預かりもの
その日の午後の授業は、妙に長く感じられた。
五限目の数学。一定のインターバルで鼓膜を叩くチョークの音は、メトロノームのように正確で、クラスの意識を少しずつ浅い眠りへと誘い出していく。
クラスの半分くらいは舟を漕いでいるし、残りの半分は機械的にノートを写している。
私はといえば、ノートの端に小さな丸を描いては塗りつぶす作業を繰り返していた。
ふと、顔を上げる。
午後の日差しが西に傾き始め、窓ガラスに反射した黒板の文字が、空中に浮いているように見えた。
光の屈折のせいだろうか。緑色の黒板に白く書かれた数式が、透明なガラスの上で左右反転して、まるで見知らぬ国の呪文みたいにキラキラと輝いている。
実体のない、光だけの文字。
それは、今この角度に座っている私にしか見えない、小さな魔法だった。
綺麗だな、と思う。
誰も気づかない。先生も、前の席の男子も、隣で消しゴムのカスを丸めている女子も。
私はその「裏文字」が、ゆっくりと陽の移動とともに形を崩していくのを、瞬きも忘れて見つめていた。
「……ねえ」
不意に、すぐ近くで声がした。
心臓が跳ねる。見ると、斜め後ろの席に座る結さんが、上半身を伏せたままこちらを見つめていた。
彼女の机の上には、数学の資料と⋯⋯びっしりと予定が書き込まれた手帳が開きっぱなしになっている。付箋の山が、彼女に「余白」がないことを物語っていた。
彼女の鋭い視線が、私の視線をなぞるように窓の外へ向く。
「何見てるの? さっきからずっと」
結さんの声は低くて、でも教室のざわめきをすり抜けてまっすぐに届いた。
まごつきながらも、指先で窓を指す。指先が微かに震える。差し出した自分の腕が、午後の光を遮って、そこだけ不格好な影を作った。
「あ、えっと。窓ガラスに、板書がキラキラ反射してて。裏文字になってるのが、なんか、きれい?だなぁって……」
言い終える頃には、自分の声の小ささに消えてしまいたくなった。吐き出した言葉が、冷たい空気の中で場違いな色彩を帯びていくのを感じた。
モブの分際で、何を詩人ぶっているんだ。奥歯の裏に、苦い砂を噛んだような後悔が広がる。
結さんはもう一度、窓を見た。
けれど、その時にはもう雲が太陽を掠め、光の角度は変わっていた。ガラスの上にあったはずの白い呪文は、霧が晴れるように消えて、ただの透明な板に戻っている。
「……なーんも、見えないけど」
「あ、ごめん。もう、消えちゃったみたい」
私は慌ててノートに目を落とした。結さんは「ふうん」とだけ言って、手帳を眺め始たようだ。
やっぱり、変なやつだと思われたかな。自分の透明な殻の中に、さらに深く閉じこもるようにぐいっと背を丸めた。
◆◆◆
終礼が終わり、教室には放課後の独特な解放感が広がった。
私はいつものように、一番最後に教室を出るつもりでゆっくりと荷物をまとめていた。早く帰っても、特にすることはない。ただ、この「みんながいなくなる時間」の静けさが好きなだけだ。
「麻衣、さん」
──聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには結さんが立っていた。
彼女の手元から覗くスマホの画面が、絶え間ない通知でチカチカと明滅している。彼女はそれを一度も見ようとせず、まるで縋り付くような目で私を見ていた。
その指先は、スマホの角を無意識に強く擦っていて、ケースの端が少しだけ剥げている。
彼女の周りだけ、空気がピンと張り詰めているような気がした。
「もっかい、教えてよ。さっきのやつ」
「えっ?」
「反射してきれいに見えたっていう、あれ。私、見逃したから」
結さんの瞳の奥で、小さな火花が爆ぜたような気がした。冗談をはねつけるようなその鋭さに私は戸惑いながらも、立ち上がった。
「今はもう、光の向きが違うから見えないよ。でも……明日の同じ時間なら、また見えるかも」
「明日まで待てない」
結さんは短く言って、私の手首を軽く掴んだ。
「私、さっきの授業中、ずっとこの後の予定のことしか考えてなかった。……あんたが見てたもの、私には一瞬も映らなかったの」
「何か他にもあるんでしょ。あんたが見てて、他の人が見てないもの。……私、そういうのが知りたい」
掴まれた手首から、彼女の熱が伝わってくる。
結さんの言葉は、どこか急いでいた。まるで、今ここで何かを捕まえておかないと、自分がどこか遠くへ流されてしまうと恐れているみたいに。
◆◆◆
私たちは、どちらからともなく無人の特別教室棟へと歩き出した。
地味で目立たない私と、華やかだけど孤立している彼女。接点なんて一つもなかったはずの二人の影が、長い廊下に並んで伸びていく。
「これ、見て」
階段の踊り場で足を止めた。
古びた真鍮の消火栓の扉。その表面が、夕日を浴びて鈍く光っている。
「光ってるだけじゃん」
「ううん、よく見て。表面に細かい傷がいっぱいあって、それが光を反射して、小さな銀河みたいに見えるの」
結さんは顔を近づけた。数秒の沈黙の後、「……あ」と小さな声が漏れた。
「本当だ。渦を巻いてるみたい」
「言葉にすると、ちょっと違う気がするんだけど。……あ、そうだ」
私はポケットからスマホを取り出した。普段、誰とも通話することのない私のスマホ。ささっとボイスメモのアプリを起動して、録音ボタンを押した。
「『五月、午後四時すぎ。二階の消火栓。傷の数だけ、光が閉じ込められてる。触ると少し、冷たい』」
録音を止めて、再生する。
抑揚のない平坦な声が、静かな廊下に響いた。
「何それ。日記?」
「ううん。写真だと質感が伝わらないし、文字にすると書いている間に気持ちが逃げちゃうから。声のトーンごと、預けておくの」
結さんは不思議そうな顔をして、私のスマホをじっと見つめている。
「『預ける』……誰に?」
「……自分に、かな。いつか自分が、今日何を感じたか忘れちゃいそうだから」
彼女はしばらく黙っていると、やがて、自分のポケットからスマホを取り出した。ふと画面に「バイト先」からの着信通知が覗き見えたけれど結さんは、迷うことなくそれをスワイプして消した。
消火栓の写真を一枚撮る。シャッター音が、やけに大きく響く。
「じゃあ、この眺めは私が『預かる』」
結さんの表情が、一瞬だけ和らいだ。だが、すぐに彼女のスマホが短くアラームを鳴らし始めた
「あ、やば」
その一言を境に、纏う空気が一瞬で「日常」から「戦場」へと切り替わる。「また明日ね」とだけ言い残し、嵐のように廊下を駆け抜けていった。
私はぽつんと一人、踊り場に取り残された。
手元には、さっき録音した自分の声だけが残っている。あの人──どうしていつも急いでいるんだろう。
放課後の校舎には、夕闇がじわじわと忍び寄っていた。
私はもう一度、ボイスメモを再生した。抑揚のない声のすぐ後ろで、結さんが息を呑む微かな音が混じっていた。
それは、クラスの誰も知らない、私たちだけの「預かりもの」の始まりだった。




