第三章 初夏の儀 上
鐘が三度鳴った、初夏の儀が始まる。
楽師の奏でる低い調べが広間を満たす。
初夏の儀は、天と地、そして夏の恵みを祈る儀式だ。
形式は華やかだが、その裏では各家の思惑が水面下で絡み合う。
(……この場に、“影”が紛れ込んでいないはずがない)
蘭玲は伏せた睫毛の奥で、周囲を観察していた。
王玉華はいつも通り堂々と、だがどこか苛立ちを含んだ感じが漂い、不機嫌そうに座っている。
朱明月は穏やかで、視線は一切揺れない。
柳翡翠は祈りを捧げるように目を閉じ、雲春鈴は微笑を浮かべながら周囲を見回している。
(……雲家)
無意識に、懐に隠した簪の存在を思い出す。
(やっぱり…返すべきかしら?)
しかし、雲春鈴の所作には乱れがない、演技か、それとも本当に無関係か。
そのとき、皇帝・景耀がゆっくりと手を上げた。
「今年も、無事に夏を迎えられることを、天に感謝しよう」
声は落ち着いているが、重みがあった。
続いて皇后・柳瑶琴が一歩前に出る。
「妃候補の姫たちよ。そなたらは、この国の未来を背負う存在。今日の儀は、その覚悟を天に示すものです」
姫たちは一斉に頭を垂れる。
「時は満ちました。姫たちよ、夏神の御前に立つ覚悟は整っていますね。言葉は飾るものではなく、宿すもの。どうか、その心根を詩に託しなさい、覚悟がある者から始めなさい」
その一言が、静かな波紋のように広がった。
ざわ、と場が揺れる。
誰もが一瞬、互いの気配を探るように視線を伏せる。
(……指名、ではないのね)
これは公平に見せかけた、最も残酷な問いかけだ。
王玉華は、扇を握る指に力を込めた。
唇がわずかに歪む。舞なら自信はあるが、詩は不得手。
先に出れば嘲笑され、後に回れば臆したと思われる。
雲春鈴は微笑を崩さない。
だが、その瞳の奥で計算が走る。
早すぎれば軽く、遅すぎれば疑われる。
朱明月は静かに胸元に手を添え、呼吸を整えていた。
詩は完成している。だが、場の空気を読む慎重さが、彼女の足を止める。
柳翡翠は目を伏せたまま、祈るように指を組んでいる、だが作り終えてはいる。
だがそれは、今この瞬間に捧げるべき言葉なのかを、なお天に問い続けていた。
――誰も、前に出ない。
沈黙が、わずかに長くなる。
(……なるほど)
蘭玲は内心で息を吐いた、この沈黙こそが、皇后の望んだものだ。
“詩の出来”ではない。“一歩を踏み出す覚悟”を、試している。
蘭玲は、まだ動かない。自分が出るべき時ではないことを、よく知っているから。
そして、その沈黙を破る者が、この場の流れを握る――。
(…長い……私は早く行きたい…)
伏せた睫毛の向こうで、蘭玲は姫達の様子を伺う。
玉華の呼吸が荒くなり始めている。
春鈴の微笑が、ほんのわずか硬い。
翡翠の指先が、静かに組み替えられた。
(……動くなら、今)
その瞬間だった、雲春鈴が、半歩だけ前に出た。
場の空気が、きし、と音を立てたように揺れる。
「雲家が……」
誰かが、息を呑む音。
春鈴は可憐な微笑を保ったまま、ゆっくりと膝を折り、夏神の祭壇に向かって頭を垂れる。
「夏神様、拙き言葉ではございますが……」
声は柔らかく、幼さを残している。
――軽すぎず、重すぎず。
“最年少の姫”という立場を、最大限に活かした声音。
そしてわざわざ、“様″までつけるなんて。
「花は争わず
ただ風に身を任せ
陽を受けて咲く
小さき命も
夏に守られますように」
詩が紡がれる、花、風、陽光、争いを避け、夏の素晴らしさを祈る言葉、内容自体は、悪くない。皆は飾ることだけをみて恵みなんてすっかり忘れているのか。
春鈴が詩を終えると、広間には拍手が起こる、皇后・柳瑶琴が、わずかに視線を動かす。
それは評価というより、確認に近いものだった。
「……素晴らしい」
それだけ短いが、賞賛である。
朱明月だった、流れるような所作、焦りはなく、しかし迷いもない。
(……春鈴様が出たから、出た)
明月は、祭壇の前に跪き、頭を垂れる。
「朱家の姫、明月より。夏神に詩を捧げます」
皆が黙って、明月を見つめる、明月は微笑を浮かべて言葉を紡ぐ。
「光は影を拒まず
水は火を憎まず
夏は試す季節
心の在り処を映す鏡
舞う花も
立つ剣も
ひとつの空の下にあり
どうか、争いを力に変え
国を、明日へ導かん」
詩は美しく、調和に満ちていた。
水と光、慈しみと祈り。
「完璧な答え」それが完璧で無駄がない、広間に拍手が溢れんばかりに響く。
明月はにっこりと微笑みを深めて、一礼をする。
玉華が、奥歯を噛みしめるのが分かった。
(……そして、次は)
視線が集まり始める、柳翡翠か、王玉華か。その中で、蘭玲は静かに決意した。
(……今なら、面倒は最小限、よし今よ!)
蘭玲は、ゆっくりと立ち上がった。
衣擦れの音が、やけに大きく響いた気がした、場の視線が、一斉に集まる。
(…やっぱり、私は実家のことがあるのか目立つ…)
内心で苦笑しながら、蘭玲は、膝を折り、夏神の祭壇へと頭を垂れる。
蘭玲は、深く息を吸った、本来なら、ここで詩を捧げるべきなのだろう。
花を、風を、光を、美しい言葉で飾って。
(……それは、もうあの二人がやった、後の二人もそうする)
そして何より。
(私は、嘘が下手だ)
顔を上げた蘭玲の瞳は、澄んでいた、飾り気も、媚びもない。
「夏は、恵みの季節と申します」
静かな声が、広間に落ちる。
「雨は大地を潤し、陽は稲を育てる。
それは、確かに事実です」
一拍、間を置く、これ大事。
「ですが――民にとっての夏は、同時に過酷な季節でもあります」
ざわ、と、わずかな動揺が走った。
蘭玲は続ける。
「豪雨が続けば、稲は根から腐ります。
陽が強すぎれば、水は干上がり、稲は枯れる。
豊かさと困難は、常に隣り合わせです。
どちらか一方だけを見ることは、できません」
視線は、夏神の祭壇ではなく――
その奥、玉座の方向へと向けられていた。
「もし、国を治める者が“恵み”だけを語るなら、その影で苦しむ声は、誰が聞くのでしょうか」
広間は、水を打ったように静まり返っていた。
詩ではない、確かに、これは詩ではなかった。
必要なのは、美しい言葉ではなく、見ようとしなければ見えない現実。どうせ神様は全てを見ていらっしゃるし。
蘭玲は、最後に一礼した。
「以上が、金家の姫として、私が捧げる言葉です」
衣擦れの音が、静かに響く。
誰も、すぐには言葉を発さなかった。
(拍手くらいしてくれないととっても気まずいでしょ!!)
広間の静寂は、蘭玲には気が遠くなる時間だった流れだった、それがやっと小さな拍手に変わった。
それはほんの数人の手によるものだったが、やがて周囲に伝播し、控えめながらも確かな評価の空気が広がった。
玉華の眉がぴくりと動いた。奥歯を噛みしめ、微かに唇を歪める。
心の奥では、嫉妬や苛立ちだけではなく、理解の芽も芽生えていた。
だが、その表情は誰にも読めないよう、完璧に閉じられている。
翡翠は目を伏せたまま、ゆっくりと呼吸を整えていた。
詩ではなく現実を語った蘭玲の言葉は、彼女の心にも静かな衝撃を与えた。
明月は、やわらかな微笑を保ちながらも、眼差しの奥に少しの感嘆が宿る。
蘭玲の言葉は、美辞麗句ではないが、民を想う心がある。
そして、皇后・柳瑶琴の視線が、静かに蘭玲へと注がれる。
その瞳には評価も警戒も混ざり合い、わずかに揺れる光があった。
口元は動かないが、心の中で何かを測っているのが、蘭玲にも伝わる。
(……なんか気まずっ…)
心の中で蘭玲はそう思う。
彼女は民のことを語った。それだけで、十分だった。
言葉は力を持つ。飾る必要は、ない。
でも一応命令に背いた事は反省しているし、でも居心地が悪い。
そのとき――
広間の奥、玉座に座る景耀帝の瞳が、じっと蘭玲を捉えた。
穏やかな笑みは浮かべているが、その奥には小さな光のきらめきがある。
(……興味深い姫だ)
そう、思ったのだろう。
広間に静寂が漂う中、景耀帝が口を開く、決して大きな声ではない。
「金家の姫よ……」
景耀帝の声は低く、しかし明確に広間の隅々まで届いた。
「民の声を思い、現実を見据えるその心根、感服する」
皇帝の誉め言葉、そうこれは多分誉め言葉だ。
蘭玲の言葉が広間に余韻を残す中、王玉華はゆっくりと視線を上げた。
その瞳には、まだ苛立ちと嫉妬の色が混ざる。しかし、同時に新たな決意も芽生えているのがわかる。
(……わたしくしも、後れを取りたくない)
玉華は深呼吸を一度だけし、膝を折って祭壇へと向かった。
広間の空気は、彼女が動くたびに微かに揺れ、誰もが視線を注ぐ。
「王家の姫、玉華。夏神に詩を捧げます」
その声には、初めの苛立ちはもうなく、代わりに真っ直ぐな力強さがあった。
「花は咲き、風は吹き
陽は照らすも、嵐もまた来る
強き者のみが守れるものではなく
心の誠と覚悟が
民を支え、国を導く」
言葉は力強く、王家の姫らしい堂々とした響きを持つ。
広間には、静かながらも確かな重みが広がった。
玉華は一礼すると、振り返り視線を定める――蘭玲、そして他の姫たちへ。
そして、残るは柳翡翠。
彼女はまだ目を伏せたまま、指先で近くにあった扇を静かに回している。
ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。蘭玲、春鈴、明月、玉華――皆がそれぞれの言葉を捧げた。
翡翠の心は静かに波立ち、今この瞬間、どの言葉を選ぶべきかを天に問い続けていた。
(……美しい言葉だけではなく、わたくしは……)
膝を折り、祭壇に向かって頭を垂れる。
そして、低く、しかし清らかな声で詩を紡いだ。
「水は清く、光は柔らかく
風は舞い、木々は揺れる
命は一つとして軽くなく
試練もまた、恵みとともに訪れる
夏の陽の下、民も国も
共に歩むべき道を知るであろう」
翡翠の声は、穏やかでありながらも芯の強さを持っていた。
その調和の取れた言葉は、広間に静かな感動をもたらす。
皇后・柳瑶琴は目を細め、静かに頷いた。
広間に再び拍手が起こる。
玉座の景耀帝は微笑を浮かべず、しかし瞳の奥には小さな光のきらめきがある。
蘭玲、玉華、明月、春鈴、そして翡翠――五人の姫たちは、それぞれの個性と覚悟を示した。
皇后が最後に口を開く。
「姫たちよ、今日の詩と心根、しっかりと天に、そして我々に届いた。よくぞ示した」
その声に、広間の緊張はゆるやかに解け、春鈴は微笑を深め、明月は静かに一礼する。
玉華もまた、険しかった眉を少し緩め、翡翠は静かに胸の中で息をついた。
(……やっと、ここまでか)
蘭玲は、心の中で小さく安堵した。
(疲れた…この体では疲れが早すぎる…)




