02.夜明け
ぱたんと本を閉じれば、そこには本などなく、掌を合わせたように見えるさくらがいた。干した洗濯物がはためく中、うららかな天気とは裏腹に、さくらの心は嵐のようだった。
佐倉さくらには前世の記憶がある。気付いたらあったので、それ以上の説明ができない。そして、十歳で殺される「佐倉さくら」が私だ。
手を本みたいに合わせてから開くと、さっきまで読んでいた本がさくらの手元に現れる。さくらはエピトの中でも数が少ない、エスパーのエピトだ。少ない故に解明されていないことが多く、これがエピトによるものなのかは実のところ不明なのだが、診断上はそうなっている。
本はさくらの手の上にないと触れないし読めないため、誰かに渡すことはできない。手を傾けても下に落ちることはないが、手を開いた状態から合わせると消える。頁は捲ったぶんだけ続いているのに厚みはない不思議な本だ。
さくらははじめ、それがただの小説だと思っていた。体は子どもでも中身が中身だったので、内容もただの小説で、誰が書いたのかは不明ではあったが、特に何か起こることもなく、無害と判断された。両親もそれにほっとするくらいで、本を読むことは好きにさせてくれていたのだ。
それは主人公の加賀一茶が行方不明になった友人の有坂利休を捜すところからはじまる。高校最後の春休み、貯めたアルバイト代を使い、卒業旅行をしようと一茶は利休と計画していたのだが、一茶がインフルエンザで行けなくなってしまう。利休は一茶が治ったら行けばいいと言うが、一茶は春休みが終わってしまうしキャンセル料も発生してしまうのが申し訳なく、利休に一人でも行ってきてほしいと頼む。
二泊三日の旅行だったこともあり、一茶の携帯には一日目と二日目に利休から旅行先の写真が送られて来たが、三日目にそれが途絶える。帰ってくる予定の三日目が最終日だったから、利休も疲れたんだろうと一茶は思っていたが、そのまま四日、五日と過ぎても利休から連絡が来ることはなかった。不審に思った一茶はインフルエンザが治ったこともあり、直接利休の家に行くと、そこには警察が来ており、利休が行方不明になったことを一茶は知る。
一茶はそのままその足で利休と旅行に行くはずだった所へと行き、最後に利休から送られてきた写真の場所で周りの人に話を聞いている最中、早野明と出会う。利休の行方不明はエピトが絡んだ事件性もあり、調査中だった明は警察から一茶がそちらに行ったかもしれないという連絡を受け、一茶を見つけたところだった。危ないことをするんじゃないと言う明に、一茶が協力させて下さいと土下座しながら明の足元にしがみつき、一茶は明と行動を共にするようになる。
最終的に一茶と明は利休を見つけるが、一緒に行動する内に明に憧れを抱くようになった一茶が大学へは進まず、オルクに入社して明の部下になる。そこからエピトの事件や事故、相談を通して明の過去を一茶は知っていく。その明の過去というのが今だ。
四歳の時に父が亡くなり、それから女手一つでさくらを育ててくれていた母が亡くなったと聞かされた日、さくらは小学校にいた。担任の先生に呼ばれて、職員室に行けば、職員室に置かれたテレビのニュースで死亡者として母の名前が載っていた。駅の近くが母の勤務先で、瓦礫の下敷きになり、搬送先で亡くなったという。
目を見開けば、隣にいた同じクラスの隼人もじっとテレビを見ていた。駅員の一人が麦野という苗字で、隼人の父親だった。涼太と夕は別の小学校で、同じように職員室に呼ばれたそうだ。
長い時計の針が一周する前に、紅一と明が来た。教師たちは二人を待っていたようだ。さくらは俯きそうになるのをこらえて手をぎゅっと丸めていたが、隼人は二人を睨むように見ていた。
「オルク第七担当の伊藤紅一だ」
「同じくオルク第七担当の早野明です」
見下ろすようにさくらと隼人を見る紅一と、目線を合わせるように言う明は対照的だった。目の前のテーブルの上に名刺が二人分。さくらと隼人の間になるよう置かれた。
「オルク……」
隣で隼人が呟くように言うのに対し、知っている名前にさくらは全身から血の気が引くようだった。
まさか、と思った。
あの不思議な本は未来の話?
今すぐにでもさくらは本を出して確かめたいのを我慢して、ぐっと奥歯を噛み締めた。
紅一と明はそんな隼人とさくらの様子に、今日あったことと、これからのことを簡潔に説明した。
「君たちは俺が引き取ることになっている」
「勿論、今すぐにではないですが、明日から荷物をまとめることになります」
それから涼太と夕とも出会い、今に至るのだが、引き取られてからが大変だった。
今でこそ紅一に隼人も涼太も夕も話し掛けるが、慣れるまで三ヶ月以上かかった。三人は紅一にも、たまに様子を見に来る明にも近付かなかった。そりゃあ、いきなりのことで悲しみも怒りも混乱もあったのだろうが、突然のことに戸惑っていたのは紅一たちもだったはずだ。
何の家具も置かれていない家に、さくらたちのために家を借りたか買ったのだと、すぐに気がついた。駅からは遠く、小学校もそれなりに歩く場所にあるが、公園と中学校は近い。オルクの場所をさくらは知らなかったが、買ったばかりにしか見えない車を見て、車で通勤するようなところにあるのだと思った。
駅から遠いのはわざとというか、さくらたちへの配慮だろうが、テレビ越しにしか惨状を知らないこともあり、実感がなかった。むしろ、夜になると電車の音が微かに聞こえるため、隼人がたまにベランダから外に出て、そのまま寝てしまうことがあった。
父親と一緒に聞いてきた音だから落ち着くのだろう。星を見上げて四人でベランダで寝た日もあった。しばらくしたら部屋に戻ろうと言っていたのに、四人とも寝てしまったのだ。
紅一が帰宅するドアの音でさくらは目を覚ましたが、三人を運ぶのは難しく、紅一が何も言わずに運んでくれた。抱き上げるのがたどたどしくて、けれど起こさないようにそっと紅一が三人を運ぶのを見て、さくらは笑って、それから少し、泣きそうになった。ベランダから見た夜明けがさくらの目に沁みたのだ。
どうか、彼らと十歳を越えられますように。
いや、越えるんだ。絶対に。
さくらはベランダの鍵を締めて、紅一の後を追った。
本の内容が変わったことにさくらが気がついたのは、その日の夜だった。