イリサの世界
最初は、右手に手袋をはめていて、面接にそんなものをつけてくるとは無礼なと罵られた。
次に、右手に包帯を巻いて臨んだら、その怪我はどうされましたと訊ねられた。火傷とかなんとかごまかせばいいものを、コウ・ハセザワはそういう口先だけでしのぐのに不得手だ。やましい事実に言葉を詰まらせると、相手に見抜かれるか、そうでなくとも採用には至らなかった。
「はあ……」
目減りしていった路銀の残りを膝の上に並べて数えると、もって二、三日の食費と宿泊費といったところで、さすがにため息を隠せるほどのゆとりは今の彼にはない。せめて、生活を共にしている彼女とやや距離のある一瞬を選び、余計な心配をかけないよう配慮するのが精一杯。
町の高台の公園に置かれた休憩用の椅子に腰掛けて、コウは途方に暮れている。イリサは岸壁の手すりに手を置いて――とはいえ、彼女はコウの影に宿る存在であり実体がない。形だけだ――夕闇迫る町並みを見下ろしている。この高台に初めて訪れたのだから景観を楽しむのもありだろうけど、この数日、さんざん苦渋をなめさせられた町の風景を楽しむ気にはお互いになれないようだった。
「まったくもう、みんなひどいです! コウ君のおかげでG大陸の人達がどんなに救われたのか知らないからっ」
「まぁ、公表しないでくれって頼んだのはオレ達だし」
コウは、せっかく巻いても徒労に終わった右手の包帯を外した。その下に隠されていた紋章を、ため息を飲み込んで眺める。
魔法薬を手の甲に注射すると、そこに、どういった処方の薬を使用したか判別出来る紋章が浮かび上がる。魔法薬の開発と生産は、個人の魔法師によるもので、自分の作った薬だと証明するための紋章だ。薬が広まれば自分の名が売れて次の仕事につながるし、逆に言えば公で取引されないような怪しい薬の作り手なんかは、あえて魔法薬に紋章を仕込んだりはしない。
コウの手に浮かんでいるのは、数ヶ月前、G大陸を恐怖に陥れた新型病原、Wー311型の特効薬を使用した目印。Wー311型は、肌が青白く変色し、徐々に身体機能が失われやがて死に至る。致死性も感染能力も高く、新型ゆえに特効薬もないという手の施しようのない病だった。
ところがこの体は、仮にとはいえ神竜族と同質のものだ。
病は何度もコウ・ハセザワを死に至らしめた。しかしその数時間後、その体を勝手に蘇生した。そんなことを繰り返す内、コウの体には抗体らしきものが芽生え始める。その抗体を採取し、魔法によって効果を高めた薬が開発されたのだ。
「やるだけやったつもりだけど、仕事、見つからないな……」
G大陸で知らぬ者のいない、最悪の感染病。手の甲の紋章はそれが完治した証、のはずなのだが――これだから、G大陸の人間っていうのは民度が低いと侮られるのだ。魔法師という職が崇拝されているP大陸では、魔法薬の効果を疑う者などいない。魔法師に権威のあるR大陸では、魔法薬の効果を疑おうものなら作り手は躍起になってそれを証明してみせるだろう。G大陸での魔法師の位はさしたるものではないから、偏見と風評ががまかり通ってしまう。
元より、コウ・ハセザワは無理に食わなくても生きていける。高い金を払って宿に泊まらなくたって死にはしない。わざわざそうしているのは、イリサと共にいるからだ。イリサは彼にとっての恩人であるソウジュが、何より大切に想っていた女性だから。
コウは、「ソウ兄」を追う旅に付き添ってくれている彼女に、せめて屋根と三食付き、人並みの暮らしを与えてやりたいと考えていた。寒い思い、ひもじい思いをさせたくない。それはコウ自身の誠実さでもあるし、あるいは――彼が無自覚にごまかそうとしている、イリサに対する親愛がゆえでもあった。
コウは、自らの不甲斐なさを嘆いていた。別にコウは努力していないわけではないし、ただ努力だけでどうにもならない現実が眼前に横たわっている、それだけのことだ。
「大丈夫、仕事なら必ず見つかりますっ。コウ君は、世界一頑張ってますから!」
などと根拠のないことを、イリサは自信をもって断言した。
「世界一……また大きく出たもんだ」
イリサは目を細め、一点の綻びもない優しい笑みを浮かべ、コウを見下ろした。
「……だって、私の世界にはコウ君しかいませんもの。だから私がそう思えば、私の中ではコウ君は『世界一』頑張っているんです。他の誰が認めてくれなくたって、私はコウ君が頑張っているのを、ちゃんと見ていますから」
「……そう、か」
はい、そうですよっ。つとめて明るく、イリサは強調する。そんな彼女からひととき、目を離し、
再び見上げた笑顔に、ふと、思うところがあり。コウは鞄の中から風景焼付機を取り出し、機械を通してイリサを見る。そのまま写真を撮った。
「どうしたんですか? いつもは風景と一緒に撮るのがお好きなのに、私の顔だけなんて」
「ソウ兄に見せてやりたいと思って。きっとソウ兄は、イリサのそういう顔、好きだったんだろうな……」
「そ、そうなんですか?」
頬を染めて、自分の指先をかりかりとかじり始める。動揺すると、「はがゆさ」をまぎらわせるのに何かをかじってしまう彼女の癖。照れているのか、それとも別の感情なのか。
徒労の吐息は、これが最後だ。そう決意と共に吐き出しながら、コウは勢い良く立ち上がった。
「よし、今日はもう遅いからこの町に泊まって、明日早めに次の町に向かおう。そこで職探しの続きだな」
「わぁ~……」
先ほどのようにきれいに微笑むことも出来るのに、ご機嫌が過ぎると、イリサはこんな風に、にやにや、少しばかり気味の悪い笑みを浮かべてしまう。これはこれで彼女の愛嬌なのだろうが。
「頼もしいです! コウ君のそういうところ、好きですよっ」
さっきのお返しです、と、彼女は笑った。
黒々とした、男にしては大きい眼でぎょろりとした目つきは剣呑で、おまけにねめあげるような視線をコウに向ける。
イリサもまた、珍しく面接の場に同行していたのだが、椅子にかけるコウの後ろに隠れ、肩の上からそっと男を見やるのだった。いや、そんな隠れるようなことしなくても、イリサの姿は相手にうかがえないだろ。
三十代手前、肌は港町のぎらつく太陽に焼かれ小麦色をしている。白みがかった灰色の髪には相応以上の魔力の宿っているのが感じられる。それがどうして、G大陸の港町なんかで何の変哲もない飲食店を営もうというのかよくわからないが。この町での職探しにコウ・ハセザワが第一歩を踏み入れたのが、この男のもとだった。
「よし、決めた。最初に伝えた条件で文句はないな? 今日からおまえはうちの店員だ」
この数ヶ月の苦労は何だったのか、面接で十分も話さないで、採用が決まってしまった。
「何だかあっさり決まったけど、本当にオレでいいんですか」
よせばいいのに、コウはうっかりそんなことを口走る。コウは決して「溌剌とした好青年」ではないし、確かに疑問ではあるのだが。何せ男は――シェル、と名乗っていた――これからこの町に、新たに飲食店を開業しようとしているのだから。
腕を組み、憮然とした調子で男は答えた。
「俺ぁ、もう人に使われるのも利用されるのも御免なんでな。おまえみたいに従順で大人しげで、染めようと思えばどうにでもなりそうなのが都合がいいのさ」
「なるほど」
そこで素直に納得してしまうところが、シェルの言う「染まりやすそう」の根拠なのだろう。
「しばらくは俺とおまえで回していくぞ。あんまり人数雇える余裕もねぇ。言っておくが、昼の部と夜の部でどっちも店を開けるからな。楽が出来るとは思うなよ、コウ・ハセザワ」
「期待に応えられるよう、努力します」
「よし。ところで、その手の怪我はいつ治るのかわかるか?」
ああ、せっかく仕事にありつけたというのに、またこれか。対応いかんによっては採用の取り消しもありえる、これまでの苦い経験からコウを硬直させる。
返答も出来ずにいるコウに首を傾げ、シェルは無造作に、手の甲に巻かれた包帯を解いてしまった。
「ふん……」
シェルは、癖のある髪に手をやりぼりぼりとかきむしると、ちょっと待ってろ、と言い残し、事務所の壁際に並ぶ棚から大きめの救急箱を取り出した。
「おまえは頭が回らない奴だな。そこだけ隠そうとするから目立つんだ。紋章が消えるまではこうしておけ。そんで、怪我の状態を訊かれたら『見ての通りです』とでも答えておけ。馬鹿正直に事実なんか話しやがったらその日の給料は出さないからな」
男は面接最中の印象とは異なり、コウの採用を決めてからというもの口を休める気配もない。べらべらとしゃべくりながら、コウの腕に施したのは、骨折した時などに腕を固定するような三角巾の形だった。
「は、はぁ……どうも」
「覇気がねぇなぁ。ま、わかってて雇ったのは俺なんだが」
さっき理由を聞いたのに、だからなんでまた、と、反射で訊ねそうになったのをコウは呑み込んだ。