金平糖/こんぺいとう
覇気のない表情と着古した黒い着物という地味な出で立ちに似合わない、派手な赤い髪の毛。町中で人目を引きがちなコウ・ハセザワのそれだったが、沈みかけの夕日の直撃を受けるこの表通り、この時間にあってはそれも溶け込みあまり目立たず、歩きやすいことこの上ない。もっともこの男には、人目を気にするという概念自体が存在しないのだけど。
「毎日精が出ますなぁ」
夕暮れ時、仕事先から宿に戻ると、入り口の掃き掃除に出ていた宿の主人がそんな言葉をかけてきた。社交的な振る舞い、というものに重きを置かないコウ・ハセザワは、一言、無味乾燥に「それほどでも」とだけ返した。
接客の経験深いであろう主人は、何ら気負うことなく話を続ける。
「あれ、お客さん? なんだか顔色がよろしくないんでは」
「……夕時だからそう見えるんじゃ」
「いいえぇ、赤いんでなくむしろ青いですよ、お顔の肌つやがね。おまけに、なんだか鼻声ですし」
「ああ……それは、自覚症状あるけど。倉庫仕事の疲れと、風邪のひき始めか何かじゃないですか」
昼過ぎ頃からだったろうか。やたらと濃く固まりのような鼻水が、鼻の奥に詰まっているようで息苦しかった。手持ちのちり紙を使い果たし、積み荷を持ち運ぶ体が左右にふらついていた。コウはそれを無視して仕事を続けていたが、倉庫の奥の事務所から飛び出してきた雇い主の震える手に、本日までの賃金を握らされた。彼は、ふらついているコウ以上に顔を青くさせていた。それはおそらく、コウと同じ症状によるものではなく、感情ゆえに。
店主は眉を寄せて、疑心に満ちた調子でへえ、と漏らした。彼の押し込めているであろう感情にコウは気がつかない。話は終わったと、きびすを返そうとしたその時。
無意識に、動き出した右手。緩慢なその動きにさえ意識がついていかないのは、不調のせいだろうか。
ゆっくり持ち上げたそれの、指先をそっと、自らの口に差し入れて。がりっと噛みしめた。
異変を察して、体調不良にも構わず急ぎ足で宿の部屋へ戻る。彼女は寝台の上で激しくうなっていた。
イリサはベッドの上に正座して、頬が布団に接する寸前まで背中を丸めてうずくまっていた。枕の上に鎮座するくまのぬいぐるみのせいで、まるでそいつに拝み倒しているかのように見えたりもする。
「わぐぅ~……」
苦しそうなのは切迫した調子からわかるのだが、俺としてはそのうめき声が実に間抜けな響きであると感じてしまう。自意識によらず声を発する時、「わ」を多用してしまう彼女の癖。
さらにもうひとつ、イリサには感情の乱れをまぎらわすのに、物なり人なりに噛みつく癖もある。彼女がコウ・ハセザワの影に宿る実体のない存在であることも影響してか、時としてその行動を彼に代替わりさせてしまう。俺は人並みに心の狭さを自覚しているので素直に迷惑な話だと思うが、コウにしてみればイリサの不調や気落ちなどがあまりにもわかりやすいため重宝しているようだった。
「どうした?」
「コウ君? お、おかえりなさい……」
「ただいま。で、大丈夫なのか」
双方揃って体調を崩しているこんな時でも、いつもと変わらぬ挨拶を交わす。
「平気です、これくらい……よくある、ことですから」
言われるまでもなく、コウも、俺も知っている。
宿泊者へのサービスとして、客室にはその日の新聞の朝刊が届けられる。出勤前には読む時間のなかったそれを手に取り、内容を確認する。R大陸の客船が事故を起こし救助が間に合わず、数百人という人間が沈んだ船の中に取り残されているという。当然、生きてはいないだろう。海の底でもがき苦しみながら息絶えたのだろうか。
イリサは、母神竜マザー=クレアの生まれ変わりだという。母神竜はこの世界の海を司る神であり、海の上でのこうした不測の悲劇、人々の断末魔を感じ取ってしまう。
「何か食べたいものはないか」
「はい?」
「調子の悪い時は、自分の好きなものを食べて、気分だけでも滋養をつけるもんだ……って、昔、ソウ兄が言ってた」
「私はですねー……こんぺいとうが、好きなんです」
確かに、こんぺいとうのことを思い浮かべたらしいそのひとときだけ、イリサは不調も忘れてよだれでもこぼしそうな笑みを浮かべていた。
「こんぺいとうって、縁日で買えるやつだっけ」
「そうですね。この前見に行った、王都の創立記念祭でも屋台が出てましたね。私の生まれた時代、こんぺいとうは非常食だったんです。戦場に出る兵隊さんは皆小さな袋に詰めたものを持たされるのですが、ソウジュさまはよく、城で待つツバサさまや私のために残して持ち帰ってくださったんですよー」
ツバサは、ソウジュの弟……彼女は幽閉されていたツバサの側仕えをしていた――ソウジュという心根の優しい人が戦場に出られたのは、彼の帰りを待つ彼女達を守るという確かな目標があったから。
具体的な話はほとんど聞き流して、コウはすでにこんぺいとうの入手手段を考えていた。もう店じまいの時刻も近い。今日中に手に入れるのは無理そうだと判断し、明日探しに行くから、と伝えようとしたその先に。
「私のことなんかより、コウ君も、なんだか具合が悪そうですよ? 隠したってお見通しなんですからね! 安静にしていないとダメですよっ」
苦しい息で、だがしてやったりという笑みを浮かべて、イリサは指摘する。そう言われては反論のしようがないコウは困った顔で立ち尽くす。
ほらほら、食堂で消化に良いご飯でも食べてきて、それから私と一緒にゆっくり休みましょうよ。なるたけ不安を感じさせないよう、優しい声で語りかけるようイリサは努めていた。彼女はコウの自覚していない、彼の体の深刻な事態を予感していたのだ。
「コウ、君?」
おはようございます、といつも通りの挨拶をしても、コウからの返事はない。ひと晩あけてすっかり快復したイリサは、重みのない体を彼の腹の上で起こすと、コウの顔を見下ろす。
彼は目を覚ましていた。薄く目を開けているのは、それ以上に瞼を持ち上げることが出来なかったからだ。荒くはない呼吸は、しかし通常よりずっとか細く、今にも息をつげなくなってしまいそうに思える。
そして、それらよりもさらに顕著な異変は、見間違いでは済まない程明らかに……薄青く染まった肌だった。それは、昨晩も彼が抱いて寝た、空色のくまのぬいぐるみ。その、毛並みの色に似てさえいた。そのぬいぐるみを抱えたまま、コウは指先ひとつ動かせず硬直し、イリサの呼びかけにも応えられない。
「く、苦しいですかコウ君っ。ど、どうしたらっ……」
言うまでもなく、彼女の姿はコウ以外に見えず、声も届かない。コウが動けず、口もきけないなら、助けを呼ぶこともままならない。
コウが体調を悪くしたのはこれが初めてではないが、体も動かず声も出せないという程の重症はこれが初めてだ。
「私は、また……コウ君が大変な時に、手も足も出ないんですね……」
イリサは悲しげに顔を歪めて、呟く。それこそ悲しんでいる場合ではない、彼女を悲しませている事実こそ、コウにとって何より痛いものなのだから。
そんな時間は、幸いなのか最悪なのか、長くは続かなかった。
連中の来訪は、存外に静かだった。扉をノックする音は軽く、続けてそれを開ける手つきも乱暴ではない。そうして進入してきた出で立ちは頭から全身を覆う防毒服で顔を拝むことさえ出来ない物騒極まりないものだったが、
「君が、コウ・ハセザワ君だね?」
壮年の落ち着きある、穏やかな男の声だった。訊ねたところでコウは応えられないし、相手もそれはわかっているのだろう。態度を変えず、続ける。
「私達は、自治体連合会の、Wー311型特別対策班の者だ。一緒に、来てくれるね」
G大陸は、R大陸、P大陸と違って、王家による大陸統一がなされていない。そのため連帯感や帰属性に乏しく、文明に若干の遅れが明らかだ。大陸の全土に無数ある自治体単位で生活をしており、それは王家の縛りのない気楽なものであるという。
他の自治体や王家に従う必要はないが、大陸全土に及び危機的状況に対応するための条約がある。それが自治体連合会であり、具体的な活動のひとつには、新種の病原体に対応することがある。
Wー311型病原は現在、G大陸を震撼させている大問題である。何せ発病したら致死率は極めて強く、空気感染も引き起こす。
初期症状としては、最初は風邪に似ていて、特に鼻づまりとめまいがひどく、徐々に神経が鈍って、肌色が蒼白になっていく頃には体がほとんど動かせなくなる。呼吸停止や臓器不全を起こして死に至る。
ただし、肌色が完全に青くなるまでは感染力が低いため、G大陸ではそうなるまでに発病者を完全隔離の処置で対応しているのだ。
「かわいそうに……ありゃあ随分若いなぁ」
「二十代以下での発病例はこれが初か。いや、それくらいかってのはきわどいんだっけか?」
イリサはひとまずコウと離れ、隔離施設の所員の待機室に入り込み、情報を得ようとしていた。病状と事態の深刻さに気落ちし、ついでに所員の勝手な言い種に苛立ちながらそこを後にする。
普段の彼女は、実体のない存在とはいえ壁のすり抜けといった人間離れしたことはしたがらない。扉からの出入りはコウや他の誰かの開閉した横をちゃっかり通り抜けるのだが、コウの入れられた隔離室が開かれることはもう二度とない。コウ・ハセザワが死に、遺体を運び出すその時まで。
他にどうしようもなく、イリサはため息で暗い感情を吐き出してから、壁を抜けてコウのいる部屋に入り込んだ。
「お待たせしました、コウ君」
黙ってイリサを見返すコウは、無表情だ。もう、表情を作る筋力を保っていないのだ。重たい瞼をどうにか持ち上げて、彼女の姿をとらえようとするが――もう、首から上はその視界に入っていない。
「どれくらいかかるかわかりませんけど、しばらくはこの中で過ごすことになりそうです。ほら、コウ君もずっと働いてきたんですもの。せっかくだからゆっくりしましょう。私は、傍にいますから……コウ君をひとりぼっちにしたりしませんから」
――イリサ。
コウは、イリサに意思を伝えた。もう口は使えない、だから、影を通して。すなわち彼女の意識に直接言葉を送って。普段からそうすればいいものを、コウもまたこうした人間離れしたやり方で彼女と接することを望まなかった。
「コウ君?」
――どこか、出ていてくれないか。
「そんな……どうしてですか?」
――自分が死ぬところなんか、見られたくないんだ……ごめん。
イリサは、コウと離れたくなんかない。彼女にとって、彼と連れ添い、守ることだけが生きる全て。しかし、だからといって彼の望みを無視することだって、彼女には出来ない。
「わかり、ました……ちょっとの間だけ、コウ君が元気になるまで、空けさせていただきますね。そうだ、せめてコウ君が退屈しないように、色々とお散歩してお伝えしますねっ」
傷ついていない素振りで、イリサは明るく振る舞う。コウだってそんな空元気に騙されたりはしないし、お互いにとってごまかしでしかないとしても。
――ありがとう、イリサ。楽しみにしてる。
「は、はいっ……それでは、いってきますっ」
せめて、それがイリサを支える原動力になるようにと願って、コウはその背中を押すことにした。
通報を受けてコウ・ハセザワを連行してきた男は、隔離施設の副責任者だった。彼は、死にゆく感染者達の最期に、隔離された状況とはいえ可能な限りの希望に応えてやりたいという方針を打ち出していて、モニターを通して頻繁に声をかけてきた。声は出せないため希望を伝えることは困難だが、最後の余力でどうにか唇だけ動かしたのを副責任者はどうにか読みとってみせた。おかしな特技とは思うが、希望を叶えてやりたいなんて口で言うだけの人間ではないという点は評価するべきだろうか。
コウが望んだのは、枕に頭を預けて仰向けに横になるのではなく、腹からあごにかけて枕を連ねてうつ伏せになることだった。そうしてのばした手の先に、空色のテディベアがいる。
――コウ君、見えますかーっ。
――見えるよ。
瞳を閉じれば、イリサの見ている光景が瞼の裏に浮かんでくる。今いる場所は世界最大の印刷所があると知られる、文化の町と称えられるアルベイユのようだ。
――すごいですね、アルベイユの出版市! 右も左もぜーんぶ、本で埋め尽くされていますよーっ。
出版物といえば新聞か個人出版しかないこの世界、アルベイユは世界一、出版活動が盛んな総本山であると言われている。
ひとりでは船に乗れない彼女は、単独行動の自由の身とはいえG大陸を出ることさえ叶わない。立ち読み自由の本の祭典に訪れたところで、コウと一緒でなければその中身を見られない。
――ねえ、コウ君。元気になったら、また一緒に来ましょうね。面白そうな本がたくさんあるんですよ。
――そうだな。オレ、本なんてしばらく読んでないし。たまにはそういうの、いいかもな……。
――そうですよ。コウ君は書くのがお好きみたいですから、読むのだってきっと楽しいですよ。
そういえば日記書きも、こんな状態では続けられなかったな。コウがそうするのはイリサの様子をソウジュに伝えることだけが目的なのだから、こうなってまでそれに固執する必要はないのだが。
――なあ。イリサだけでも、ソウ兄のところへ行っても……。
――ダメですよ、そんなの。
迷いなく、イリサは答える。それがコウには意外だった。
――私だけで行くなんて。もし会えたとしても、ソウジュ様はきっと、コウ君のこと心配しますもの。
――そうか?
――そうですよ。当たり前じゃないですか。
――ねえねえコウ君。
――コウ君?
彼女の言葉は届いていた。理解もしていた。ただ、それに答える気力がもはやコウには残されていなかった。
――……そーちゃん。
イリサは夜、コウが寝静まっているだろうと向こうが思っているだろう時間、くまのぬいぐるみ……そーちゃんに語りかけていた。こうしてそーちゃんと向き合う体勢になることをコウが望んだのは、そーちゃんを通して、イリサからの言葉が届くような気分になれるからだった。
――やっぱり、ひとりは寂しいですよ、そーちゃん……。
「そーちゃん」に話しかけている時のイリサの言葉は、剥き出しの本音そのものだったから。
『ハセザワ君、聞こえているかい?』
副責任者の声に、コウは覚醒した。どうやら一度、死んでいたようだ。
もしかして、体が死んだことで病原は一旦、後退でもしたのだろうか。モニターを見上げようとした首が動いた。あ、あ、試しに声も出してみるとそれも可能だった。まさしく蚊の鳴くような声ではあったが。
若干とはいえ病状の回復したコウの様子に、副責任者は無邪気に歓声をあげた。
『何か、欲しいものはあるかい』
前回は、したいことはあるかい、だったな。言い回しが変わっただけでニュアンスに違いはなさそうだったが。
「……っ」
問いかけに、思い浮かんだことがあった。伝えようと口を開くが、久しぶりに動かしたそれは言葉をつかえさせる。せき込むには至らず、コウはどうにかそれを口にすることを果たした。
「こんぺいとうが、食べたい……」