小さな舞台
夜更け、用足しに起きたシェルは、廊下の中央をのそのそと歩いてくる小さなものに目を見張った。
「こんばんわ。お初にお目にかかります」
さらにおかしなことに、そいつ――空色のくまのぬいぐるみは丁寧に頭を下げ、彼に夜の挨拶としゃれこんだ。
「何だおまえ」
「わけあって名乗ることは出来ないので、とりあえず『そーちゃん』とお呼びください」
「名前はどうでもいい。てか、名乗れないならその事実は伏せて、『そーちゃん』だけ言えばいいだろう」
素直すぎる性格は接客に不利な場面もあるだろう、と、コウ・ハセザワを雇って一ヶ月、指導してきたシェルとしては見過ごせないのだ。彼女――イリサはそんなコウの影に宿る存在として数百年を共に過ごしているから、特質が似てしまうのも無理からぬことではある。これは手厳しい、と、くまが自らの鼻先に手をやる。十中八九、手を噛もうとしたんだろうな。焦ったり動揺したりするとよく出る、彼女の癖。
「私はコウ君と旅を共にする者です。昼間はあなたの目には映りませんが、実はこうして物に宿って自分の体のように動かすことが出来るのです。こっちはコウ君には内緒です。ちなみにコウ君は私の存在を隠しているわけではないので、あの子に訊いていただければ私のことは話してもらえると思いますよ」
「まぁ、別に聞きたいほど興味もねえ。俺に何の用だ?」
「はい。今夜は、あなたにお願いしたいことがありまして、参上いたしました」
心なしかくまのぬいぐるみの胸を張って、彼女は言った。
シェルがG大陸港町に、昼夜兼用の海の家を開店してから二週間。未だ、店主であるシェルと店員のコウだけのふたり体制。
店を開けてしばらく経つし、そろそろ本題に入るか。ふたりきりの朝礼の場で、シェルはそう前置きする。
「居酒屋の時間帯で、演芸の小舞台をやる?」
「ああ。漫談でも手品でも面白けりゃ何でもいい。ありきたりだが、ないよりマシだから楽器の演奏も含むか。G大陸にだって、探しゃおもしろい奴だってそれなりにいるだろう」
例えば、文化の町アルベイユなんか、名前の通り文化人気取りの自己主張大好きな輩がごろごろしてるだろう、とシェルは挙げてみせる。
「普通の居酒屋じゃダメなのか」
「ダメってこたぁないが、どうせやるなら他と同じじゃつまらねぇからな。演奏聴かせる店なら、R大陸の繁華街なんかじゃ当たり前にあるが、話を聞かせるってぇのは俺の知る限りそうそう見あたらないな。よっぽどおかしくやらなきゃメシがまずくなる」
「でも、わざわざG大陸でやるのか? そんなに需要あるのかな」
「G大陸の、それもこの町でやるから意味があるんだよ。いいか?」
そうしてシェルは、その根拠をシェルに語り聞かせた。
G大陸は独特で、全体の一体感乏しい歴史を歩んできたためか個人主義で奉仕精神に乏しい。さらに痩せた土地から採れる食材も限られているため、貧しい時代には配給の制度に慣れていた。今でも自炊をする人間は少ない。総菜などを提供する店は味で客を喜ばせようという気概もないし、客もそういう食生活に慣れているためそれに文句を言うわけでもない。
R大陸やP大陸では食を振る舞う店といえば少なくとも一般家庭より美味いものを出さなければ見向きもされないし、場所によっては娯楽性まで押し出してくる。それに近い形態をこのG大陸の玄関口である港でやっていくのは、いわば外の二大陸から仕事でやってくる船員や客を当て込んでいるのだ。
シェルは外の二大陸から仕入れた食材を港ですぐに受け取ることが出来る。船員は、美味くないとわかっているG大陸料理の店よりもシェルの用意するものの方が口に合う。船員以外でのG大陸への客は観光よりも研究者の類が多いが、場合によっては接待など付き合いにも使える店にする。そこまでいくと、いよいよG大陸での競合店は数えるほどしかないはずだ。
小舞台を提供するのは、その中でさらに、G大陸にあって突出するための要素だという。
と、シェルの言うことはもっともだと思いつつ、コウにさえ想定出来る問題もあった。
「それだけのことをやるのに、従業員ふたりだけって無理がないか。シェルは料理にかかって、オレがテーブル担当で。それなら小舞台をやってくれる人間を探すのは誰がいつやるんだよ」
「昼と夜の中休みとかにおまえがな。見つかるまでは催しも頼んだぞ」
「いや、素直に担当者入れてくれよ。しがない時給労働者の扱いじゃないだろ、そんな重労働」
「一年契約って最初に説明したろう。それはしがない労働者じゃくて契約労働者なんだよ。他に雇おうにも、G大陸の人間はよっぽどまともな奴でねぇと安心して使えん」
なるほど、あっけなくオレを雇ったのはP大陸出身だからっていうのもあったんだなぁ。ここで育った人間は善良で真面目になるって評判だから。などとコウは静かに納得した。
「そういう内容でしたら、コウ君にはとっときの経験がありますから、是非にお任せください」
昨夜、そーちゃんの中のイリサはシェルに接触すると、当事者であるコウをさしおいて売り込みをかけていた。そんな、一見浅ましくも思える調子にシェルは呆れを隠さない。
「おまえはあいつのなんなんだ?」
「私が個人的に思うところありまして。コウ君には一年くらい、どこかひとところに腰を据えて、じっくり働いてみるというのもいいんじゃないかなぁと思いまして」
こう見えて、イリサの心中は切迫していた。それをため息に吐き出せば多少は楽になれるだろうが、そーちゃんの体は呼吸が出来ずそれはかなわない。
「あの子は、私やソウジュ様や、亡くなった家族……みんなのために、いつも一生懸命なんです。けれどそのために、自分自身のためにすることしたいことを考える……そういうのを忘れてしまっているんです。もちろん、ただそうして欲しいと言うだけではなく、私も出来る範囲、尽力致しますよ。これまたとっときの妙案がありますので、最初の見世物はお任せください」
くまのぬいぐるみは、手足を動かせても表情は動かせない。代わりに声色へたっぷりの自負を込めてイリサはそう懇願した。
シェルが、イリサからのいくつかの「お願い」を了承する代わり、彼女はコウを一年間、必ずシェルの元に留まり働くよう誘導する。これはそういう取引なのだ。
かくいうシェルも、新しく事業を興そうという時に、コウが一年間をこの店に捧げてくれるというのは悪くない話だった。
そうした裏取引は全て伏せ、夜、コウとイリサのふたり部屋――当初のシェルにしてみれば、その部屋はコウにあてがったのだが、彼がイリサを知ることになったためむしろコウだけが真相を知らないというおかしな事態になっていた――彼女は手を合わせてコウに頼み込む。
「と、いうわけで、お願いしますコウ君っ。最初の一回だけ、私にやらせてください!」
もちろん、事の全てを話したわけではない。コウの影に宿るイリサは、彼が委ねればこの体を動かすことも出来るというのをコウは知っていて、たまには人前で話をしてみたいのだという建前をイリサは利用した。
「別に一回と言わないで、そういうのが好きならやりたい時に言ってくれれば代わるのに」
イリサはおしとやかそうな外見の割に――と、いうかある意味、猫をかぶっているわけだなこれは――活発で調子のいい時がある。
「わぁ、そう言ってくれるのなら数回に一回くらいはやぶさかではありませんが!」
思いがけずイリサが楽しんでいるのがコウには嬉しい。本当に久しぶり、彼はふっと吹き出して、再び、シェルに渡された資料に目を通す作業に戻った。シェルが独自に集めた、演芸を頼めそうな人材の情報。それはコウにとって実に懐かしい感覚を思い出させた。
数百年を生きているコウだったが、その短くはない人生の中で唯一、仲間と思える人々と働き、時間を共にしていたたった数年間があった――統一軍人事部。コウ・ハセザワの生まれた時代、G大陸を荒らした私設軍だ。統一軍は轟かせた悪名にふさわしい滅びを迎えた。ろくでもない場所だったのは確かだが……そこで出会い、そして喪われた仲間達がコウにとってかけがえのない友人だったのもまた事実だった。
人事部の仕事は、諜報員の集めた三大陸各地の人材の資料から、次に勧誘する人材を選ぶ。場合によっては自ら営業かける仕事だった。規模は違えど、シェルから任されたのはあの頃の仕事とかなり共通している。
あれからすでに数百年と経っているが、あの日々はコウにとって特別だったから……この懐かしさは、失いたくない、大切な感覚だ。コウはこれから一年間は、この仕事に打ち込むことを誓った。
「ところで、イリサは次の舞台で何の話をするつもりなんだ」
「ここは港町ですから、母神竜信仰に厚いでしょう? それに私達の力を使えばそれなりに見物にはなりそうな気がしませんか」
「まぁ、言われてみれば……」
「そのままコウ君にも引き継げる内容ですしね。そういうことなのでっ、当日は私のこと、見守っていてくださいね!」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼むな」
コウが好んで選んできたのは裏方仕事で、大っぴらな表舞台になど慣れているはずもない。人集めの方には経験があってもそちらには臆する部分があるのは仕方がないとイリサも思い、とりあえずは自分が手本を見せて始めるのもコウにとって参考になる。コウにばかり働かせてきたことに対する恩返しにもなると考えていた。
「ようこそお越しくださいましたぁ!」
投薬治療の痕を隠すため、客の前では今も腕を三角巾に吊っているコウは、空いている右手を仰ぎ船員達へ百点満点の笑みを浮かべる。
「おいおい兄ちゃん、昼に食いに来た時とだいぶん人が違わねえか?」
先頭の、体のいかつい、しかし人なつこい笑みの男はそんな挨拶代わりをよこした。コウの中、今はこの体を動かしているイリサは、
「コウ君は移り気なので、今日はこういう気分なのですよ! 何せ今日は初舞台の夜ですから特別ですっ」
「自分のことコウ君って言っちゃうのも今日の気分なのかい?」
「そうですとも!」
一点の疑いもなく断言する姿に、早くも船員集団の笑いを取っていた。コウ・ハセザワではこうすんなりとはいかないだろう。それについては俺もコウのことを言えた義理ではないけど……誰かに尽くそうという精神も加えるなら、悔しかないが俺は完敗だよな。イリサにも、あいつにも。
舞台は店の中央、人ひとり立ち、あるいは椅子を置いて腰掛ける程度の小さく丸い台座がしつらえられているだけだ。発案者であるシェルは舞台照明の仕掛けの方に異常なまでの情熱を傾け、舞台に回せる資金が限られていたための措置だった。
見世物の最中、シェルは照明の切り替えに専念するため手が放せない。今夜、舞台に立つのは唯一の店員であるコウ・ハセザワ。従って客もショーが終わるまでは料理を注文出来ないという、居酒屋としては致命的な欠陥がある。仮に今夜たまたま成功したとしても、今後続けるに当たってそこのところどうするつもりなんだろうか。
舞台中央を照らす、白い照明のスイッチが入ると、佇んでいたコウ……いや。彼の中のイリサが口上を述べた。
「みなさま、待ちわびておられた方もそうでない方も、お待たせ致しました。本日は当店、最初の夜の舞台へお越しくださりまことにありがとうございます。こちら、ご覧いただくことを、お客様方へ強制するものではございません。お連れ様とのお話やお食事を楽しく続けてくださってもかまいません。少しでも興味のある方は私の話しに耳を傾けていただければ幸いです」
左腕を三角巾で固定され、右手だけの手振りと体全体の身振りでもって、彼女は自らの語りに弾みをつける。初日とあれば集まった客も――他の大陸から積み荷を運んできた船員と、娯楽に乏しいこの町の住民だ――乗り気で、ほとんどの人間がこちらに注目し、拍手を送ってくれる。
「今宵は、みなさまのまだ知らない場所……天上の聖地グラスブルーへお連れいたしましょう」
イリサの宣言と共に、舞台、と同時、店内の照明全てが青色に切り替わる。右手を前に差しだし、イリサがくるり、回転してみせると、舞台の下から湧きだしてきたかのように店内の床にさぁっと水が広がっていく。観客はどよめき、ある者は驚きのあまり水に触れた足を持ち上げて濡れているのかと確認しようとした。が、その足は濡れてはいない。
彼女とコウの魔法は、あくまで幻でしかないからだ。