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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

見下ろす踏切

作者: 時任 理人

 【投稿者:東京都・Yさん(28歳・女性)】

 私の部屋は、国道から一本入った古いマンションの七階です。南向きのベランダの先に、細い生活道路を横切る踏切がひとつ――遮断機と警報灯が対になった、ごく普通の第三種踏切。けれどこの地区では昔から“名の知れた場所”でした。電車の速度が落ちにくいカーブ手前、逃げ場のない狭さ、そして夜になると街灯の照度が足りず、視界が急に沈む。ニュースで地名が伏せられても、映像の赤い点滅を見るだけで、ここだとわかる人は多いと思います。


 十年前、私はそこで“その瞬間”を見ました。

 夜の空気が乾いていて、線路の鉄の匂いがベランダの高さまで立ち上がってくるような日でした。遠くでレールジョイントの継目音が規則正しく近づき、次の瞬間、耳の奥を刃物で引っ掻くようなブレーキの悲鳴が始まりました。金属と金属が擦れ合うときだけに生まれる、あの高い歪み。フランジが起こす擦過音に非常ブレーキが重なり、空気がひしゃげたみたいに震えた。

 私は柵を掴んだまま固まり、視界の下で、車体が微妙に蛇行しながら減速するのを見ていました。車輪の前に撒かれる砂の白っぽい粉塵がライトに照らされて輪郭を作り、一瞬だけ人影が跳ね上がって、すぐに呑み込まれた。音が遅れて腹に刺さる。世界が真っ白になる。

 ブレーキの擦過音は、停止しても終わりません。遅延して耳の中に焼き付く。以後、私は警報音を聞くだけで、手の震えが止まらなくなりました。


 三年前の梅雨、同じ時間帯。

 私は相変わらず、踏切を“見下ろす癖”が抜けないままでした。雨粒が街灯の円錐の中で糸に変わり、ベランダの手すりが細かく湿っている。終電の時刻をアプリで確かめた後なのに、遠くから、等間隔の打撃音が届きました。

 ――カン、カン、カン。

 踏切が鳴っている。

 見下ろすと、遮断機はすでに下り、赤い警報灯が点滅周期一秒で往復していました。線路の向こう、細い歩道の端に、傘を差した女の人が立っていました。白い傘。布の縁だけが街灯を拾って、ほの白く浮いている。顔は見えません。けれど、私の目線の高さに向けて、まっすぐ角度が合っているのがわかる。

 私の喉は、そこで止まりました。肺の奥に“あの音”が戻ってくる。耳が勝手に先回りして、すぐそこにレールがあるみたいに痛い。ベランダのガラス戸を閉めようと一歩下がった瞬間、床板が、ほんの少し、かすかに震えました。実際の列車振動とは違う、遅延のない揺れ。足裏から心臓へ、真っ直ぐ針が入ってくる感じ。

 私は戸を閉め、ロックを掛けました。警報は鳴り止まず、やがて唐突に、音だけ止みました。雨の音だけが残り、白い傘の人影は、いつの間にかいなくなっていました。


 翌朝、ニュースアプリの地域欄に“人身事故”の文字。時刻は、昨夜、私がベランダにいた時間とぴったり一致。

 ただ、映像に映った傘は黒でした。

 白ではない。

 私の記憶は、街灯の照度や点滅周期まで明瞭なのに、傘だけが、全く別物になっている。


 それから、部屋の“内側”で湿気が育ち始めました。

 最初は、窓ガラスの下辺に残る、曖昧な水の弧。拭けば消えるのに、翌夜には同じ場所に戻る。数日で形は細く長く変わり、ある夜、上辺の直線上に五つ並びました。指先が当たって滑ったような、均等な間隔。

 私はタオルで押さえ、拭き取り、次の日にはまた現れるのを、ただ見ました。

 恐怖は、派手な音より、繰り返される微細な歪みで増殖します。電灯を消すと、窓の向こうに街の赤が滲み、ガラスの内側――私の生活の側――にも同じ色の点がぼんやり浮かんで見える。踏切の警報灯に似た、丸い赤。

 私はスマホで写真を撮りました。拡大すると、赤い点は一つではなく、弱い輪郭の二重円になっていて、まるで濡れたレンズに近づいた光が、ガラス越しに“中へ入っている”みたいでした。


 その晩、私は初めて管理会社に電話をしました。結露かもしれない、換気の問題かもしれない――合理的な言葉を探している間にも、耳の奥では“あの音”が鳴り始める。キィィ、と微かに、しかし確かに。私は立ち上がり、ベランダから離れ、キッチンの明かりを点けました。

 スマホの画面に、自分の顔の反射と、背後の窓が重なりました。

 窓の反射の中、白い半円がゆっくり開き、傘の骨が一枚ずつ現れるのが見えた気がしました。雨は降っていません。風もない。にもかかわらず、ガラスの内側で、傘が開いたみたいな形が、湿度で描かれていく。

 私は友人にメッセージを打ちました。

『今、踏切が――』

 そこまで打って、指が止まりました。

 背中の皮膚を、冷たいものが通り過ぎる。

 音はまだ始まっていません。なのに、床が、先に震えました。

 喉の奥に、鉄の匂いが満ちる。電気が焼けるときの甘い匂いが混ざる。十年前の音が、肉体のどこかの記憶装置から解凍される。

 私は振り向きませんでした。振り向いたら、そこに“傘の中”があるのがわかってしまうから。

 そのあと、記憶が、ありません。


 目が覚めたのは、朝の光がカーテンの上で白く割れていた時でした。スマホは床に落ち、ベランダの戸は少しだけ開いていました。外に出ると、湿った空気の中でサイレンが遠ざかっていき、下の踏切に人だかりができていました。

 担架が運ばれていく。

 上から見ると、死はいつも、静かです。誰かの肩越しに見えたのは、担架の端に置かれた、白い傘。乾いていました。

 私はふらつきながら部屋に戻り、ニュースを開きました。

 “深夜、女性がマンションから転落”。

 年齢は、私と同じ。

 記事は短く、場所の特定は避けられ、更新予定の印がついていました。


 その日の午後、私は再度ニュースを確かめました。

 記事は消えていました。

 代わりに地域ニュースの一欄に、“〇〇踏切 廃止工事完了”という見出しが上がっていました。工期は一週間前まで、となっています。昨夜、鳴ったはずの踏切は、“もうない”。

 私は念のため、写真フォルダを遡りました。あの夜に撮ったはずの湿ったガラスの写真を探すためです。

 見つかったのは、動画でした。

 十秒ほどの短い動画。無言、無音。

 カメラはベランダの外から、部屋の中を撮っていました。

 誰もいないキッチン。点いたままの電灯。

 そして、ガラスの内側に、五本の透明な指跡が、ゆっくりと、上から下へ、等速で滑っていく。

 最後のフレームで、画面の端に赤い丸が一瞬だけ滲み――終わります。

 撮影者は、いません。ベランダの外側には、立つ場所がありません。

 サムネイルの下に、勝手についたタイトルがありました。

 「上がれない」

 私がそんな言葉をつけた覚えは、ありません。


 それからは、なるべく夜にベランダへ出ないようにしています。

 けれど、ときどき――風の止んだ、湿度の高い夜――

 カン、カン、カン、と等間隔の打撃音が、部屋の内側から聞こえることがあります。

 そのたびに私は、戸棚を閉め、蛇口を閉め、あらゆる隙間を目でなぞり、最後にガラスの前で目を閉じます。

 目を開けたら、傘が閉じる気がするので。

 ※編集部註:

・投稿文中にある踏切は、自治体の公開資料によれば投稿の一週間前に廃止・撤去されています。

・投稿メールに添付された短い動画は、撮影位置が外側ベランダから室内方向を向いていましたが、投稿者の部屋は外付け足場のない七階で、撮影者の立ち位置は確認できませんでした(動画のEXIFには“撮影者:未設定”とだけ記録)。

・投稿メールへの返信は不達で、差出人アドレスはすでに無効でした。

・なお、投稿文に記載の事故時刻と同時刻に、「白い傘を持った人物が上方を見上げていた」という通報記録が一本残っていますが、現場には“傘を差せる雨”は観測されていません。

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