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06.夢渡り

 伊予利が目を覚ました後、さくらは胸元の本に吸い込まれるように、自分の布団の上にいた。本を出そうとしても出せず、妙な疲れがあった。本の中に入ったからというより、伊予利を起こすのに力を分け与えすぎたからだと思う。輸血に近いかもしれない。

 つまり、さくらは貧血を起こしていた。

 いつもなら、すでに起きて台所にいるさくらが部屋から出て来ないとどうなるか。

 家から土手を越えた木の橋を渡り、団地を抜けた先にある診療所まで、さくらは紅一に抱えられて受診することになった。車だと木の橋は渡れず遠回りになり、ガタつく自転車の荷台に体調が悪いさくらを乗せることも出来なかったからだ。せめてすれ違う人たちと顔を合わせなくてすむおんぶじゃ駄目だったのかとさくらは思ったが、思いの外しっかりと支えられて安心感があり、すぐ傍にある紅一の心臓の音をさくらは聞いていた。

 走る紅一の腕の中、心地よさにさくらがうとうとしている間に、診療所に着いた。小児科もやっているそこは、母がいた時にもさくらはかかったことがある。紅一から連絡を受けていた医者が、鍵を開けて待っていた。

 長い綿棒のようなものをさくらの口の中に入れて、頬の粘膜を採取した医者は、液体が入っている試験管に入れて振ると、さくらには全く読めないドイツ語で紙のカルテに何か記入する。さくらが熱と血圧を測り、聴診器を胸や背中に当てられている間、紅一は後ろに立っていた。

 隼人たちはちゃんとご飯を食べているだろうか。

 デジタル時計の時刻を見て、さくらはふとそんなことを思った。もう少ししたら登校する時間だ。紅一も仕事に行く時間は大丈夫だろうか。

 そういえば紅一もさくらも朝食を食べていない。空腹は感じなかったが、帰ったら何か用意しようとさくらはぼうっと考えていた。

「夢渡り?」

 まだ年若く見える医者が言った言葉を、紅一は繰り返す。

 仕事上、エピトに関する病気には触れることも多く、ある程度は知識もあったが、はじめて聞く言葉だった。明なら知っているかもしれない。ここにはいない同僚を紅一は思い浮かべた。

「ああ、すみません。正式な名前があるわけじゃなく、ただ、昔、そう呼んでいたのと状態が似ていて、可能性が高いと」

 歯切れ悪く言うのは、それだけ似ているからなのか、何か思い入れでもあるのか。さくらに待合室で待っているよう伝えた時とは違う顔をした医者は、敵でも見つけたみたいに、自分の書いたカルテを見ていた。

「二十年くらい前、ある姉弟の話です。姉はエスパーのエピトで、弟は何のエピトもありませんでしたが、生まれてからずっと、ベッドにいました。起きてもすぐ寝てしまう弟に、姉は弟の夢の中に行けたらと考えたそうです」

 弟の夢に行くから夢渡り。子どもが考えたと言えばわからなくはなかった。

「彼女の考えは実現されました。弟と夢の中で会えたんです。弟は喜びました。それが後でどんなことになるかも知らず、姉と夢の中で遊んでいました」

 夢の中なら弟は何だって出来た。走ることも、飛び跳ねることも、逆さまにだってなれた。

「姉は夢から覚めるたび、疲れたようにぐったりすることがありましたが、夢の中で弟と沢山遊んだからだと言えば、両親も医者も不思議に思うことがありませんでした」

 少し休めばまた元気になるだろう。誰もがそう思っていた。それが間違いだった。

「現実での姉の様子を知るよしもない弟は、毎日夢の中で姉が来るのを待っていました」

 両親は夢の中にいないが、姉がいる。夢の中の空を眺め、海の中を泳ぎ、花や蝶に囲まれ、隣には姉がいた。弟はずっとそこにいたかった。

「でも、姉は突然夢の中に来なくなりました。久しぶりに弟が目を覚ました時、姉は亡くなっていたんです。姉は夢に長く居たことにより、エネルギーを使い果たし、息をするのも忘れ、両親が気付いた時には手遅れでした」

 エピト欠乏症。エピトを使用したことで身体のエネルギーが不足した状態だ。どのエピトでも起こるが、エスパーのエピトは特に命に関わる。

 治療方法も未だに休養する以外にないと、今年の研修で研究者が言っていたことを紅一は思い出す。

「エスパーのエピトはまだ解明されていないことの方が多く、さくらちゃんが本当に夢渡りしたかまではわかりません。ただ、数値を見る限り、一晩でかなりのエネルギーを消費したのは確かです」

 何があったかはわからないが、何かは確実に起こっていた。

 さくら。

 口の中で、紅一は呟いた。

 眠たそうにしていたさくらは、今頃待合室で寝ているかもしれない。

 もし、医者の話がさくらに当てはまるのだとしたら、寝かせない方が良いのかと思ったが、今は使ったエネルギーを蓄えるための睡眠だという。

 姉は起きている弟に会いたかったのだろう。だから夢を渡り、弟に会いに行った。

 なら、さくらは誰に会いたかったのだろう。誰かと会えたのだろうか。

 紅一が待合室へ行くと、さくらは新しい椅子が並ぶ方ではなく、受付前の古びたソファーで、沈むように座り、眠っていた。

「さくら」

 よほど深く眠っているのか、紅一が呼んでも、さくらが起きる様子はない。

 行きと同じように、紅一はさくらを抱き上げて診療所を出た。

 道路を渡り、団地の中を歩いていれば、ウエストポーチのポケットに入れていた車の鍵が落ちそうになる。両手はさくらで埋まっていて、どうするか考えている間に鍵が落ちる。瞬間、ぱっと鍵が消えた。

「あの、大丈夫ですか?」

 近くにある高校の制服を着た男子生徒が、紅一の車の鍵を手に持ち、立っていた。

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