旅の写真
「おめでとうございますお客様!」
切り分けた大判オムレツをフォークに差し、口に運んで頬張っていたところだった。どこか無理をするような感情の上げ方ですり寄ってきた店員。馴れ馴れしいようでどこかおどおどとした赤い前掛けの男に、コウ・ハセザワは目を丸くした。見上げながらも無言でオムレツをもごもごとやっているので、あまりの気まずさいたたまれなさに店員は苦悩する。勝手に声かけといて勝手に困るとか、迷惑な話ではあるが。
「ご、ご来店十万人目のお客様ということで、記念品を進呈いたします!」
「十万人? 記念品?」
行動と同じく思考も鈍行なコウは、言われていることへの理解が追いつくまでの場つなぎとして意味なくおうむ返しをすることでさらに店員を混迷させる。
その次に紡いだコウの言葉に、店員は心底、胸をなで下ろすのだった。
「で、何がもらえるんだ?」
「風景焼付機、ですか?」
「ああ。ここのボタンを押すと、こっちの覗き窓から覗くのと同じ景色が瞬間で、機械の中の紙に転写するんだと」
「わ~……今時は面白い道具があるんですねぇ」
「いやまったく」
長年連れ添った老夫婦かと言いたくなるような会話だった。金色の長髪に生える青いリボンとローブ、くすんで地味な黒い着物に反して目立つ赤い髪の若い男女ふたり連れ……まぁ、外面の印象としてはそんなところだろうが、現実の老夫婦と比較しても倍じゃ足りないような歳月を共にしてきた彼らなのだから、老熟も仕方がないかもしれない。
さらに救いがないのが、イリサ――彼女はコウの影に宿る存在であり、傍目の一般人にその姿が映らない。つまるところ焼付機に関する会話はコウの独り言にしか見えず、一層の不気味さを周囲に振りまいているのだ。ほかならぬご両人がそれを気にしないのだからそれもまた致し方ない。
さらにコウ・ハセザワという男の異端ぶりを強調しているのは、自分の隣の席に座らせている空色のくまのぬいぐるみの存在だった。こいつを連れ歩きたいというイリサの願望を、実体のない彼女に代わって叶える。そのためだけにこいつを抱いてどこでもうろつき、個室ならまだしも大衆食堂で食卓につくときでさえこのように扱っているのだ。そんな事情が傍目にわかるはずもなく、大の男の行動としては実にお近づきになりたくない光景なのだった。
それにしてもこいつら、「写真」というものの存在くらいは俺でさえ知っているというのに……無駄に歳月を重ねているくせに、今まで何を見聞きして生きてきたんだ?
話にひと区切りして、コウはまたオムレツを口に入れる。するとイリサは目を閉じて、もごもごと口の中で舌を動かしてみせる。彼女は食事をとれないし、コウの味覚そのものを共通に出来るわけでもない。ただ、コウが美味いとか辛いとか満腹だとか、感じた印象を受け取ることは出来るため、彼の食事中には自らもそのつもりで、少しでも食事の雰囲気を味わうためにこうした行為をするのだった。
コウは口に入れているものを噛みながら、脇に置いてあった焼付機を手に取る。おもむろにシャッターを切ると、前部の隙間から正方形の紙がじわ~っと騒がしい音をあげながら排出される。どうやら黒い感熱紙を白い紙で縁取り台紙にして、その黒い部分に風景を写し取るらしい。ぼやけるように少しずつ色づいていくそれを食卓に置いて、食事を再開する。
最後のひと口を味わいながら、ふと、紙に目線を向けてみる。そこに写っていたものに驚愕し、コウは噛んでいたものを呑み損なう。せき込めば、不意をつかれたイリサもまた、うぐっとむせてしまう。
「なっ、何をしているんですかコウ君たら! お食事中に他のことをするなんて、はしたないじゃですかっ」
「う、うううつ、写ってる……!」
「はい?」
涙目で抗議するも、コウの反応を訝しみ、イリサは首を傾げる。
「何が写っているのですか?」
「イリサが」
ぽかん、と口を開けて。それはつまり何が何だかわからない、という、彼女の今の内面を端的に表していた。同時、ひとりで騒いでいるコウに対する周囲からの眼差しも、それと似たような感情が込められていた。
「あ、ちょうどいい。さっきの店員さん」
「は、はいっ」
店を出る前、会計の折り、コウは思いつきで男に声をかけた。ただでさえ小心なところのありそうな店員はコウの奇妙な振る舞いを目の当たりにし、今もその彼が抱くぬいぐるみに奇異の目を向け、あからさまに関わりたくない感を放ち訴えていた。そんな空気を読むコウではないが、だからって接客業としてこんな態度でいいものだろうか。
「それで、頼みたいことっていうのは」
「写真、撮ってもらいたいんだけど」
店員を外に連れ出してコウが頼んだことに、男が疑問を抱いたのは一瞬。すぐに、ああ、と納得の声を上げ、同時に安心に顔をほころばせる。
「記念撮影ですか? それならお安い御用ですとも」
どうやらこの店員は、自分の常識の範囲外の事柄に出くわすと混乱に陥るらしい。何の変哲もない食堂を前にして記念撮影というのは物珍しくはあるが、世の中にはどんなものでも記念にしたがるある種の趣向者というのは存在するものだ。そんな感じで彼は納得していた。
「で、どちらにお立ちになりますか」
「いや、オレはいい。ただ、そこの玄関、撮ってみてくれないか」
「はい?」
何の変哲もない食堂を前に記念撮影、も、それなりに不可思議な行動ではある。とはいえそれが好きで撮るなら勝手にやってくれという、ありえない話ではない。それをわざわざ、他人の手をわずらわせてしようというのは、不可解さが前者とは段違いというものだろう。
店員の動揺などおかまいなく、ひょうひょうとした風のコウに彼は一旦は邪魔な思考をはねのけることに決めた。勤め先の玄関口をぱしゃり、出てきた感熱紙に目もくれずコウへ突っ返す。コウは紙をひらひらと振って待つ。
「お。やっぱ写ってるな」
「やっぱ、って? 一体何が」
「これ。ここに、彼女が」
反射的に、問い返してしまったことを店員が後悔するのは……そこにいなかったはずの金髪の女性の姿を写真の中に認め、卒倒したその後だった。
思いがけず旅の荷物を増やすことになってしまったため、それの今後の扱いを考えるためにもコウはその日の宿へ引き上げることにした。
「別に、オレが撮ったから写ったってわけでもないみたいだな。誰が撮っても写るってか」
「それは困りますねぇ」
「困る……かなぁ」
「そう言われると、別に困らないのかも」
元よりコウもイリサも、日頃から他人の目など気にしていない。
ふと、思いつき、コウは鞄の中から日記帳を取り出した。ある目的から彼が毎晩欠かさず記しているそれをめくりながら、コウは思案する。
「どうしました? 急に、真剣な顔をしてしまって」
「こいつを貼っておけば、ソウ兄がこれを見つけた時、今イリサがどんな風にしているのかひと目でわかるよな」
「そうですねぇ……」
店内で撮ったもの、食堂の玄関先で撮ったもの。どちらとも、イリサがひとりで映っている。思い立ったが吉日、コウは自らの妙案にほくそ笑む暇さえ持たず、財布を握り部屋を出た。
「えーっと、感熱紙、っと……せ、千紙幣!?」
高っ、と、珍しく慌てた素振りで絶望の雄叫びをあげてしまうコウだった。無理もない、コウの日雇いで得る時給は、平均的に五百紙幣前後であることが多い。安い食事なら一食三百硬貨でまともに食べられるのだから、必要な感熱紙を買うと三食弱の食事代を代価にすることになる。
「千紙幣で、二十枚の感熱紙が入っているようですね」
「それ以下のバラで売ってたりは……しないみたいだな」
ここは町の入り口にあった写真関連品の専門店だが、焼付機本体も感熱紙も種類が少ない。
う~ん、う~ん、などと真剣にうめきながら、コウは頭を悩ませた。考えに考えた結果、
「よし、撮っても一日に一枚だけだ。二十日で千紙幣、一日五十硬貨程度の出費なら何てことないさ」
「そうですよ! せっかくコウ君ががんばって稼いだお金なんですから、したいことには使うべきなのですっ」
なんたって、コウ君がこういうことに悩む姿なんて、そうめったに見られませんから。などとイリサは言葉に出さず、ひとり、胸の内で満足感を味わっていた。
えんぴつ型、と呼ばれる、円錐型の屋根の家が立ち並ぶ町を、コウは漫然と眺めていた。
「イリサ。そこ、いいかな」
「はいはーい、この辺りでよろしいですかー?」
写真機を入手して以来一ヶ月、ほとんど毎日やっているのだからイリサも慣れたものだ。コウが指さした場所に立ち、笑顔を返し、彼が写真を撮るのを待つ。
コウが本日の撮影場所に選んだのは町の象徴である教会で、突出して高い三角屋根に十一神竜全ての紋章が刻まれている。一日一枚までしか撮らないという制約上、コウが目をつけるのはその町で最も有名な場所であることが多かった。時には何の変哲もない道の真ん中や店先にイリサを立たせて撮ることもある。
機械から吐き出されてきた写真に狙い通りの絵が出てくるのを満足げに眺めるコウに、イリサは話しかけた。
「ねぇ、コウ君。ひとつ、私からお願いがあるのですが……聞いていただけますか?」
「ん? お願いって、どんな」
断る、という選択肢は最初からコウの中にはない。何でもないことのように促した。
「せっかくG大陸に来ているので、寄りたい場所があるんです。そこで良かったら一枚だけ、一緒に写真を撮りませんか。コウ君と、私と、そーちゃんで。三人の記念写真を」
夜。かすかに含み笑いをする声に、コウの意識は半覚醒した。寝ぼけ眼をうっすら開いて状況を見ると、彼の目覚めに気がついていないイリサは憚らず言葉を紡ぐ。
「それでね、そーちゃん、最近とっても生き生きしてるんです。きっと、ううん間違いなく、写真を撮るようになってからですよね」
コウが眠る時、胸に抱いている、くまのぬいぐるみ。イリサは彼の隣に寝そべって、くまと目線を合わせるようにして話しかけていた。
「あの子はずっと、自分の好きな何かに熱中したことってなかったみたいなんです。こういうのがきっと、趣味、っていうんでしょうね」
薄目で見る彼女は、満ち足りた笑みを浮かべている。
「ささいなことかもしれないけれど、自分のことで楽しそうにしているところを見られるのが、私はとっても幸せなんですよ。ね、そーちゃん……」
それはもしか、コウ以外に話し相手のいない彼女なりの発散法なのかもしれない。コウはそう判断し、彼女の夜を邪魔しないことに決め、また眠りに落ちていった。
「さぁ、ここがお話した、G大陸グラスロードですよ!」
イリサの求めた目的地に着いた。そこは王都クラシニアのある砂漠地帯と、G大陸の玄関口になる町々を結ぶ街道の、ちょうど中間にある岬。
「ここはグラスブルーに最も近い場所、と言われているんです」
聖地、グラスブルー。イリサ本人の体は今も、そこに眠っている。彼女にとっては思い入れが、コウにとっては悲惨な思い出のある場所だ。
夕暮れの海の上空、三大陸のちょうど真ん中の位置に浮上する小島。その地表にあるという青い草原は、地上からは視認出来ない。
「でも、どうしてわざわざここなんだ」
「だって、特別な場所じゃないですか。あの島が地上に帰る時、約束の日を迎えたら、私達はお別れです。グラスブルーが空にある日々はいつかは終わる。だから今、そこにある姿を記念に撮って残すのも、悪くはないと思いませんか?」
「ああ……」
そう、いつまも続きそうな、彼女との穏やかな日々はいつか終わる。その時を迎えたらイリサはコウの元を去り、神の使命のもとに帰る。コウとの思い出を残したい気持ちがあることはわかる。
「それで、俺がイリサと一緒に写るには誰に撮ってもらえばいいのかな」
「それならそこのお宿に、この地の番をしている人がいるはずです。頼みに行きましょう!」
わずか芽生えた心細さを、イリサのはしゃぐ姿に無理矢理ごまかして、コウは跳ねるように先を歩いていく彼女を追いかけた。