青い草原
――目覚めた時、私は1人、青い草原の真ん中にいました。
空も青く、見渡す限りの青、青、青。それ以外に何もないその場所は、グラスブルーと呼ばれます。かつてこの世界を作り、守っていた神々の眠る、安らかなゆりかご。
見上げた空には、時折、天翔る竜の姿が目に入ります。神竜族の配下、今はほとんど絶えてしまった、竜族です。グラスブルーは全ての時間と繋がっている場所ですから、神話時代の風景が掠めることもあるのです。
どこを見ても青い草原は、荘厳でした。きっとその場所を初めて見た人には、なんて美しいのだろう……そう、思われるのでしょう。
やがて、空が赤く染まり始めました。青い草原と、それを覆わんとする赤との対比に、どうしてか、どうしようもなくほっとしました。その赤は、懐かしい色でした。私がここに来る前に、海に根付いた大地の上に立ち、大切な人達と共に見た夕日の色と同じでした。
やがて、空に薄く藍の墨が広がってゆきます。やがてそれは闇となり、空には点々と光が顔を見せ始めます。それらの光は、やがて闇をぼかし、まばゆいほどの星空になりました。
グラスブルーには無限の時間がありましたから、私は手慰みにその星の数を数えました。ひい、ふう、みい……恥ずかしながら、すぐに飽きてしまいました。永遠のように区切りも際限もない時間、地面にお尻をつけて座っているのさえ疲れを覚え、ついに仰向けに寝ころんでしまいました。
青い空がどんなに美しくても、いつまでも同じ青を見ていてはいつか飽きてしまうのです。私は見飽きた青空に見切りをつけて、いつか愛する人と見た夕焼け空を見たいと思いました。今度は、あの日のようにあの人が側にいないことを寂しく思い、数多の星の下で孤独をまぎらわせようと思いました。けれど、誰かと一緒ならいつまでだって星を数えていられそうなのに。ひとりぼっちだとやっぱりつまらないのです。
グラスブルーとは、時の流れから隔絶され、自らの望む夢を永遠に見続けていられる、神々のゆりかご。だからそこへたどり着いた人は、その時から老いることなく、いつまでも青く清らかでいられるでしょう。
それはまるで、誰もが失いたくなかった、幼き日々の中にずっといられるかのように。
そこにいれば、今みなさまのいるこの世界と違って、心にも体にも傷を受けることはありません。望むならどんな「夢」だって見ることが出来ます。その代わり、そこで見られるものはしょせん幻であって、現実に何ひとつ得ることはないのです。
私は、途方に暮れていました。夢の世界に心底から疲れきって、青い草原のただ中に体を埋めて眠ってしまおうと考え始めた、その時。
「彼」は私の手を引いて立ち上がらせて、グラスブルーから連れ出してくれました。
今も、グラスブルーに眠る神の力を巡り、人は争い続けています。世界は常に荒れ狂う激動の中にあって、休まる時を知りません。それは悲しいことだけれど、誰にも止めることは出来ません。
みなさまも、心を痛めたり、疲れ果て倒れてしまいそうになる時がきっとあると思います。
そんな時は、どうか、みなさまの足下の影をご覧になってください。 そう、「彼」とは皆様自身のことであり、「私」は、皆様ひとりひとりの「影」なのです。
影は何も語れません。皆様にとって何の力にもなれないかもしれません。けれど、私達はいつでも、あなたの側にいます。あなたが楽しい時には共に笑い、悲しむ時は共に泣きます。
そして、私達、「影」はあなたとこの世界――皆様の生きるこの大地とを繋ぎ、あなたが世界の一部であり、確かに認められた命だと証明しているのです。たとえ人間がどんなに弱く愚かだとしても、世界は、その存在を否定したりはしないのだということを――
――ひとりぼっちで佇むのが精一杯の、小さな舞台。その上で彼女の語る最中、シェルは打ち合わせ通り、光の演出でもってイリサの語りを彩った。
天上に仕掛けた灯りの下に色とりどりの透明紙を差し込み、場面によって色を差し替える。冒頭の挨拶では加工のない白い光源を落とした。
グラスブルーのことを話す段取りでは、青い光で店内を満たした。
赤い夕暮れはもちろん赤い光で表現する。彼女にとってその光景は、人々の生きる地上、時間の動き、人の意志の流れに満たされた世界の象徴だ。
そして、人の過ちと、過ちと知りながらそれを否定のしようがない、世の中の理……それは自然のあるがままの姿、本来あるべき色として、緑色の大草原をイメージして表現した。
どんなに美しくても、草が青いなんて健全ではない。たとえ人の心が身勝手で、その欲望がままに世界を荒そうとしたって、それも自然な姿なのだと。
演出は光だけではない。イリサの魔力と、彼女が宿る影の持ち主であるコウ・ハセザワの能力とを掛け合わせて、俺達はこの場にいる全ての人間に「夢」を見せていた。それはイリサ――海を司る神、母神竜マザー=クレアとして彼女が見てきた、海の底の景色。
摩訶不思議な、夢心地の体感。だからこそ、夜の酒場、私語を禁止しているわけではないというのに、観客達は静かだった。各々の耳元に直に送り込まれるような、イリサの言葉に集中していた。
小さな舞台の締めが迫っている。シェルは天井裏で、舞台用の照明から通常の照明に切り替える。コウとイリサもまた、つかの間の幻想に終止符をうつ。
今はこの体の主導はイリサにある。その間、コウの意識もまたまどろんでいた。それは思い出されることのない、温もりの記憶。いつか彼女に抱きしめられ、その腕の中で眠った、遙か遠い日々のこと。
おぼろな感覚から覚醒した人々は、一様にきょとりとした目で、舞台の上の語り部を見やる。
イリサは、コウ・ハセザワの顔に笑みを浮かべる。それはやはり、彼女自身の充足感をあらわしたもので、正直コウの姿にはあまり似合っていない。
「あなたが孤独である時、見下ろした先のあなたの影が、あなたと一緒に泣いたり笑ったりしている。そう思うことが出来るなら、寂しさなんて吹き飛ばしてしまえると、そう思いませんか? どんな時も、あなたはひとりぼっちではないのですから」
ショーの内容がどちらかといえば真面目なので、拍手喝采とはいかなかった。しかし観客達はひとりとも残らず、全員が、ぼんやりとした拍手を返してくれた。それは彼女の語りに聞き惚れ、そしてこの店の三人が一丸となって作り上げた演出に見惚れてもらえたという証だった。
ショーが終わっても店は終わらない。今度はまた料理の注文が入って、それを各卓に運ぶコウは気さくに声をかけられる。
「案外おもしろかったぜ、ああいう真面目な話を聞くのもさ」
「これで、あんたがかわいいお姉ちゃんだったら文句なかったのになぁ」
まぁ、俺はもちろん朴念仁のコウ・ハセザワでさえその自覚はある。どうせなら味気ない男ではなく、可能なら、イリサ本人の姿のまま出来た方が華があるに決まっている。不可能だから致し方ないのだけど。
「あれぇ? オレぁなんか一瞬、かわいい女の子が舞台に立ってるようにみぇたんだがなぁ。見間違いかぁ?」
へべれけに酔っぱらったある男は、そんなことを言っていた。おそらくコウとイリサの見せる幻想との同調率が高かったのだろう。
「ふふふ~、お褒めにあずかり光栄です! かわいい女の子、にはいつかお越しいただいてこの小さな舞台をお任せしますから、今後ともごひいきによろしくお願いしますね」
シェルと、コウのふたり――時にはイリサも含んだけど――海の家の経営は順当だった。
「行くのか」
「ああ」
それでも約束の一年後には、コウはすっかりこの店を出る用意を整えていた。シェルひとりで店が回らないことは明らかだったから、コウは日頃の業務のついでに自分の後任になる人材を見つけており、引継も済ませたのだ。普段のこいつからは想像もつかないような、手回しの早さではあるが――
「シェルと一緒に、ここでずっと店をやるのも悪くないと思う。それだけ、この一年間は楽しかった……人間だった、あの頃のことも思い出せて。でもオレには、他にやらないといけないことがあるんだ」
――グラスブルーからイリサを連れ出したあの日から、コウはまっすぐ未来だけを見据えていた。
「ありがとう。一年間、お世話になりました。あと、これも引き受けてくれて」
コウが、この店に日記を残していくこと。それをシェルに管理してもらうことを頼んだのは今朝のことだ。
今後この店を訪れるたくさんの客の中にソウジュらしき男がいたらこれを見せて欲しい。彼に伝えたい、コウとイリサの日々を余すことなく詰め込んだ、願いの結晶を託す。
「おまえの願い、叶うといいな。何か願掛けする機会には、おまえ達のこともついでに願ってやろう」
「……ありがとう」
最後にそんなことを言うものだから、コウは礼の言葉を重ねる羽目になった。
コウが腕に抱く空色のくまのぬいぐるみに、シェルは目を細めた。コウと同様に、彼が自然に見せることは少ない、営業によらない純粋な微笑。
じゃあな、と、シェルはふたりに別れを告げる。コウはもう一度頭を下げ、そして今日も彼の傍らに連れ添うイリサも、コウと同じ動きをする。
その姿がシェルの目に映らないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。