03.酸味と優しい味
諳じられるくらい、さくらは本を読み込んだ自覚があった。さくらたちの結末は変わっていないが、その前が少し変わっていた。
紅一が挨拶を返す部分と、隼人たちが紅一と話している内容が違う。変わる前は、子どもたちに対して紅一が思っていることが全く書いていなかった。
それから少しずつ内容が変わっていった。それは決まって、紅一と隼人たちが接した日だったこともあり、さくらはこれが子どもたちから紅一に対しての好感度と、紅一から子どもたちへの好感度の変化によるものだと仮定した。つまり四人の距離を近づければ、結末が変わるのではないかとさくらは考えたのである。
それならと、さくらは行動に出た。
まずは手本になろうと、どんな時だろうと挨拶を欠かさずした。返してくれれば喜んで、なければないで文句は言わず、目を伏せてすぐに何でもないように振る舞った。罪悪感を持たせて挨拶をさせる作戦は上手くいった。
次に家事を分担するようにした。子どもでも踏み台があれば、料理も洗濯も出来る。紅一も毎日帰ってくるとは限らないし、自分たちで出来て損はないと言えば、四人とも納得してくれた。
一人で出来る系の本を小学校の図書室で借りて色々試した結果、向き不向きがあったため、夕は台所に立ち入り禁止になった。代わりに洗濯物を夕が担当するといつもふわふわになる。風のエピトを上手く使っているらしい。
「そんな使い方もあるんだな」
良い使い方だと紅一が感心して言う横で、夕が照れて、隼人と涼太が俺も俺もと水と土を出し、四人とも泥だらけになっていた。さくらはそのとき、洗濯機から洗濯物を出して、夕のところまで持って行こうとしていたところで、地面が妙にぬかるんでいると思ったら、泥んこになった四人がいたのだ。四人ともお風呂場に向かわせたのは言うまでもない。
洗濯し直さないといけなくなった洗濯物は、隼人と涼太に任せた。文句を言う二人を見かねて、手伝おうとする夕と紅一に甘やかさないように言った日のことはよく覚えている。
そうして、気付けばさくらたちは小学三年生になっていた。小学校の方は今まで通りさくらと隼人、涼太と夕で別々のまま通っている。他の学年では親戚に引き取られて引っ越した子もいるそうだ。
放課後は家にすぐ帰宅するでも、児童館や公民館の図書館に行くでも自由だったのだが、さくらがすぐ帰宅して買い出しに行ったり、洗濯物を取り込んだりしていることに気づいた隼人と一緒に帰っている。
「サッカーはいいの?」
その日は隼人が友達に誘われていたのをさくらは知っていた。
「昼休みだってしてるんだから、別にいいだろ。さくら一人に任せる方が俺は嫌だ」
言った相手がさくらじゃなければ、恋泥棒になっていたのではないだろうか。相手がさくらじゃなければだが。
さくらはにっこり笑ってお礼を言った。
「ありがとう」
「俺も、いつもありがとう」
「うん」
その後、涼太と夕も加わって、結局四人で買い物も洗濯物の取り込みもするようになった。放課後くらい好きにしたらいいのに。同級生たちが遊びに時間を使うのに対し、家事に時間を使うことを不満に思ってもおかしくない年頃だ。
我慢しているのなら、遠慮なく出かけて良いと言っているのに。三人はそうしない。さくらにはそれがわからなかった。
さくらがさくらになる前の世界、子どもの頃を思い出してみても、男子は女子に面倒なことは押し付けて、遊んでいる記憶しかなかった。注意すればうざいと言われ、男子の分を放置すれば、先生に連帯責任だと怒られる。それを何度か繰り返せば、嫌でもわかってしまう。
黙ってやるしかないことを。叱られて響かない相手に付き合って時間を無駄にするより、さっさとやった方が早い。その頃から、やらずに怒られて時間を無駄にするくらいなら、全てやろうと思った。
大人になってからもずっと、誰かの仕事じゃなく、皆の仕事だからと上司から叱られて、ああ、ここもかと思ったものだ。気付いた時にやってしまおうと、何でもした。自分以外誰もやらないような、細かいところまで全部。
要は諦めていたのだ。さくらが言い始めたことではあったが、期待なんてしてなかった。掃除も洗濯も料理も、本当は期待していなかった。
でも、三人はちゃんとやった。文句を言ったりすることもあるけど、ちゃんとやってくれている。それが、どれほどすごいことか、わかるだろうか。
踏み台は去年卒業したが、紅一や明に比べればまだ小さい子どもたちが、毎日自分たちで生活をしていることのすごさが、わかるだろうか。
だから、放課後はわざと役割を決めなかったのだ。
「さくらちゃんは?」
さくらたちの様子を見に来た明は、さくらの話を聞いてそう言った。
「私?」
言っている意味がわからないとでも言うように、不思議そうにするさくらに、明は隼人たちの気持ちが少しだけわかった気がした。
「さくらちゃんだって、まだ子どもだ。好きに遊んでいいんだよ」
まあるく見開かれたさくらの目は、戸惑うように伏せられた。
「……よく、わかりません。…………いえ、わからない、というより、私は別に、いいんです」
どういう意味だろうか。
明はさくらの言葉が続くのを待つ。
「そういうのが、ないんです。どこかへ行きたいとか、遊びたいとか。だから、そういう気持ちがある隼人君や涼太君、夕君の三人には好きにしてほしいんです」
それはきっと、さくらの本心なのだろう。
さくらは一人でも料理も洗濯も、掃除や買い物だってできる。しかし、それは、他の子どもたちが親に甘えている間もずっと、幼い彼女が頑張ったからだ。そういう気持ちがないのは、それだけ余裕がなかったからではないだろうか。
しかし、それが明の口から出ることはなかった。
「さくら! 見ろよこれ!」
涼太が外からガラス戸を開けて靴を脱いで上がってくる。
涼太の手のひらには、小ぶりながらも熟した枇杷がいくつものっていた。
「庭の木になってるの見つけたんだ」
そういえば、いくつか果実がなる木があったが、子どもたちには背丈が大きかったはずだ。
明と同じことに気づいたさくらも首を傾げた。
「どうやってとったの?」
「こう、狙って落とした」
指でピストルの形を作った涼太と枇杷に着いている土を見て、理解する。
「隼人と夕と誰が一番上手く落とせるかやったんだ」
この様子だと涼太が一番上手くできたのだろう。
「だから、さくらに見せようと思って」
あげると涼太の手のひらにあった枇杷が、全てさくらの手のひらに渡る。
「え?」
「食べてみろよ、結構美味しかったから」
二度三度瞬きをしたさくらは、やわらかく笑った。
「ありがとう」
「! それじゃ、まだあるから、あき兄も食べてみて!」
赤くなった頬を誤魔化すように、外にまた出て行った涼太に、明は成る程と心の中で頷いた。少年の恋心はわかりやすく、明には微笑ましかった。
「洗って来ますね」
しかし、当のさくらは気づいていないのか、そのまま台所へ向かうのに明も続いた。
「僕も手伝うよ」
枇杷に着いている土を濯ぎながら、明は外を見た。台所の窓からはちょうど、三人の姿が見えて、三人が囲んでいる枇杷の木は思っていたよりも大きく、実が終わったら一度切った方が良さそうだ。
「えい!」
「おわっ、虫落ちてきた」
「わ、ごめん」
「葉っぱついてる」
三人の声をガラス越しに聞いて、優しく口元を弛めるさくらを明は見ていた。
明がさくらと一緒に食べた枇杷は、酸味はあるが、甘く優しい味がした。