棒の名前を呼んだ。
「エティエンヌ、出てきていいよ」
姿を現したエティエンヌと一緒に鳥居をくぐる。
昨日と同じように手水屋で清めをしてから拝殿へ向かう。鐘を鳴らし、油揚げを置いてから、二拝、二拍手、一拝する。
「お稲荷さん、お手すきだったら出て来てくださいませんか。
出来たての油揚げもありますよ」
さっきから隣で、『コイツ、何してるんだ?』って顔のエティエンヌを無視してあたしは目を閉じて深く祈った。
数分ほどして、
「おお、大正屋の油揚げやんか。
あのおっちゃん、いい仕事しよるからな。うれしいわぁ~」という暢気な関西弁が聞こえてきた。
もちろん、昨夜と同じように賽銭箱の上にぷかぷかと浮いている。
「っ・・・・!」
はは、エティエンヌってば、三歩くらい後ずさってやんの。
昨日、白い狐がお使い神だと教えといたんだけどな。
「うん、ゴマ豆腐もおいしいんだよね」
あたしは、「やあ!」と手を上げながら答えた。
「なんや、昨日の今日でどうしたんや?」
狐さんは相変わらず飄々とした様子で、あたしの隣のエティエンヌを興味深そうにながめている。
「うん、うちの相棒の紹介ついでにお願いしたことがあって。
えっと、隣にいるのはあたしの相棒の騎士、エティエンヌ・ステファン・ド・ヴィニョール。
あたしともどもよろしくお願いします」
あたしはエティエンヌと一緒に頭を下げた。
「ああ、よろしくな、エティエンヌはん。
なんや言いづらいなぁ。エチはんでよろしいか?」
はは、エティエンヌってば、めちゃくちゃ面白い呼び名になってやんの。
さぞかし怒ってるだろうと思ったら。エティエンヌは騎士が主にするように跪いていた。
「御意。若輩者ですが、お見知り置きくださいませ」
あたしと狐さんは驚いてお互いの顔を見合わせた。
「どうしたのエティエンヌ? お稲荷さん、びっくりしてるよ」
「あなたこそ、気安くお稲荷さんなどと。この方は非常に神格の高い神ですよ」
「うん、そうだよ。箭弓さんは日本三大稲荷の一つだし、その縁起は八世紀初頭に遡るくらいだもん。
しかも、古くから坂上田村麻呂、源頼信と言った名だたる武将を助けているしね」
「それなのに、何故・・・・?」
「それはわしから答えてやろう。
緋奈の言葉づかいはエチはんからすりゃ不敬に見えるかもしれん。
だがな、この日の本では神と人との距離が近い。
それにな、わしには見えるんや。緋奈が、わしを心から敬い、父親のように慕ってくれとるんがな」
エティエンヌはハッとしたようにあたしを見た。
あたしはそれに頷いて、
「実はね、初めて“ゆらぎ”が怖くなくなったんだ、お稲荷さんが味方だって言ってくれたから」
すると、狐さんはあたしの言葉を補足するように、ゆっくり語り始めた。耳をぴんと立てて、細い目をますます細くして。
「あのな、エチはん。わしたち、稲荷が緋奈の味方をしよ、思うたんはこの国が危なくなるからだけやないで。
この子が不憫だったからや。
両親を亡くしよった緋奈が“ゆらぎ”なんてけったいなもんを倒そう思うたんはただの復讐からやない。自分と同じように大事なものを失くして泣く子供がおるのがいややからや。
エチはんは緋奈がジャンヌ・ダルクの生まれ変わりやさかい、“ゆらぎ”を倒すのは当然と考えとるかもしれん。
だがな、緋奈は神から選ばれて“ゆらぎ”退治をせいと言われたわけやないで。自分から好き好んで茨の道へ足を踏み入れたんや。その違いがわかるか?
それとな、エチはんには聞こえんかったか?
この子が毎晩『助けて、怖いよ』と叫んどるんが。
わしはよう聞こえたさかい。緋奈を助けることにしたんや」
うわっ、狐さんてば、そんな恥ずかしい。昨日はそんなこと、ちらっとも言ってなかったくせに。
「わたしは、ジャンヌの生まれ変わりの緋奈が“ゆらぎ”を退治することを当然と考えていました。
いいえ、“ゆらぎ”退治が緋奈の使命とすら考えてました。
だから、両親の敵を取るためだけ“ゆらぎ”を退治すると彼女が言いだした時、とても腹が立ちました。
何故、ジャンヌだというのに、神から選ばれた乙女だというのに、復讐というちっぽけな理由で“ゆらぎ”を退治しようとするのかと。世界を救うためではないのかと。
けれど、先日。彼女が『あたしは紫堂緋奈だよ。ジャンヌじゃない。
もし生まれ変わりだとしても、あたしたちは違う人間なんだよ!』と言った時、初めて気付いたのです。
彼女はジャンヌとまったく違う人間で、ジャンヌの使命を押し付けられるのはいい迷惑なんだと」
エティエンヌは狐さんの目をそらさずに言った。
「そうか、気付いたんか。
もし、気付いていなかったら足手まといやさかい、殺してまおうかと思ったんやがな」
あたしはぎょっとした。
「お稲荷さん、そんな冗談言わんと・・・・」
いやだ、驚きすぎて関西弁が移っちゃったじゃないの。
「いいや、冗談やないで。
あんさんを一番守るべき男があんさんを一番傷つけとる。そんな男、よういらんわな。
それにな、そんなけったいな毛唐の道具に頼らんかて、この日の本には三種の神器も十種の神宝もあるよってに。わしがこれからちょいと行って天照はんから借りてきたるわ」
うわっ、狐さん、三種の神器ってちょっと行って借りて来れるもんなの?
しかも、天照大神ってば日本の最高神じゃ?マジやばすぎるよ。
それに、あたしは・・・・。
「お稲荷さん、やめて! それでもエティエンヌと一緒に戦いたいの!」
あたしは縋りつくように叫んだ。
すると、狐さんはそれが聞きたかったんやとばかりににたりと笑った。
「よしよし、よう言ったな。
エチはん、緋奈があんたはんを選んどるさかい、取りあえずあんたはんに預ける。
だがな、次はないで」
狐さんはエティエンヌにきらりと光る目を向けた。
「はい、肝に銘じます。
二度と緋奈を泣かせません」
エティエンヌは膝をついたまま、深々と頭を下げた。
「まあ、いいやろ。
それで、わしに聞きたいことがあって来たんやろ?」
ようやく狐さんがあたしに優しい顔を向けた。
ああ、めちゃくちゃ緊張した。
でも、あたしは相変わらずお稲荷さんをちっとも怖いと思えない。
まるで、娘を嫁にもらいに来た男を試すみたいな雰囲気を感じたから。
「うん、偉い竜神様を紹介してもらえないかな?」
「そか、貴船に行くか?」
「うん、同じ竜神様なら、何かの手立てをもらえるんじゃないかと思って」
「そやな、それが一番やろな」
「でも、貴船の高淤加美神は会ってくれるかなぁ?」
それが一番心配だった。京都くんだりまで高額の新幹線代を使って行って、はい、会えませんでした、じゃ話にならないもん。
「そやな、確かに貴船のはここ千年ほど人に姿を見せとらんな。
わしからも伏見の稲荷大神に連絡入れとくさかい、緋奈も伏見に寄ってから行くといいやろ」
せ、千年?それって平安時代から姿を見せてないってこと?
そんな神様が会ってくれるの?なんかめちゃくちゃ不安になってきた。
「お稲荷さん、あたし、月に行ってウサギとじゃんけんしてくる方が簡単な気がしてき
たんだけど?」
あたしは仔犬のようなウルっとした目で狐さんを見つめた。
「大丈夫や。案ずるより産むがやすし、っていうやろ?」
わーん、そんなことわざじゃぜんぜん安心出来ないよ。
だって、出産の時に死んじゃう人だっているんだよ~
「しゃあない。緋奈はへたれやさかい、いいもんやるわ」
狐さんはそう言うと、何かをぽいっと放って寄こした。
「狐・・・・?」
狐さんがくれたのは手のひらに入ってしまいそうな小さな狐だった。
「これは一回だけ、あんさんの難儀を救ってくれるいうもんや。
気をつけて行ってくるんやで」
「ありがとう。あんじょう気張ってくるわ」
あたしは狐さんにお礼を言うと、疲れ切ったエティエンヌを連れて稲荷社を出た。
「土産は、生八つ橋でいいで」という狐さんの声を聞きながら。