空気な私
「五月の教室は、皆の香りがする。私の香りは、まだどこにもない」
──この透明な静寂。そこに、逃げようのない「色」が混じり始めるとはその時の私は微塵も思っていなかった。
◆◆◆
窓際の席で、私は小さく息を吐いた。
ゴールデンウィークという、高校入学の熱を冷ますには充分な冷却期間が終わった。連休明けの教室は、休み中の思い出話や、新しく固まったグループの笑い声で満ちている。
誰かが持ち込んだ制汗スプレーの、刺すようなシトラスの香り。
体育の後の男子がまとう、少し重たい汗の匂い。
おしゃれに敏感な女子たちが髪に振りかけた、甘いフローラルの残り香。
それらが混ざり合って、この場所の『空気』を作っている。
けれど、その中に「私」を感じさせるものは何一つない。
ゆらゆらと揺れる光。誰も見ていない、私だけの静かな時間。
私の存在感は、いつも絶妙に薄い。
たとえば、中学の集合写真。クラス全員で撮った集合写真の私は、隣の男子が広げた学ランの袖に半分隠れていた。カメラマンも、編集した業者も、たぶん私の親以外は誰もそれに気づかなかった。
今日だって、小さな「いつも通り」があった。
一時間目の移動教室のあと、私はシャーペンを忘れて自分の席に戻ったのだけれど、次に入ってきたクラスの男子二人が、私のすぐ隣で「あいつマジでムカつくよな」と楽しそうに話し始めた。
私はそこに座って、ペンケースのジッパーをゆっくりと引く。金属が噛み合う小さな音さえ、彼らの笑い声に塗りつぶされて届かない。物理的な距離は、腕を伸ばせば触れられるほどなのに。なのに彼らは、まるで無人の教室にいるみたいに、無防備に笑い合っていた。
私はまるで幽霊にでもなったような気分で、そっと足音を消して教室を出た。
怒りよりも先に、「やっぱりな」という納得がくる。私は誰の邪魔もしない代わりに、誰の視界の端にも引っかからない。
それは寂しいことのはずなのに、時々、ひどく心地よかった。世界のノイズから守られた、自分だけの安全地帯にいるような。
──ふとその時、前の席の女子がくるりと振り返った。
「ねえ、麻衣さん。これ、後ろに回してくれる?」
差し出されたのは、ホチキス留めされた数枚のプリントだった。
「あ、うん。了解」
差し出されたプリントを一枚抜き取り、余った束を後ろへ流す。左上の姓名欄には、見慣れた名前が並んでいた。
麻衣。特に珍しい名前でもない。
麻衣なんて、どこにでもいて、誰にでも似合う。出席番号順に並べば、後ろには「舞さん」がいて、先生が名前を呼べば、私じゃない方の「まいさん」が元気よく返事をする。
私はそれを、少しだけ安心しながら聞いている。
紛れられる。隠れられる。
どこにでもいる名前で、どこにでもいる見た目で、どこにでもいるような成績の、高校一年生。私は、この教室において、背景に描かれたモブキャラのような存在だった。
クラスメイトに話しかけられれば、普通に返事をする。「おはよう」と言われれば「おはよう」と返すし、「ノート見せて」と言われれば「いいよ」と差し出す。
嫌われているわけじゃない。でも、好かれているという確信もない。
授業が始まる前の数分間。私は教科書を広げるふりをしながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
五月の陽光は、四月のそれよりも少しだけ鋭い。校庭の隅にある大きなクヌギの葉が、風に揺れてキラキラと光を跳ね返している。
その光が、窓ガラスを抜けて私の机の上に届く。木漏れ日の影が、中学時代から使い古した筆箱の上でゆらゆらと揺れている。
明るくなって、暗くなって、また現れる。
ただそれだけのことが、まるで世界が私の隣で静かに呼吸をしているみたいで、胸の奥にトクン、と小さな波紋が広がる。
誰の記憶にも残らないはずのその一瞬を、私だけが独り占めしているような、静かで贅沢な心地だった。
「……あ、消えた」
太陽が雲に隠れたのか、机の上の光のダンスが止まる。
周りのみんなは、スマホの画面を見たり、週末のカラオケの予定を立てたりするのに忙しくて、机の上から光が消えたことなんて、誰も気づかない。
私だけが見ていた。私だけが、今の数秒間の美しさを知っている。
それは、誇れるようなことじゃない。
ただ、私が「何もない」モブ人間だから、余った視線がそんなところに落ちるだけだ。
「ねえ、聞いてる? 結!」
不意に、少し離れた席から鋭い声が聞こえた。
クラスの「中心」に近い場所にいる女子たちが、一人の生徒を取り囲んでいる。
輪の中にいるのは、結さん。
すらりと高い背中に、凛としたポニーテール。彼女はこのクラスでも、少し浮いた存在だった。といっても、私のような「透明」な浮き方ではない。
彼女は明るいし、話せばハキハキと笑う。でも、彼女は特定のグループに属そうとしなかった。休み時間になれば、いつも一人で単語帳をめくっていたり、どこか遠くを見ていたりする。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
結さんは、申し訳なさそうに、でも少しだけ「ここにはいない」ような笑顔で答えた。
彼女を取り囲んでいた女子たちは、「もう、ノリ悪いんだからー」と笑いながら、別の話題へと移っていく。
結さんは、その輪の中からそっと視線を外している。その瞳は、楽しげな会話の輪を通り越し、窓の外の遠い空を測るような冷たい眼差しだ。ふいにつま先立ちをして時計を確認するその脚は、今すぐここから蹴り出して逃げたがっているようにも見えた。
その動作は、まるで「次の予定」に追われている人のように、どこか急ぎ足みたいだ。
──彼女もきっと、このクラスの空気には馴染んでいない。
けれど、私とは決定的に違う。
私は、ここに居場所がないから背景に溶け込んでいる。
彼女は楽しげに笑っていても、その輪郭だけが周囲と馴染まず、ピリピリと空気を震わせている。それは、馴染もうと努力している人間の色ではなく、ここから削り取られたがっている人間の色だった。
その時。
結さんの視線が、ふと窓の外へ向いた。
一瞬だった。
いつも明るく、エネルギーに満ちているはずの彼女の顔から、すべての色が抜け落ちたような気がした。
唇を少しだけ噛み締め、眉を寄せ、まるで自分を叱咤するように、あるいは何かに耐えるように。
それは、クラスの誰もが見たことのない――いや、見ようともしない、結さんの「本当の顔」に見えた。
私は、息を止める。
彼女の横顔に宿った、言葉にならないほどの焦燥感。それを、私は網膜に焼き付けるようにじっと見つめてしまった。
――結さんが、こちらを振り向いた。
視線が、まともにぶつかる。
「あ……」
喉の奥で、短い声が漏れた。私は逃げるように視線を机に落とす。心臓が、モブキャラの分をわきまえない速度で、肋骨の裏を叩き始めた。
気づかれただろうか。私が彼女の、あんなに危うい表情を見てしまったことに。
再び太陽が雲から顔を出し、私の机に光が戻ってきた。でも、もうさっきのように光のダンスを楽しむ余裕はない。
私の指先が、ノートの端をぎゅっと掴む。
私の匂いは、まだどこにもない。
けれど、この瞬間に感じた結さんの、あの顔だけは、私の内側に、確かに何かを残していった。
それが、私たちが特別な関係になる、ほんの少し前の出来事だった。




