第二章 新しい仲間
朝霧がまだ残る卯の刻、蘭玲は着替えてなどを諸々済ませると、侍女達を叩き起こす。眠たそうな鈴雪・麗珠・明明の三人を従えて明桜宮を出た。
「蘭玲様……本当に外廷へ?それは危険では……」
鈴雪が小声で問いかける。
「ですが、名簿や記録は、内廷の書院ではなく外廷の中書省の書院でしか閲覧できません」
蘭玲は歩きながら袖の中からひとつの封書を取り出す。皇帝の印が押された正式な通達状――つまり、堂々とした「閲覧許可状」だった。
「さすがに用意周到ですね……」
麗珠が感嘆の息を漏らす。もう少し寝ていたそうだった明明は眠たそうに目を擦っている。
「当然です。情報というのは、正面から入る方が早いのですよ」
書院の門前には、早くも文官たちが出入りしている。
ここは、政の中心、外廷。明桜宮は外廷と内廷の中間に位置しているとはいえ所属は内廷である、ここの風景は内廷に比べると別の世界だ。
(名簿と記録……桃英さんという侍女の出自を確かめるには、それが一番確実ですわね)
記録を見ないと桃英がどんな所で生活していたのかも想像がつかない。一応、顔は慧芳が見せてくれた。
書院の前には、すでに多くの文官たちが行き来していた。
墨の香と紙の擦れる音が静かに響く中、彼女の姿はひときわ異彩を放っていた。
柔らかな笑みを浮かべながらも、眼差しは一瞬たりとも周囲を見逃さない。近くにいた若い書吏に声をかける。
「もし、そこの貴方。お呼びして申し訳ありません。内廷の名簿と侍女の記録の閲覧をお願いしたいのですが」
蘭玲の声は穏やかで、それでいて命令のような響きを持っていた。
若い書吏が戸惑いながら頷いた、そのとき――
「内廷の名簿と侍女の記録…ですか。珍しいですね、妃候補の姫がそんなものを」
声の主は、奥の机で筆を走らせていた一人の文官だった。
白色の衣に淡い青の裾を重ね、涼しげな目元に微かな皮肉を浮かべている。
「失礼、申し遅れました。中書省所属、白季と申します」
彼は筆を置き、立ち上がって軽く頭を下げた。
その所作に無駄がなく、まるで書の一画のように正確だった。
「では白季さん、貴方が案内してくださるの?」
「はい、こちらに…」
蘭玲を席を勧め、その前の卓の上に几帳面な筆跡の並ぶ帳面を置いた。
「姫様、どこをご覧になりますか?」
蘭玲は帳面を開き、パラパラとめくる。
そして指である一行を示した。
「あ、この方、桃英さんという方です」
白季が面白そうに口角を上げた、それもそのはず、他の人達に比べて、桃英の記録は必要最低限しか書かれていない。
『桃英 王家所属 洗衣房から姫付きに勤務 入宮三年
出身:北領・白波港 家族構成不明
特記事項:異例の推挙により採用』
「“異例の推挙”?」
蘭玲が目を細めると、白季は手元の筆をくるくると回した。
「ええ。通常、下級侍女は官吏の推薦が必要ですが、彼女の記録には“推挙者不明”。つまり……“誰かが裏口から入れた”ということになります」
鈴雪が息を呑んだ。明明と麗珠も少し眉を寄せる。
「誰かが……?」
白季は目線を上げず、淡々と続ける。
「この時期、王家の侍女が急に増えたのは、妃選抜のため。
それを口実に、何人か“余計な者”が紛れ込んでいても不思議ではない」
蘭玲は帳面を指でなぞる。桃英という文字を見つめて考え込む。
(推挙者が不明なんて…そんな事、ありえないはず、これは裏があるわね)
白季が言葉を続ける。
「本来、侍女の推挙は必ず記載される。誰かが“記さなかった”のではなく、“記すことができなかった”と考えるべきです」
「できなかった?」
「――推挙したのが、正式な資格を持たない者だからです」
蘭玲の眉がわずかに動いた。
蘭玲が真っ先に思いついたのは「皇帝の耳」と呼ばれる人達の事。
「資格を持たない者……たとえば?」
「外廷、内廷にも属さず、だが双方の命令を伝えられる立場の人間」
白季は筆先で、机上の蝋燭の炎を軽く弾いた。
蝋燭の影が揺れる。
「皇帝陛下の『耳』と呼ばれる方々。別名“黒鴉衆”と呼ばれている方々が最近動いています。その名は記録に残らない。桃英さんの採用はその直後でした」
蘭玲の指が止まる。
心臓がひとつ、静かに跳ねた。
「……つまり、桃英さんは“陛下の密命”で後宮に入ったということ?」
「そうとも言えるし、そうでないともこの際は言えますね」
白季は肩を竦めた。蘭玲は眉を顰める、一体どっちなんだろうか。
「命を伝えた“黒鴉衆”が本当に陛下の命を受けたのか――ただ、それを確かめる術は、あなたにも私にもない」
そして沈黙が落ちる。蘭玲は内心、歯噛みをする思いだった、妃候補の姫という立場から抜け出して、いっそ反乱でも起こして、皇帝にでもなりたいと思う。
(いけない、いけない…蘭玲、謀反は起こしてはいけません!私の家が大変な事になります、規則は守らないと)
蘭玲は目線を上げて、書院の格子窓から外を見る。遠くで鐘の音が一つ、朝明けの空を震わせた。
(もうすぐ戻らないと…)
蘭玲は帳面を閉じて、白季に微笑みかける。
「ありがとうございます、白季さん。私はこれで失礼します」
白季は一礼する。蘭玲は侍女達に目配せして入口に向かわせる。
「はい、姫様…いえ、蘭雪さんとでもお呼びしましょうか」
蘭玲の顔に衝撃が走り『蘭雪』という名前を聞いて侍女達も思いっきり振り返る。侍女の顔には驚きと恐怖が現れている。
そして当の本人である蘭玲の顔の完璧な笑みが崩れてしまっているが、蘭玲は、眉間を寄せるという少し滑稽な笑みを浮かべ、背筋に冷や汗をかきながら、白季を見る。
(なぜそれを!?侮れない男…)
白季は飄々とした顔をして首を傾げる。
「姫様、どうかなさいましたか?忘れ物ですか?」
「白季さん、とぼけないでください…どうしてそれを……いえ、正しくは、なぜそれを知っているのですか?」
蘭玲の目に冷たい光が差す、この視線を見たら大体の人は怖気付いて逃げるというのに、この男は蘭玲の刺すような視線を受け止めて、それでいて肩をすくめながら余裕そうな顔をしている。
「姫様の秘密を知っている事については黙秘します。でも忘れないでください、姫様。私は貴方の味方ですから」
「では白季さん、どうやってそれを証明するのですか?」
「情報提供でもしますよ、ただ私は宦官ではないので内廷である後宮には入れませんが、もし姫様の助けが中書省の書院に来ていただいたら、必要な情報を教えましょう」
蘭玲は訝しげに彼を見つめてからにっこりと微笑みを浮かべる。
(信用なんてしないけど、これは有益ね)
情報を貰えるということはもちろんこの外廷の情報も得られる、こんな機会滅多にないだろうこれは利用するしかない。
「なるほど、必要な情報提供ね、分かりました。あ…これの帳面はお借りしても?」
少し面食らったような顔をした白季。筆をクルクル回す。
「それはそれは、少し困りますね、姫様。私が桃英さんの情報だけを写すので、それを持っていたください」
外廷の書院は大体が貸し出し不可である。それは、蘭玲も分かっていたがどうしても欲しかったが、ダメだった。
「分かりましたでは、よろしくお願いします」
写した紙を受け取ると書院から出ると、張り詰めた空気がほぐれるのを感じる。
外の光が柔らかく迎えてくれた。朝の空気は冷たく澄んでいて、少しほっとする。蘭玲は深呼吸をひとつして、侍女たちの顔を見渡す。
「少し緊張しましたね」
麗珠は少し肩をすくめて、だが微笑みを浮かべながら言った。
「でも、姫様の言う通り。外廷に来た甲斐はありましたね。桃英さんのこと、少し見えてきました」
明明はまだ眠そうに目を擦りつつも、手元の白季が写した紙をちらりと覗き込む。
「“異例の推挙”……何か、後宮には秘密があるんですね……」
蘭玲は歩きながら、書院で見た帳面を思い返していた。
(桃英さん……推挙者不明、黒鴉衆……誰が、何のために……)
胸の奥に、静かな熱が湧き上がる。謎はひとつ解けても、次の糸口はさらに絡み合う。外廷の広間の静けさが、その思考の速さを邪魔することはない。
「みんな、少し足を止めて」
蘭玲は三人に声をかけ、背筋を伸ばしたまま振り返る。
「ここで私が見つけたいのは、桃英さんが後宮に入るまでの経緯です。ただの下級侍女ではなく、何か特別な力が働いた——その可能性を見極めなくてはなりません」
鈴雪が小さく頷く。
「姫様、危険じゃ……ありませんか?」
「もちろん、だからこそ油断せずに行動します」
蘭玲の声は静かだが、決意の光が宿っていた。
三人の侍女が揃って歩き出す。朝の光は柔らかく、しかし蘭玲の心の中では、情報の網が次第に形を成していくように燃えていた。
遠くで鐘がもう一度鳴り、朝の静寂を揺らす。蘭玲は視線を遠くの門の向こうに投げる。
(次はどこに行けば、この謎をさらに深められるか……というか桃英さんを探すはずだったけど、個人情報見ちゃって良かったのかな…)
未だ桃英の行方は分からぬまま、蘭玲は少し胸騒ぎを覚える。
しかし、桃英を探しに行く事は出来ない、今日は夏の初めを迎える為の大事な儀式がある、昨日の騒がしさがまた一段と騒がしくなり侍女女官達が明桜宮を忙しなく動いている音が聞こえる。
蘭玲は面白そうに小さく笑い声を漏らす蘭玲、ただその瞳には冷たい光がさしていた。
明桜宮の門影に近づくと、そこはすでにざわついた気配で満ちていた。
夏の初めを迎える儀式「初夏の儀」――毎年、後宮の空気を総入れ替えにする大行事。
麗珠が、控えめに蘭玲へ目を向けた。
「姫様、今日はお疲れになると思います。朝からお調べごとまで……」
「ええ、でも今の私には、疲労より厄介なのは“好奇心”の方です」
蘭玲の声はさらりとしていながら、その奥で冷たい水面が波打っている感じがした。
明明は完全に目を覚ましたらしく、腕に抱えた帳面を写した紙をぎゅっと抱きしめる。
「でも、桃英さん……行方がわからないままですね」
「ええ。記録が曖昧で、本人も忽然と姿を消す……まるで“誰か”がこの後宮の奥にそっと穴を開けて、彼女だけ滑り落としたようです」
蘭玲は軽く息を吐き、朝の冷気を胸に攫わせる。
「外廷の書院で資料を見たのは正解でした。推挙者不明、黒鴉衆の影……桃英さんが“何かを知りすぎた”可能性も否定できないので」
鈴雪がぎゅっと袖を握った。
「姫様、そんな危ない事を考えるなんて……」
「考えるだけよ。行動は、もっと静かにするつもり」
彼女はそう言って微笑んだが、優雅な弧を描く唇の裏で、推理はすでに複雑に回転している。
白季の言葉、桃英の記録、推挙者不明という異常。
その全てが、後宮の底でゆっくり溜まっていた“沈黙”を撫で回しているようだった。
そして、ふと立ち止まる。
「……桃英さんの出身、“白波港”。北領の港町ね。あそこは……密使や間者が行き来することで有名だったはず」
麗珠が息を呑む。
「つまり……桃英さんは、ただの侍女じゃなくて……」
「そこまでは断定しないわ。断定は視野を狭めるだけ」
蘭玲は指先を軽く上げ、侍女たちに合図する。
「ただひとつだけ確かなのは、彼女は“自分の足”で後宮に来たわけではないということ。誰かが、導いた。
そしてその“誰か”は、記録にも残らない立場の者――あるいは、記録に残すことを許されない者」
明桜宮の門をくぐると、祭礼の準備に追われる侍女女官たちが、色とりどりの衣の風となって走り抜けていく。
ひやりとした朝気はいつの間にか、初夏の儀の前触れのような熱気に変わりつつある。
蘭玲はその只中で、ひとつ笑う。
ほんの微笑ではあるが、瞳の底には氷片のような光が沈んでいた。
(儀式の後で……桃英さんの“穴”を辿る方法を探しましょう。
黒鴉衆が動いた痕跡は、消されたようでいて、必ずどこかに残るもの)
彼女は振り返り、三人の侍女に軽く頷いた。
「さあ、早く戻って、支度を整えましょう。初夏の儀で忙しくなります。でも――その裏で動いている“影”も、忘れずにね」
***
明桜宮に戻った蘭玲たちは、慌ただしく儀式の準備を整えていた。蘭玲の部屋である蘭香殿は、中央に位置するためか、侍女たちの出入りが特に激しい。
鈴雪は蘭玲に淡い紫色の襦裙を着せながら、心配そうに尋ねた。
「姫様、白季殿の情報提供……本当に信用なさるのですか?外廷の文官が、理由もなく内廷の秘密に関わるなんて」
「信用はしません、鈴雪。利用するだけです」
蘭玲は化粧台の鏡越しに笑った。
「彼は自分の秘密を握っていることを知っている上で、わざわざ蘭雪という名前を口にした。あれは警告であり、同時に『私も共犯者になる用意がある』という誘いかけです。彼にとって、金家の姫である私が持つ後宮内の情報こそが、交換する価値のある『必要な情報』なのでしょう」
麗珠が持ってきた簪を蘭玲の髪に挿しながら、明明が小さくつぶやいた。
「でも、黒鴉衆……本当に怖いですね。もし桃英さんが殺されていたら……」
蘭玲の動きが一瞬止まった。
「だからこそ、急がなくてはなりません。桃英さんが生きているか、あるいは事件がすでに起こっているのか……もし後宮内に『穴』が開いたままなら、この妃選抜全体が危うくなる」
初夏の儀は、中央広間に設置された舞台で執り行われる。夏の始まりを祝い、皇帝と后妃、皇族の人や家臣が一同に会する重要な行事だ。
蘭玲が中央広間に向かう途中、他の四家の姫たちと合流した。
皆、自家の象徴を控えめに持ちつつも、格式を保った衣装に身を包んでいる。
最初に蘭玲に声をかけたのは、艶やかな赤の襦裙を纏った王玉華だった。相変わらず、美しい顔をしているが、その瞳は、人を見下す目つきをしている。しかも赤の襦裙とは朱家の明月と被るではないか、王家の象徴の色は、北海のような深い青色だというのに空気が読めないのか。
「あら、金蘭玲じゃない、珍しい。いつもは病弱を理由に控えの間に引っ込んでいらっしゃるのに、今日は殊勝なこと」
玉華の言葉には、上から見下ろすようなトゲがあった。
「ご心配ありがとうございます、玉華様。病は随分と快方に向かいましたので。それに、金家は中立とはいえ、儀式を疎かにすることはできませんから」
蘭玲は完璧な微笑みで返した。
その時、後方から穏やかな声が響いた。
「玉華様、そのようなお言葉は控えては。蘭玲様は、体調が優れない中でも儀式を重んじる心をお持ちです」
朱明月だ。南領の朱家の姫であり、軍人家系とは思えぬほどの優雅な立ち姿はまるで絵画のようであり、薄紅色の衣が彼女の慈悲深さを際立たせている。
玉華は明月を一瞥し、鼻を鳴らした。
「ふん。お優しいことで。さあ、時間ですわ。中央広間へ参りましょう」
中央広間は、夏を迎えるための色で満ちていた。
香を薄く焚きしめた香炉が左右に並び、床には瑞々しい青葉が散らされている。天井から垂れた薄絹は、風に揺れるたび、淡い水面のような影を落とした。
玉座の上にはこの国の皇帝、景耀帝が座し、その隣には皇后、柳瑶琴が座っている。そしてその横に沢山の妃達。五大家の四夫人達、そして九嬪達である。
その後方、少し段を下げた位置に皇太子・天佑が控えている。
(……相変わらず、視線が鋭い)
蘭玲は軽く伏し目がちになりながら、天佑の存在を意識していた。
彼はまだ若いが、すでに「次代の帝」の空気をまとっている、その精悍な顔には知性と強い好奇心が宿っている。
(そして…変な方)
五大家の姫たちは、それぞれ定められた位置に座る。
王玉華は堂々と、しかしどこか誇示するように椅子に腰を下ろす。侍女達が慌てて襦裙の裾を整えている。
朱明月は穏やかに、場の調和そのもののように座っている。
神事を司る柳家の姫、翡翠は柔らかな微笑を讃えている、柳家は儀式を重じている為に翡翠は、騒ぐ事もなく、物静かに座っている。
そして問題の雲家の姫、春鈴はニコニコと微笑みながら、侍女達に囲まれて座っている、彼女はまるで何も知らないかのような純粋無垢な笑顔を周りに振りまいている。
(……雲家)
蘭玲の視線が、一瞬だけ雲春鈴に向く。
昨夜拾った簪の感触が、まだ指先に残っている気がした。
やがて、儀式を告げる鐘が鳴る。




