真面目男と捻くれ男の場合
〈カップリング〉
坂本×神谷。
名前は出ていないが、一応神谷視点の話。
オレにいつも突っかかってくる奴がいる。そいつとは同い年で、1年の時はクラスも一緒だった。進級してからは幸いにもクラスは別になったが、それでもすれ違った時は、何かと絡んでくる。
たとえば、そう。最初の呼びかけはこんなふうに。
「おい」
*
授業が終わるなり、凪のように静まり返っていた教室は途端に喧騒を取り戻した。四方から聞こえてくる雑音は、何日も火にかけた鍋料理みたいに、オレの脳味噌をぐずぐずに溶かしてしまう。気分は最悪だ。思考をかき混ぜる苦痛から逃げ出そうと教室の外に出るも、やはりそこにも人はいて、各々が好き勝手に振る舞っている。
笑い声、足音、シャッター音。青春のひとときを羨ましいと思うほど純情ではなく、無関心でいられるほど達観してはいない。だから、癪に障るのだ。自分以外の何もかもが。
舌打ちをすると、すぐ傍を通りがかった男が怯えたように肩を震わせ、小走りで走り去っていく。苛立ちは一層募っていくばかりだが、怒ってもキリがないと自分に言い聞かせ、深く息を吸った。ネクタイを緩め、ボタンを上から3つ外す。堰き止められていた二酸化炭素の塊が、雪崩れを起こしたように外へと溢れていく。それでもまだ息苦しさは拭えない。人が多いせいだ。オレが呼吸をするのに精一杯なのとは裏腹に、周りの奴らは、友人と喋り、音楽に合わせた短いダンス動画を作るためだけに酸素を消費していく。
心底憎らしい。周りの奴らが、じゃない。些細なことに神経をすり減らしている自分の今の状態が心底憎らしい。
いっそのことこの場所から逃げ出してしまおうと、爪先は既に昇降口に繋がる階段へと向いていた。靴の裏の滑り止めが床と擦れ合い、潰れた蛙のような音を立てる。何の気なしに視線を下に向けたその時、やけに通りの良いその声が、オレの鼓膜を震わせた。
「おい」
草食動物の楽園みたいなこの場所で、オレに向かって舐めた口をきける奴なんて、オレの知る限りは一人しかいない。相手が誰かは分かっていたが、すぐに振り返るのも癪なので、気が付かないふりをして歩を進めた。すると、背後から肩を掴まれる。
「聞こえてるんだろ。無視するなよ」
ここで、ようやくオレは振り返る。ため息を吐き、顰めっ面を作ってからゆっくりと振り返ると、そこにはオレと同じくらい不機嫌な顔をした男が立っていた。
「制服はちゃんと着ろって言ってるだろ。何度言ったら分かるんだ」
小柄な体型とは裏腹に態度が大きいその男は、オレが立ち止まったと分かるや否や、両手をオレの首元へと伸ばしてくる。
何度も繰り返した行為だ。こいつの目的をオレは知っている。だが、どんなに頭では理解していても、まるで未知の出来事に遭遇したかのように、オレの体は動きを止めてしまう。それが期待や安堵によるものであればよかったのだが、実際は「死期を悟った動物の諦め」に近いのかもしれない。
オレはこの男に会うたびに、自分の心に生まれた感情を、自らの手で葬らなければならないのだから。
男はオレの後頭部に素早く手を回すと、もう片方の手で器用にシャツのボタンを留め始めた。ボタンを全て留めると、今度はネクタイを手に取る。
間近に顔が迫ってきて、咄嗟に目を逸らした。それでも視界の端に、短い髪の毛がぴょこぴょこと揺れ動くのが見える。
オレより背が低くて、オレより誕生日が遅くて、そのくせオレに偉そうな口をきいてくるこの男。鬱陶しくて仕方ないはずなのに、オレはこいつを_____坂本を追い払うことができない。
「これでよし」
満足そうに頷く坂本を見ていると、腹の底から苛立ちが込み上げてくる。オレの気も知らずに、呑気にしやがって。
「ボタン、外すんじゃないぞ。それからネクタイもだ。校則で決まってるだろ」
「うるせえよ」
「うるさい、じゃない。何度も言ってるんだから、いい加減言うことを聞いたらどうなんだ」
何度も。坂本がそう言った通り、オレ達はこのやり取りを、それこそ両手では収まりきらないほどの回数行っている。根が生真面目なこの男は、一度面倒を見たからには、最後まで世話を焼くのが自分の責務だと思っているに違いない。だから、クラスが変わった今も、オレを目ざとく見つけては絡んでくる。
何度も言い返した。何度も無視した。何度も突っぱねた。そのたびにこいつは怒ったり、呆れたりするのだが、それでもオレを見放すという選択はしなかった。そのうちにオレも反抗するのが面倒になってきて、今ではこいつのやりたいようにさせてやっている。どうせ卒業すれば切れる縁だ。3年の付き合いは、これからの人生を考えると驚くほど短い時間でしかない。
「くだらねえ。何が校則だ」
その辺に転がっていた石を蹴飛ばすみたいに、そう吐き捨てる。坂本は眉間にシワを寄せた。ああ、そうだ。そうやって少しずつ、オレを嫌う理由を積み重ねていけば良い。3年になる頃には、これまでの行いが全部無駄だったって気づくだろうよ。
「じゃあな、真面目男」
何故かそれ以上こいつの顔を見ていられなくなって、オレは坂本に背を向けた。しかし、一歩足を踏み出す間もなく、坂本は再びオレの手を掴んだ。振り払いたくなるのを堪えて、舌打ちをする。舌打ちで我慢してやったのはせめてもの温情だ。もう少し虫の居所が悪ければ、暴言を吐いていたかもしれない。
「保健室」
坂本は、単語だけを呟いた。保健室が何だよ。オレが振り返ると、坂本は想定外の表情をしていた。眉を八の字にして、まるで何かに耐えるような表情をしている。怒っているようには見えなかった。どちらかと言えば、叱られている時の子供みたいな、泣くのを堪えている表情に近い。
「授業をサボるくらいなら、保健室に行け」
「はあ?」
「体調、あまり良くないんだろ。だったら素直にそう言えば良い」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。スポンジに水を染み込ませていくみたいに、オレのからからに乾いた心が、頭よりも先に言葉の意味を理解する。
「顔色が悪い。それに、目の下に隈もある」
「……いつもこんな顔だろうが」
「いや。いつものお前はもっと怖い顔をしている。視線だけで人を殺せるくらいにはな。それに、些細な言動に苛立ちやすいのも寝不足の証拠だ。保健室に行って、休ませてもらうと良い」
真面目腐った顔でふざけたことを言う。
悪かったな。口が悪いのは生まれつきなんだよ。
言い返してやろうと口を開きかけたオレに、坂本は追撃をかます。
「一人で行くのが怖いなら、俺が一緒に行ってやろうか」
今度は微かに笑みを浮かべていた。揶揄われている。そう理解した瞬間、顔が熱くなった。
「保健室くらい一人で行けるっつうの!」
思ったよりもその声は大きくなってしまった。通りがかった奴らがオレをチラチラと見てくるもんだから、ますます顔が熱くなってくる。
ふざけんじゃねぇ。これじゃあ、本当に一人で行くのが怖いみたいじゃねえか。
「坂本、覚えてろよ」
恨みがましく睨みつけるも、坂本はどこ吹く風だ。
「ああ、覚えておく。後で保健室の先生に、お前がちゃんと来たか確認しておこう」
涼しい顔をして、そんなことを言う。こいつのこういうところが心底憎らしい。
坂本は時間を確認すると、足早に去っていく。教科書を持っていたから、次の授業が移動教室なんだろう。僅かな休憩時間にもオレに小言を言ってくるなんてご苦労なことだ。
「心配しろなんて、頼んでねぇっつうの」
人の行き交う廊下で、オレの小さな一言は誰にも拾われることなく空気に溶ける。別に聞かれたいわけじゃねぇけど、なんだか虚しい気持ちになってくる。
オレはすぐさまネクタイとボタンを外した。階段を降り、昇降口を抜け、渡り廊下を歩く。向かう先は保健室だ。
あいつの言うことを素直に聞いてるわけじゃねぇ。オレが保健室に行かなかったとあいつが知れば、後々面倒になるのが分かっていたからだ。
オレが保健室に入るなり、教員は珍しいものだと目を見開いた。
「サボりに来た」
有無を言わさず、一直線にベッドへと向かう。坂本の指摘通り、オレは自分が思っている以上に顔色が悪かったのかもしれない。教員は呆れたような顔をしたが、咎めるようなことはしなかった。
パーテーションでベッドを囲めば、そこは一人の世界になる。真っ白な壁と、真っ白な布団。清潔であることを許されたこの空間で、オレは誰にも妨げられることなく目を閉じる。
思い出すのはさっきの坂本の姿だ。
呆れたように手を伸ばしてくる。あいつの手はオレよりも小さいはずなのに、筋張ってゴツゴツとしていて、表面の所々に傷跡があった。新しいものから古いものまで。陸上部に所属しているあいつは、オレの知らないところで小さな傷を増やしていく。
小さなため息の後に呟く「仕方ないな」という声は、小柄なあいつの体から想像されるものよりも幾分か低い。坂本があんな不機嫌そうな声を出すのは、恐らくオレ相手だけだろう。
胸元に手を当てて、深呼吸を繰り返した。気分を鎮めるためにしたはずのその行為は、余計にオレを落ち着かなくさせた。そわそわと指先が痒くなり、意味もなく首を掻く。ああ、クソ。憂さ晴らしに呟いてみても、顔を赤くさせるこの熱が引くことはない。
先程までの息苦しさがなくなっていることに、できることなら気がつきたくなかった。




