コウとイリサと、そーちゃん
青草日記シリーズの設定が確定する前に、とりあえず形にしよう! として失敗した没バージョンです。
なろうには非公開機能がないのでやむをえず公開されたままになっていますが、本来だったら非公開にしたい未成熟な内容です。それでも構わない方はご覧ください。
普通、歩みを止めれば影も止まる。俺達の場合、影が立ち止まると後ろ足を引かれるかのような重みがかかって、結果的に足を踏み出すことをやめてしまう。
後ろからついてきていたはずの彼女に目をやる。雑貨屋、だろうか。一軒の店の前でイリサは立ち止まっていた。
金色の長い髪が光を散らし、明るい真っ青の旅装という、町中にあって極めて目立つ出で立ち。しかし、行き交う人は誰ひとり、彼女に目をやらない。そも、気がつくことさえない。
イリサの姿が見えるのは、彼女――「影」の持ち主である、俺達だけだから。
「何か気になるのか」
いつも通りの寝ぼけた調子で、コウ・ハセザワはイリサに声をかける。とぼとぼ、力ない足取りで緩慢に、イリサの元へ。今に始まったことではないが、こいつは大の男のくせにいちいち挙動がじれったい。
「わ。ごめんなさい、つい目を奪われてしまって」
どうやら自分の世界に入り込んで、この状況に意識がなかったらしい。イリサはうっすら頬を染めて、あわあわと無意味に腕を動かしている。
「別にいいけど。目を奪われたって」
「ええ。あんまりかわいらしいものだから」
俺と違ってコウは、彼女の多少の奇行にいちいち引いたりはしない。イリサの気にしている店の中を、興味がある、とはわかりにくいしぐさで覗き込む。
扉につり下げられていた鈴は木製で、あまり景気良くは聞こえない乾いた音を鳴らして俺達を招いた。
店内には、四方の棚に隙間なく並べられた、大小様々なぬいぐるみ。唯一空いている天井、と思いながら見上げてみたが、そこには白く切り抜かれた動物のシルエットが張り付けられるような壁紙で、一分の隙もなく幻想的な空間だった。
やがて、イリサはある一角で足を止めた。会計台に程近いそこは、くまのぬいぐるみばかりを集めているようだ。外見は同じでそれぞれ淡い色をした毛並みが種類豊富で、やわらかそうなくまのぬいぐるみ。その中のひとつ、空色をしたそれに、イリサの目はまさしく釘付けにされている。
何の気なし、コウは店内に目を配らせる。会計台の横に立つ鍵の扉付き展示棚の中には、店内に陳列されたぬいぐるみ群とは桁のひとつふたつ異なる、ひときわ高級らしい連中が鎮座している。その中のひとつには、今、イリサが気をやっているくまと同じような色をした奴もいて。
「そっちより、これの方がいいものなんじゃないのか」
それは品質的な意味で言っているのだが、コウの指すものを一瞥したイリサは、
「価値があるとかないとか、関係ないのですよ。ひとめぼれというのはそういうものなのですっ。見てください、この毛並みと体のやわらかそうなこと! きっと、ぎゅうって抱きしめたら気持ちがいいんだろうなぁ」
一度決めたら他は眼中にない、ある意味、実に彼女らしくはある。
コウは、イリサの心酔するぬいぐるみを両手でそっと持ち上げた。じっとその顔を見つめてみる。くまの目と鼻の頭、硬質な飾り釦の飾りで表現されることの多いその部位が、灰色の混ざったような黒い刺繍で表現されているからだろうか。なるほど、優しそうな顔をしているな。そんなことをコウは思った。
そして、イリサが欲しているように、くまの頭をちょいちょいと撫でた後にぬいぐるみを胸に抱いてみた。イリサは小さく歓声をあげる。
「ほらほら、いい手触りでしょう?」
「確かに」
「影」であるイリサには実体がない。その代わり、本体としている俺の体が触れたものの感触くらいなら共感することなら可能らしい。だから、イリサが感じたいものがあるのなら、コウがその代わりに動いてやるしかないのだ。
「お客さん、もしかして妖精さんでも見えてんのかい?」
大の男がひとりきり、誰もいない店内で見えない何かと話しているかのように言葉を発している。傍目には気味の悪い光景なのだが――問題は、こいつが、人目を気にするということを一片たりと意識しないという点に尽きる。大らかというべきか図太いというべきか。俺だったら、たとえ頼まれたって、ぬいぐるみを抱きしめるなんて行為は冗談じゃない――店の奥、居住スペースから出てきたらしい店員が、それを怪しむ様子のないことだけが救いではあった。
店の雰囲気とはあまりにそぐわない、三十代後半から四十代くらいと思われる中年男だ。
「お兄さん、その頭いい色してるね。紅いのが好きなのかい?」
こいつと対面し言葉を交わす相手となると、十中八九、この話題から始まる。やる気の見えない黒い眼、地味な上に長年着たきりで古ぼけた黒い着物。それらとまったくそぐわないのだ、この、鮮やかすぎる赤い髪の毛は。
「ちょうどお兄さんが抱いてるそれに、いい朱色で染めるのに成功したんだよねー。苦労したんだこれが。ちょっと見てってみないか?」
「それはいいや、別に。これ、ください」
かくして、空色のテディベアを納めた紙袋をぶら下げて、コウは店を出た。店は港の、観光客向けの土産物の店の並ぶ一角にあり、外へ出ると目の前には船着き場で忙しく働く人々、楽しげな観光客など賑やかな往来がある。
「ごめんなさい。荷物を増やしてしまいましたね」
肉体的にはひとり旅の中で生きているコウは、背負い鞄の大きさの割に荷物はとんと少ない。筆と筆記帳、最小限の衣服、日銭で稼いだわずかな資金。鞄の蓋に刺繍された世界地図だけを頼りに、直感で行き先を決めているため、詳細な地図帳さえ持ち合わせてはいない。
だからこそ、もし「欲しいなら買ってやろうか」などと言おうものなら、イリサが気を遣って断ってくるのは目に見えていた。この男は普段、何も考えていないようで――いや、考えていないからこそ、その瞬間の気持ちでさっくり行動してみせる。
「イリサにだって、ひとつくらい自分の持ち物があったっていいだろ」
もはや数えるのも馬鹿らしくなる、それだけの歳月をふたりは共にしてきた。それなのに、彼女に贈り物のひとつもしたことがなかった、そういえば。コウはそんな風に感じていた。イリサもそれはなんとなく察しているようで、素直に礼を述べる。
「ありがとうございます。せっかくコウ君が贈ってくれたんですもの、とっておきの名前をつけますからねっ」
「名前? ぬいぐるみに?」
そういうものに感情を傾けた覚えのない俺達には、いまいち理解の難しい行為だった。
「空っぽのお人形は、みんなの願いの形なのですよ。どんな夢を投影したとして、それを拒んだりはしませんから」
例えば、本物のくまさんはぬいぐるみみたいに小さくてふかふかでやわらかくもないし、人間に大人しく抱かれてくれたりはしませんよね。などと熱弁してみせる。どうやら今回の出来事はそれほどまで、彼女にとって刺激的だったらしい。
「名前をつけるのも、その一環か」
そうなのです、と言うついでのように、今日は空も海もきれいに真っ青ですね、などと呟くイリサは、太陽が真上にあるこんな時間だというのにコウより先行して歩き出す。影のくせに。
確かに、今日の空は、紙袋の中のテディベアとよく似た青い色。空色、という命名は実に的をいたものだな。そんな空を見上げながらに考えて、しかしその先に見える異物に、コウはほんの少し胸中を憂鬱にする。港町っていうのは気持ちの良い景観ではあるが、あれが内陸の町と比べて目に入りすぎるのが少しばかり苦痛だな、とは、俺も思う。
「イリサは、青い色が好きなんだな」
あれだけの色が取りそろえられ、その中であえて選んだのだから確かに好みではあるのだろう。
「好きですよー。私にとって、青は大切な人の……思い出の色。それに、私の体は今も、あの青い草原の下で眠りについていますから」
それはとても安らかで、心地がいいのだとかつて聞かされてはいる。だが、あの悲しく寂しい場所で眠るのがそんなにもいいものだとは、コウには半信半疑でもあった。
ルカ、ピノール、グランティスの三大陸に囲まれた天上に浮かぶのは、小さな島。その地表を覆うのは青い草原。神々が眠り、彼らの遺した絶大な魔力が宿るその聖地を、人々はグラスブルーと呼ぶ。
コウ・ハセザワはグラスブルーへたどり着き、しかしそこで全てを失った。その代わり、というわけではないが、そこでイリサを拾い影に宿した。俺達の途方のない旅はあの日、あの場所から始まったんだ。
宿の大浴場から上がって客室へ戻ると、イリサはうめき声をあげながらベッドの上を転がっていた。その視線の先には、枕の上にゆったりと落ち着く、空色のくまのぬいぐるみがある。
「まだ考えてるのか」
「だって、名前をつけるってはじめの一度きりなんですよ? 失敗は許されないじゃないですか」
それで誰が困るわけじゃあるまいし、とはさすがにコウも頭をよぎるが、イリサ本人が困るのならば慎重になるのも仕方がないよな。などと自己完結してしまう。
ベッドの上でイリサがひとり楽しげなので、コウもひとり、宿の主人から借り受けた求人誌をめくることにした。旅の資金は、残金の余裕がなくなってきたらふらりと都市部へ立ち寄り、日雇いで得るのがコウのやり方だった。
「決まりましたっ」
働きに出て三日目の夜だった。帰ってくるコウの気配をわざわざ扉の前で待ち伏せして、イリサは宣言した。さらにはくまのぬいぐるみの待つ枕元へ小走りし、コウまで早く早くと手招きして呼び寄せる。
なんとなく、イリサが望んでいるのを察して、コウは寝台に腰を下ろすついでにぬいぐるみを自らの膝の上に乗せる。
「この子の名前はですねー、ソウちゃんです!」
「ソウ、ちゃん」
その名前は、コウもよく知る人物からとったのだろう。イリサの命名の意外性に、コウは驚きを隠せない。無邪気に喜ぶイリサにその動揺は伝わらず、満面の笑みで話を続ける。
「はい。こんなにきれいな蒼い色、だからソウ(蒼)ちゃん。世界一、と言ってさしつかえない、とぉってもすてきな名前だと思いませんか?」
名前に世界一も何もない、もちろんイリサもそうわかっていて、冗談半分で言っているのだ。本気も半分ばかり含ませてはいるがそれはともかく。
コウは早くも別のことを考え始めて、曖昧な返事をするしかなかった。
その晩、コウはイリサが先に眠るのを待って日記を綴っていた。
今夜みたいな夏、それも月明かりの強い夜には、窓を全開にしてその恵みの下でコウは筆を取る。月の位置を確認するために見上げた空には、やはりあの物悲しいグラスブルーが目に入る。
――ソウ兄へ
この前、イリサに買った空色のくまの名前。三日も悩んでくれてやっと決まったよ。
蒼いから、ソウちゃん、だって。
やっぱり、イリサにとって、今でもソウ兄は大きな存在なんだな。きっと今でも、ソウ兄のことが誰より大切で、好きなんだと思う。
安心した。どれだけ長い間会えないでいても、イリサはソウ兄のこと忘れたり、好きだって気持ちをなくしたりしないみたいだから。
イリサのためにも、もうしばらくぶりになるけど、そろそろソウ兄に追いつきたい。そう書き連ねようとして、しかし今夜はどうにも手の動きが鈍い。コウは自覚していないが、気乗りしないのだ、どうにも。
結局あきらめて、コウも布団に入ることにした。
口を大きく開けた時、奥歯の向こうにある骨がかくりと音を立てる。そういう体質であることをコウは知っていた。
「ちょい待ち」
自分の状態から悟った事態に、コウは制止の呼び声をかける。わ、と小さな声をあげ、寝ぼけていたと思しきイリサが覚醒する。
ぬいぐるみを買ったその日の夜、イリサがそれを抱いて眠りたいと言ったものだから、あれ以来毎晩コウは「そーちゃん」を抱えて眠る羽目になった。イリサに対して異常なまでに従順なこいつは別に気にしない。問題は、そのそーちゃんを今、頭からかぶりつこうと大口を開けていたことだ。
「いくら何でも早すぎるだろ。買って三日後によだれ、噛み痕つけるとか」
「わ~っ、ごめんなさいぃ!」
「で、どうしたんだ」
「え?」
「それが出るってことは、何かあったんだろ。気持ちの落ち着かないとか、動揺するようなこととか」
噛み癖は、コウではなくイリサに備わったものだ。感情が高ぶったり、逆に落ち込んだり……本人いわく、「歯がゆい」ことがあると無意識に何かに噛みついてしまうのだという。
イリサの感情が強まりすぎると、瞬間的、体の主導権を奪いコウを動かすことがあり、その珍妙な癖も代行してしまうのだった。
「そ、それはそのぅ……コウ君が、あまり喜んでくれなかったので。名前、気に入らなかったのかな、って」
名前、って、くまにつけたやつのことだろうか。そりゃあ、いくら自分が贈ったからって、男がそれを無邪気に喜べっていうのは無理がある。
「そーちゃんって、いい名前だと思いませんか」
肩をすくめ、上目遣いでコウをうかがう。誘導尋問かよ、なんて俺なら思うところだが、コウは真剣に、しかしあっさりとこう言った。
「いい名前だと思うよ。だって、あんなに悩んで、一生懸命考えてくれたんじゃないか」
「そっ、で、ですよねっ」
泣き笑いめいた顔で、あたたかなため息を吐く。そんなイリサの姿を見るだけで、コウは自分が何を気にしていたかなんてどうでもよくなってしまうのだった。
一週間に渡って世話になった宿を退去する際、宿の主は不審者でも見るような目を隠さなかった。空気を読む、という世渡りに必須となる技術になんら関心を抱かないコウ・ハセザワには、そんな心ない応対さえどこ吹く風だ。
宿を出ると、海からの潮風に吹かれ、コウは素肌に塩辛さを覚えた。その腕に抱いた、空色のくまの毛並みにそれが侵されているような気がして、コウは手のひらでぱたぱたとそーちゃんの表面を払ってみせたりする。
軽く跳ねるようにしてコウの前へ躍り出るイリサは、その動作に長い金髪や青いローブの裾を揺らしはしても、風の流れを体に受けそれを感じることはない。
「今日から、コウ君とイリサとそーちゃんの三人旅ですねっ」
ぬいぐるみとはいえ、そーちゃんを鞄の中に押し込むのはかわいそうかなぁ、などとイリサは独り言を呟いていた。これでも彼女なりに気を遣って、コウが用足しに部屋を空けていた時にこっそりそうぼやいていたのだが。コウの戻ってくる間が悪かったのだ。かくして、コウは何をためらうことなく、日中の外を腕にくまのぬいぐるみを抱いて歩き回ることにしたのだった。
……本当はコウと、イリサと、そーちゃんの三人旅というのは、くまのぬいぐるみを買った今に始まったことではない。それは遠い、あの日から今日に至るまで、ずっとずっとそうだった。
コウはただ、「そうだな」と相づちを打つだけだった。