前編
BL転生ものです。
閲覧頂きありがとうございます。勉強不足な点が多々ありますがご容赦下さいませ。それではしばしお付き合い下さい。
時は平安時代中期。
築地で囲まれた一辺120メートルの敷地を持ち、東西に正門を開いた屋敷の中庭に、ひとりの姫がいた。小川の水が注ぎ入れられた豪勢な池を、長い黒髪と小袿を地面に垂らして覗き込んでいる。この姫、千姫は先程からずっと、こうして池をただじっと見つめていた。その瞳はどこか物憂げだ。千姫は公家の家の娘で、14歳。この間元服の儀式を済ませ、形式の上では、一応大人。そして千姫は数日前、上流階層の青年から結婚を申し込まれていた。
「…千姫」
前栽の影から現れたのは、褐衣姿の青年。千姫は、揺れる水面に視線を馳せたままでいる。
「姫、髪が汚れてしまう。どうかお立ちを」
青年が彼女のすぐ後ろまで近づき囁きかけても、姫は何も答えない。ただ、ぼんやりと水面を見ている。
「千姫?」
3度目の青年の声に、姫は重たい小袿姿をゆっくりと振り向かせた。
「翔景…様」
ぼとぼとと、千姫の瞳から涙が流れていた。次々溢れる雫はまるで、雨のように。
「私、どうしたらいいのでしょう!」
「姫…」
「翔景様と離れるのは…嫌です!」
千姫が涙ながらに叫んだ。青年、翔景は悲しげに瞳を伏せる。二人は言葉無くただ水面を見つめる……ふいに、姫が青年の胸に飛び込んだ。
ぐすっ…と青年の胸に涙の瞳を埋める。普段気丈にしていても、本来はか細い少女でしかない幼い姫を、青年はそっと抱きしめた。もうすぐ貴族の男性のもとへ嫁に行ってしまうこの幼い姫を、繋ぎとめる力が自分にあれば。随身の職につく翔景は、貴族に勝るほどの権力も財産も持たぬことなど、とうに知っている。
しかし、どうにかしてこの少女を守りたい。青年は、そんなことを思っていた。
「千姫…例え身体は離れていようと、貴女が私のことを想っている限り、私の心は貴女と共にある。だから、千姫…」
翔景の言葉に、千姫は泉のように涙を湛えたその瞳を上げ、
「そんなの…嘘!肉体が離れた時、心もまた、離れるのです。もう死んだ母様と二度と会えないのと、同じです…」
と、言った。言葉の最後は、青年にも聞き取れぬ程の小さな声で。
悲痛に泣き続ける姫を、青年は戦士が邪悪な物の怪から愛する者を護るかのように、強く抱擁した。
一月前のことである。
元服の儀式を終えたばかりの千姫に、歌合わせの催しに訪れていた貴族の青年が目を留めた。千姫は、絹糸のように繊細な美しい黒髪の持ち主で、何より髪の美しさを重んじた平安の男性達に評判が良かったのである。この青年、名は清隆といい、文武に長けたなかなかの美男子だった。
歌会の数日後、清隆はさっそく千姫に求婚の文を出す。千姫は戸惑うが、義母はたいそう喜び、姫に返しごとの文を送るよう勧めた。こうして千姫の結婚の話は本人の気持ちを置き去りにたちまち進んでいき、ついには清隆が屋敷に通されるところまで進んで行く。
…平安時代の結婚までの過程は実にまだるっこしいもので、まず男性が意中の女性に求婚の文を送り、女性からの返事の文(返しごと)を待つ。そのあとしばらくの間は恋の歌の文の交換が続き、女性からの内報で男性はようやく、女性の家を訪ねることが許される。が、この時点ではすのこまでの侵入しか許されず、男性は女房を通じ女性と歌を贈答し、朝には帰って行く。さらにそれらの回を重ねる事でついに、屋敷に入る事を許されるのだ。そうなるとあとは短い。二人が結ばれた直後に男性が送る「後朝の文」と両親の合意で正式な結婚が決まる。
と、これは貴族の間では常識であり、千姫も何度もそう聞かされていた。だから自分がもうすぐ嫁に行く事になるのだという事は理解していた。きっとこの結婚は避けられない。家の為にも、喜んでくれた義母の為にも。
文を交わし、数回顔を合わせた限りでは、相手の男性は上品で歌も上手く、自分には勿体ないくらいの好青年だった。同じ年頃の姫の中には、自分と倍近く歳の離れた父親のような男性と婚儀をあげた子もいるのだから、これはとても幸運な事と言える。
でも、千姫は憂鬱だった。本当ならこんな結婚はやめにしてしまいたかった。千姫は想い人の名をひっそりと呟いた。
翔景様。
彼、翔景は千姫の家を代々護る随身の家の生まれ。弓が得意で、千姫の父からも篤く信頼されている、随身として有望な若者である。千姫とは姫がほんの子供の頃から一緒だった。いつも姫の事を案じ、危険から護ってきた翔景。
千姫は、いつしか翔景を一人の男性として愛するようになっていた。翔景もまた、身分違いの姫を愛していた。想いが通じ、二人はしばし幸せな時間を過ごす。
しかしその幸せは長くは続かなかった。婚儀が行われたら、二人はもう逢うことも許されなくなる。
それはつまり、この恋の終わりを意味していた……
「…輪廻転生」
「へっ?」
翔景が、千姫を抱きしめたまま呟いた。唐突だったので、千姫は思わず間抜けな声を出す。
「仏様の教えでは、人は、死んだらまた違う人間に生まれ変わると」
「は、はい」
「なら、千姫…私と一緒に、」
死んでくれますか。
翔景ははっきりと言った。千姫は驚いて翔景を見上げる。
「本当は私とて貴女を他の男になど渡したくない。しかし仕方がないと思っていた。身分が違うのだからと…しかし、貴女が私と共にと願うのなら、どうか」
「翔景様…」
「仏様のおっしゃる事が事実ならば、きっと来世でまた出会える。今生で結ばれる事は敵わずとも、転生した世では、必ず」
千姫は黙って翔景の言葉を聞いていた。転生した世。そこに少女は一筋の希望の光を見た気がした。死ぬ、という言葉に、いまひとつ現実感がないけれど。翔景を信じよう、と思った。
「…わかりました」
「…千姫」
「貴方と共に死ぬのならば、それもまた、本望。どうか私を、その手で、葬って下さいませ…!」
少女は青年の腕から離れると、両眼を閉じた。
その意思を察し、翔景は懐から短刀を取り出した。音もなく剣を抜く。短刀の気配に姫はごくり、と唾をのんだ。しかし身動きひとつすることはない。この運命を受け入れる。そう覚悟したように。
短刀が幼い姫の胸をひと突きする。千姫は短くうめき声をあげ、翔景の胸の中に倒れ込んだ。
「愛して、おります。翔…景、様…」
「…私もです、千姫」
姫の頬から涙が伝った。抱きしめる翔景もまた、泣いていた。
「……」
千姫の心に、ひどく寂しいような、懐かしいような気持ちが満ちる。これは別れ。しかし、新たな始まりでもある。
翔景は千姫をそっと地に横たえた後、自らの腹に短刀を突き立てた。そして翔景もその場にくず折れる。
「…どの世に生まれ変わっても必ず、捜し当てる。千姫、どうか、私を信じて…」
朦朧とした意識の中。翔景の声がひどく遠くのように聞こえてくる。鉛のように重い指を、どうにか動かしその指に触れた。意識が混沌に飲み込まれる。
千姫は、その瞳を、閉じた……
それから千年近くの月日が流れた。
都内の住宅街。住宅が群生する町の一角に、サーモンピンクの塗装で塗られたその学生寮があった。
メゾン鬼灯。近隣の大学や専門学校に通う、親元を離れ上京してきた若者の為の学生寮である。
四階の三号室から、二人の青年が出てきた。
「おい、いくらなんでも早過ぎないか。まだ七時になったばかりだぞ」
「いいんですよ。あ、ちょっと、ゴミ持ちましたか」
「持ったぞ…全く、何度聞けば気が済むんだお前は」
ばたばたと、二人はエレベーターに乗り込んだ。ゴミ袋を抱えた方の青年が、通学鞄とゴミで塞がった両手で、苦労しつつ一階のボタンを押す。もう一人の方は片手に持った単語帳に視線を走らせている。ゴミを持った方が「おい」とルームメイトの青年を睨みつけた。
「比呂、お前…人にゴミを持たせて自分は試験勉強か」
「ああ、今日試験なもので」
「俺も試験だぞ」
「すいません。でも先週は僕がゴミ出ししたんだし、これで平等ですよ」
青年、比呂はしれっと言った。
「くぅ…」
エレベーターの点滅ボタンが一階を示し、自動の扉が開いた。単語帳を持ったまま、比呂が足早に出ていく。
「何ぼんやりしてるんですか。先に行きますよ」
「いやゴミ重いんだが!鞄もあるからかさばるし…」
ずるずるとアスファルトにゴミを擦り付けながら講義するが、先を歩く比呂が止まる気配は無かった。
「クソ…なんで俺はあんなやつの親友をやってるんだ」
比呂とルームメイトの二人は都内の大学二年生だ。今日は日本文学のテストが一限目にあるので、こうしていつもより早く寮を出ている。途中でルームメイトが指定のゴミ捨て場にゴミを出した後、最寄りの駅からいつもどおり地下鉄に乗り込んだ。
電車は普段よりやや空いていたが、それでも座席から溢れて通路に立っている人の姿がまばらに見られる。比呂達もそれに倣い、出口近くに並んで立った。
比呂が単語帳を鞄にしまい、電車内をキョロキョロと見回した。それを見兼ねたルームメイトが、
「おい比呂。お前怪しいぞ。いい加減諦めたらどうだ。どう考えたって前世の恋人なんて…」
彼の制止をものともせず、比呂が辺りを見回しながら言う。
「余計なお世話です」
「…冗談のひとつも言わないようなお前が、前世の恋人を探している、か。意外とロマンチストなんだな、お前」
「別に信じてくれなくても結構ですよ。でもこれはまぎれもない事実なんです。僕ははっきりと覚えていますよ。過去の僕は翔景という名の随身で…」
「千という名の姫と心中した、だろう。全く、小説の読みすぎじゃないのか…」
ルームメイトが呆れて言った。
「うるさいですよ。いいから放っておいてください」
これ以上は薮蛇だと思い、彼は口をつぐんだ。それきり二人はなんともなしに押し黙る。静かな車内で電車が目的地に到着するのを待つ。駅内アナウンスが、聞き慣れた駅の名前を次々告げていく。
誰もがつまらない顔をしている、普段どおりの東京の朝だ。
テストが終了し、宮澤比呂は一人、ざわめきが溢れる廊下を歩いていた。
彼には前世の記憶があった。彼はものごころついた頃からすでに確信していたのだ。自らの過去を。もし自分があのルームメイトと同じ立場だったら、同じように馬鹿馬鹿しい、と思うだろう。しかし、この確かな記憶は幻なんかじゃない。
だから比呂は記憶の中の千姫の面影を、この現代社会で探していた。ずっと。自分と同じように彼女もまた、翔景の生まれ変わりを探しているはず。
千姫、一体、どこに。
なかなか見つからない前世の恋人に、比呂は歯痒い思いをしていた。いや、きっと見つかる。現に自分はこうして転生しているのだから。比呂は自分にそう言い聞かせ、再び、千年の月日を越えてなお強く恋い焦がれる姫の姿に想いを馳せる。
あどけない表情。長い睫毛。嘘みたいに綺麗な、黒髪。
その時窓の外を眺めていた瞳の端に、千姫のそれに似た夜の闇のような色が、ちらりと映った気がした。
大学の隣は中学のグラウンドになっている。今もきゃあきゃあと中学生が騒ぐ声が聞こえていて、ルームメイトなんかは、「この学校の最大の弱点だ」と腹を立てていた。
「まさか…」
半信半疑で比呂は階段を下り、校舎を出た。中学校のグラウンドがフェンス越しに見える場所に移動する。
グラウンドでは中学生達が秋風の中、半袖半ズボンでテニスをしている。その中でも、中央のコートで行われている試合が盛り上がっているようで、生徒達の視線を集めていた。点数が入る度、歓声がここまで届く。比呂もつられてそちらを見ると、なるほど、中央のコートの二人はなかなかできるようだった。激しい打ち合いが続き、ふいに、ボールが高く舞い上がり中学生の遥か上空を通り過ぎていく。ボールはフェンスを越え、比呂の真横へ着地した。
「あ…!」
中央のコートでプレイしていた男子中学生がしまった、という感じで声をあげた。
「あ、あああのすいません!ボール、取ってくれませんか!?」
その男子生徒が叫んだ。一方比呂はボールを拾い、投げ入れようとコートを振り返り…身体を静止させた。
「……」
中学生と視線が絡む。
長い黒髪。そして絶対に見間違うことのない、千姫の面影。
まさか。
「あ、あの…?」
ボールを持ったままぴくりとも動かない大学生を不審に思い、少年が近付いてきた。
「あ、あの、すいません」
「あ…あぁ」
我に帰った比呂は、ボールをフェンスの向こうへ投げ入れた。中学生は礼を言ってコートに戻って行く。
「千…姫…!」
まさかこんなに近くにいたなんて…。やっと、やっと見つけた。
比呂はしばらくグラウンドから吹き込む砂埃の中、立ち尽くしていた。
お疲れ様でした。少しでも気に入っていただけたらこんなに嬉しいことはありません。後編に続きますのでよろしかったらそちらもお付き合い下さいませ。