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庚申さん  作者: 山谷麻也
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タイトル未定2025/06/23 08:42

挿絵(By みてみん)


 その1 峠を越えて


 パワースポットという場所が、確かにある。

 筆者にとっては村の峠がそうだった。

 母の実家があり、さらに父の妹が母の弟と結婚していた関係で、よく隣の村に行った。その途中で、峠を越えた。


 峠には立ち枯れの古木があった。雷にでも撃たれたか、幹は裂け、一部は朽ちていた。その前に石塔が祀られていた。百メートルほど離れた場所には、村の共同墓地もあった。

 そんな場所でも、平気で一人で行った。寂しくはなかった。むしろ、そこに立つと、全身を不思議な感覚に包まれた。


「これはどこから来るものだろう」

 ずっと謎だった。


 峠から見事な眺望が開けていた。

 眼下にエメラルドグリーンの水をたたえる祖谷(いや)川が大きく蛇行する。

 指呼の間に四国山地、北東には阿讃山脈の山並みが連なる。

 峠には六本の道が交差していた。

 村の下方からの道がもっとも険しく、息せき切って登り切ると、生家がずいぶん小さく見えた。


 その2 木々に埋もれ


 お気に入りスポットでありながら、何の石塔だったか忘れてしまった。まことに、罰当たりである。

 ほかにも訊きたいことがあったので、村の長老を訪ねることにした。婿養子だった祖父の実家の本家にあたる。村の有力者だった、と伝えられる家だ。


 クルマは祖谷川の東岸に沿って抜かれた街道を、南下する。道はずいぶんよくなった。土砂崩れが頻発していた場所を避け、令和五年(二〇二三)にはトンネルも開通している。

 せっかくの故郷再訪である。峠の写真撮影を妻に頼むも

「木がいっぱい生えていて、どこが峠か分からない」

 と、妻は困り果てている。

 視覚障害が進み、筆者には空と山との境界も不明である。

「あのあたりじゃないかな」

 斜め前方を仰いで、手で輪を描いた。


 その3 いにしえの道


 四国三郎・吉野川の大河に、祖谷川が合流する地点が川崎である。この地は吉野川最奥部の河川港・阿波川口港に近く、大正初期まで重要な物流拠点になっていた。

 吉野川の物流には平田舟(ひらたぶね)が活躍した。

 河口まで、下りに二日間、上りには一週間かかったとされる。東風を受けて、平田舟が着くと、荷が陸揚げされ、祖谷方面に向けては、主に祖谷川の東西に抜かれた二本の山道で陸上輸送された。

 そのうちの一本が川崎から、母親の実家があった平野(ひらの)集落、さらには筆者の生家のあった千足(せんぞく)集落の上を通り、秀峰・国見山(くにみやま)(一四〇九メートル)の麓を大きく迂回して、祖谷へ入る道だった。


 この祖谷川西岸の道に対して、東岸には霊峰・中津山なかつさん(一四四七メートル)の中腹を越えて祖谷に入るコースもあった。こちらは西岸の道よりはるかに遠く、しかも険しいことで知られた。


 いずれにしても、祖谷は長く陸の孤島だった。

 新時代の到来を告げたのは祖谷街道の開通だった。一八年に及ぶ難工事の末、大正九年(一九二〇)に開通したものだ。全長五〇キロあまり。途中のほとんどがV字渓谷で、道路から河原まで二〇〇メートルになんなんとする絶壁もある。

 悲願の街道にはトラックのほか路線バスも運行し、山越えの労苦から一気に解放されることとなった。


 その4 ターニングポイント


 千足で良質の矢が産出し、徳島藩に納めていたことは、どこかで述べた。村人が矢を背負ったり、あるいは馬に乗せたりして、峠を越えたことは想像に難くない。

「平野に行くときに、村の上の峠を越えましたが」

 慎重に話を切り出した。

「ああ、庚申(こうしん)さんや」

 長老はいとも簡単に長年のつっかえを除いてくれた。昭和九年(一九三四)の生まれ。いつしか齢九〇を超えていた。

 やはり、そうだったのだ。祀られていたのは、村や辻の守り神とされる庚申さんの塔だった。

 筆者の頭のどこかに

「道祖神だったかなあ」

 というのがあった。


 ところで、千足ではこの道を長く、馬道(うまみち)と呼んできた。

「ところどころに、石垣が誇ってますよ」

 長老婦人が教えてくれる。馬も通れるほど整備された道だったのだ。

 往還、今日で言うところのメインストリートだったことが分かる。


 蜂須賀氏の阿波国支配は簡単に実現したものではなかった。各地で反対運動が起こった。なかでも祖谷の土豪は激しく抵抗した。

 その戦いの一つは、天正一三年(一五八五)の祖谷山一揆として記録されている。

 蜂須賀氏は初め、祖谷川の東側、中津山ルートで鎮圧の軍を進めるも、あえなく迎撃されてしまう。


 蜂須賀軍は体勢を立て直し、今度は祖谷川の西側ルートで侵攻した。藩の威信をかけた戦いであり、勇猛果敢な祖谷勢もついに敗走した。

 中津山で一敗地にまみれた蜂須賀軍は、面目を施して引き上げて行く。祖谷は苛政にさらされる。秘境が中央集権体制に組み込まれていく一過程だった。


 その5 行き交う人もなく


 このあたりの事情は『秘境祖谷物語』(小西国太郎著・一九六二年・祖谷山岳会文化部発行)に詳しい。


 峠をさまざまな人々が越えた。その時々の人々の思いが堆積し、少年だった筆者に伝わって来たのかもしれない。


 今、一帯は杉の大木に覆われる。

 戦後、杉を大量に植林した。国を挙げての造林ではあったが、折りからの経済成長で人口は大都市に流出、このため、森林のほとんどは手入れされることなく放置されてきた。「国土緑化運動」のゴールがこれである。


 歴史街道から人馬が消えて久しい。千足には往時に二二軒あったものが、現在では三軒を残すのみ。六人がひっそり暮らす。

 昼なお暗い峠で、庚申さんは何を思っていることだろう。

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