第一章
君の隣 第一章をご覧いただきありがとうございます。稚拙な文ですが、お楽しみください。
今は十月の下旬。名古屋にも肌寒さが流れ込み、秋の温かさは薄らいでいる。学ラン姿の上にもう一枚着たいくらいだ。校章の金のボタンに太陽光が反射するほどによく晴れている。
「温大!おはよう」
声のする方に振り向くと浩平がいた。肩を上下させ、口から出る息は白い。
「うん、おはよう。それにしても、今日は遅かったな。いつもならもう少し早くに会ってるのに」
「夜更かしして起きたのが遅くてさ、弟たちの面倒も見てたら遅れちゃったんだよ」
「そっか。大変だったね」
「そんなことないよ。弟たちの面倒見るの楽しいし」
「親父さんはいつ帰ってくるんだっけ?」
「あと、一年は帰ってこれなさそうだって。長期の単身赴任だからそう簡単には帰ってこれないよ」
二宮浩平は、高校で知り合った俺の親友。浩平の父親は単身赴任中で、母親を手伝って二人の弟の面倒を見ている。そのお陰か、浩平は面倒見がいい。お母さんのように遠足の前日の夜には【レジャーシート持ったか?】とわざわざLINEで聞いてきたり、俺の気分が沈んでいるときにはすぐに気づいてくれて、飲み物を買ってきてくれたり、話を聞いてくれる。高校の入学式の時に助けてもらったことは今でも覚えている。そこから二年間、俺はずーっと浩平に面倒を見てもらっている気がする。
「あ、そうだ、再来週の土曜日って、空いてる?」
「うん、空いてるけど」
「実は、夏の試合の時みたいに助っ人を頼みたくてさ。前の活躍を見て、監督が温大に来てほしいって」
我が青原高校サッカー部は今年になって、部員数が十人となってしまった。サッカーは十一人で、一人足りないことになる。そこで、部長浩平の知り合いであり、昔少しだけやっていたからという理由で、俺が呼ばれた。
「えぇーそんなに上手くないだろ俺」
「いやいや、一試合中に二得点挙げてたじゃん」
「偶然だって。それに、浩平のくれるパスがよかったおかげだし」
「じゃあ、また僕がパスを出すからシュート決めてよ」
ここまで言われたら、断れない。それに、いつも助けてもらっているし、こういう時に助け返さないとただの恩知らずになってしまう。
「わかった。じゃあまた夏の時みたいに頼んだよ」
「ありがとう!」
試合に出る人数が揃ったことに安堵したのか、浩平の顔が少し緩んで見えた。
木枯らしに吹かれ、昨日の夜は何をしただとか、次にいつ一緒遊ぶかと、歩きながら話した。
高校近くの横断歩道で立ち止まり、信号機が青になるのを待っていると後ろから声をかけられた。
「温大、浩平君、おはよう」
彼女は照井奏。綺麗な黒髪が特徴的な俺の幼馴染だ。歳が進むにつれて、異性の幼馴染とは疎遠になると言った話を聞くが、俺と奏にそんなことはなかった。去年、つまり高校一年の時に俺たち三人は同じクラスとなって、気づいたら仲良し三人衆となっていた。
「おはよう。奏にしては遅いね。」
「寝たのが遅くてさ。まだ頭がぼーっとしてる。」
俺の問いかけに、奏は目を擦りながら、眠たそうな声で答えた。
「何を話してたの?」
奏はとろんとした目をこちらに向け、俺と浩平の会話に入ってきた。
「次いつ一緒に遊ぶかって話だよ」
「いいなぁ。私も誘ってよ」
「もちろん、奏ちゃんも誘うよ。ね、温大?」
「そりゃもちろん」
俺と浩平、奏は休みの日はよく一緒に遊ぶ仲だ。
だいたい俺や浩平の家に行ってはゲームをして遊ぶ。アウトドアの遊びはあまりしたことがなく、行ったことがあるのは、少し離れたところにある遊園地へ遊びに行ったくらいだ。
「奏、この間は一回も勝てなかったもんな」
「あれは私の苦手なゲームだったんだよ……」
「奏ちゃんが得意なゲームはなんだったっけ?」
「うーんと。マリオとかかな。」
「それなら僕の家にあるから今度持っていくね」
「ほんと?やったぁ!」浩平と奏がハイタッチをした。
いつからか分からないが、この二人は妙に距離が近い。そもそも、奏の人との距離が近いというところはあるが、それにしても近い。こういうところを見たら、見なかったことにしてる。そうじゃないと、俺がもたない。
信号が変わり、周りが歩き出すのに合わせて俺たちも歩き出した。
校舎に入って、下駄箱に靴をしまい、スリッパを履いて、階段を上った。
「それじゃ、また帰り」そう言って浩平は教室に入っていく。高二で俺と奏はクラスが一緒で浩平は違う。浩平が一組で俺たちが二組だ。
「浩平君も同じクラスなら、放課にすぐに話せるのにね。教室に入れないから、わざわざ廊下で話さないといけないし」少し残念そうに奏はそう言った。
「そうだね。でも、廊下に出て話すのは特別感があって俺は好きかな」
「それもそっか、これはこれでいいのかもね」
話し終えて、俺と奏はそれぞれ席に着いた。五分ほどたって朝の会のチャイムが鳴った。
特に何事もなく、昼間は過ぎていった。
授業後、俺は一人で、教室の椅子に腰かけてスマホを眺めていた。空は茜色と青色が混じった色になっていた。暖房が入っているため、窓が少し開いている。外からは、選手たちの掛け声、応援の声、廊下からは楽器の音。一人きりの教室にただただ響いている。浩平のサッカー部や、奏の吹奏楽部もこの音の一役を担うように頑張っているのだろう。そんな部活が終わる時間まで三十分もある。時間を潰そうとスマホを触っていたが、飽きてきた。
もう数か月もすれば受験生だが、勉強をやろうとも思わない。なにもすることがなくつまらない。こういう時は、話し相手がいるといいが、あいにく交友関係が狭いせいでそんな友はいない。仕方がない。寝よう。机に突っ伏して、目を閉じた。うとうとと意識がなくなり始めた時に声がした。
「温大。ちょっといい?」奏の声だった。
俺は飛び起きた。普段ならすんなりと開かない瞼もパッとすぐに開いた。夕日に照らされる奏に思わず目を奪われた。鼓動は早くなった。
「部活もう終わったの?」
「ううん、早退してきた。温大に話したいことがあってさ」
「え?」夕方の空き教室。二人きり。条件はそろった。高鳴る鼓動が体を震わせ、視覚が奏ただ一人を捉える。俺の気分は高揚していた。
「話って?」
「うん。実は……」奏は言いかけた口をつぐんだ。口が優柔不断に開いたり閉じたりを繰り返している。一つ、大きなため息を吐いて目線を合わせてきた。
「私……浩平のことが……好きなの」
この一言で、さっきまでうるさかった鼓動も、震えも、何も感じなくなった。だが、目だけがこの事実を見つめて、離せずにいる。自分の体の重さがそこに存在しない、まるで地面からなにかに足をつかまれて、中身だけが引っ張られるような感覚。奏の見え方が確かに変わった。
「そう、なんだ」
俺は虚しいか細い声しか出せなかった。現実になって欲しくなくて、ずっと目を逸らしていた、もしが本当になるとは思っていなかった。
「温大、浩平と仲良いじゃん。だから、相談に乗って欲しくてさ、いい?」
「うん、いいよ」
「ありがと。温大頼りになるね」
「そっか。よかった」
自分でわかるほどひきつった笑顔で答えた。
「それで……相談って?」
「うん……どう距離を縮めればいいかがわからなくて。浩平、友達感覚で接してくれてるから、ここから変えていかないとなって思って。どうしたらいいと思う?」
「うーん。浩平と接点を増やすのがいいんじゃないかな?だから、話す頻度を増やしてみるとか」
「なるほど、休み時間廊下で話す回数を増やすとか?」
「うん。あとは、お昼を一緒に食べるとか?」
「えー。それはさぁ……難易度高くない?」
「俺たち三人で食べるって言って呼び出せば上手くいくんじゃない?」
「あ~。温大こういう時は頭よく回るね。昔からそうだけど」
「うるさいなぁ……。確かにそうだけど。」
昔、奏との接点を作るためにあれこれ考えて、行動したことを思いだした。今思い返すと恥ずかしく思うが、結果として今でもこうして関係が続いているのだから、よかったと思う。
「……奏はこういう話、あんまりしてこなかったよね。」
「そうね。今まで恋愛したことなかったし。そもそも周りにこうやって聞こうだなんて思わなかった。でも、温大だから、話せた……みたいな?信頼してるんだよ。私は」
……あぁ、胸が苦しい。奏は、信頼して話してくれているというのに。俺は、奏に好意を持っていることを隠している。この状況で言えることではない。一方的な信頼に、後ろめたさを感じる。そのせいか、何も言えない。すると、沈黙を打ち破るように奏が口を開いた。
「……もう一つ……いい?」
「いいよ。何?」
「浩平の部活の試合の日って知ってる?応援しに行きたいんだ」
「あーそれね……再来週の土曜日に試合があるって、言ってたかな。詳しくは浩平に聞いてみなよ」
「そうする」奏はスマホを手にして、入力する仕草を始めた。カレンダーに予定を入力しているのだろう。口角の上がったまばゆい笑顔に目を向ける。あぁ、綺麗。眺めていると目が合った。奏は不思議そうな表情を見せ、微笑む。
「どうしたの?」
「あ、いや。何でもない」
「そう」
俺は初めて奏から目を逸らした。俺と奏の間に沈黙が流れ込む。静かになった教室には、また部活動の音が響いた。気づくと空は一面茜色になり、夕日が教室に差し込む。ゆっくりと目線を奏の方へ向けた。怖いもの見たさというか、目を向けたというより目を惹き寄せられたというのが正しいかもしれない。夕日の差す窓を見つめる顔。今まで見てきたどんな表情よりも色っぽく、美しかった。あの告白を聞いても、俺はまだ奏のことが好きなんだと。そう思った。
奏のことは、幼稚園の頃から知っている。いつも一緒にいて、俺の隣には奏がいる。これが普通だった。一緒にいる時間が長い分、奏のいろんな表情や良いところ、悪いところを誰よりも見てきた。そのすべてが好きで、独り占めしたかった。今、奏は俺のそばからいなくなるかもしれない。それは嫌だ。嫌だ。嫌だ。でも、ただの一方的な片思い。俺に奏を縛っていい理由はない。
沈黙の時間が経った。廊下に足音が響いて、こちらに向かってくる。
「あれ、奏ちゃんがいる。終わるの早かった?」浩平が、扉から頭だけ出してこちらを覗いた。
「うん。早く部活が終わって、温人と話してたんだ」そうなんだ、と浩平は返した。奏の少し赤らんだ顔を見て胸の底がモヤッとする。今まで感じたもやもやよりも一層強かった。俺は早く教室から出たかった。だが、奏と浩平は話し始めた。ただ、これはいつものこと。部活終わり俺達は1時間くらい話してから帰路に着いている、普段は。しかし、この中で少なくとも俺だけは、いつも通りではなかった。気づいたときには、席を立ってしいた。一刻も早くこの居心地の悪い空気から逃げ出したい気持ちがそうさせたのだ。
「ん?温大どうしたの?」
「あ、いや、そのー。」
奏の問いかけに、うまく答えられない。思うように口が動かないことにもどかしさを感じる。
「まぁ、温大がそう言うなら続きは帰りながら話そうか」
そう言って浩平は一足先に教室を出た。あとに続こうと、ドアの方へ向かう俺の肩を奏は掴んだ。
「浩平には、内緒だからね」
夕暮れに染まった見慣れたはずの廊下は、どこか俺の心に染み渡るものがあった。前を歩く二人を見ると、傷口に塩を塗るような痛みが心臓を貫く。二人に追いつこうと歩くスピードを早めても追いつけない。いや、追いつきたくないのだ。奏が浩平と作り出すあの幸せな空間に足を踏み入れる勇気がない。それを体が反射的に、なお自然に感じ取って実行する。
「温大、大丈夫?」
立ち止まり、心配そうな目で浩平はこちらを見つめていた。
「大丈夫。歩くの遅かったな。」
やっと二人に追いついた。舞踏会に参加する紳士淑女が仮面をつけるように、いつもと変わらない仮面を被って、二人に並んだ。
帰り道、二人の会話に入り込む気にはならなかった。頭の中を教室の出来事が反芻している。聞いたことを理解するのはオーバーワークで、耳に入った言葉も逆の耳から出ていってしまっている。反芻が一区切りついた頃には、奏と別れる交差点にいた。
「ふたりとも、また明日」
奏はそう言って交差点を渡って行った。
「また明日ー」浩平は元気よく返事をしたが、俺はただ黙って手を振ることしかできなかった。歩いていく奏の背がとても愛おしく、離れたくはなかった。だが、引き留めるようなことはできない。
浩平と歩く帰り道がこんなに居心地の悪いことなんてなかった。隣を歩くのが恋敵……なのだろうか。浩平のことは尊敬しているし、恨んで、傷つけてやろうと思うわけじゃない。ただ、心の底から、浩平を排撃すべきという水がふつふつと湧き上がってくる。
「温大、なんかさっきからおかしくない?なんかあったんのじゃないの?全然喋らないし、具合でも悪いの?」
純粋に何も知らず心配してくれる浩平の顔は、とても、憎かった。浩平に悪気はなく、いつも通り心配してくれているのだろうが、それが今は、ただただ憎しみを増やしていく。
「いや、なんでもない。どこも悪くない」
「そっか」
俺の精神状態を察してくれたのか、浩平は黙って前を見つめていた。悪いことをしたと、心から思った。だが、同時にすっきりとした感情を抱えている自分もいる。少し、やり返してやった、その満足感と罪悪感という相反する感情が、体を流れている。居心地が悪くて仕方がない。できるなら走って逃げだしてしまいたい。そんな叶わないことを考えながら、俺は俯いて歩いていた。
俺の家が近くなった頃。街灯の下、俺はふと立ち止まった。上には蛾が光に酔って彷徨っている。俺よりも二、三歩歩いた先で浩平は立ち止まり、こちらを向いた。相変わらずの心配顔を向けてくる。いや、少し、寂しそうだ。
「なぁ、浩平」ここまで言って、ここから先の言葉が喉に詰まった。この先を言うことで俺たちの関係がどうなるか、わからない。少なくとも、今まで通り関わることはなくなってしまうだろう。
「なに?」
浩平は心配顔から、戸惑ったような顔になった。
「あ、その」
「いや、なんでもない。今日は、ここで。」
「……わかった。じゃあね」
悩みに悩んだ末、言うのはやめた。挙句、この空気から解放されたい気持ちが先走って、一方的な別れを告げてしまった。浩平の渋々納得したような顔はいつまでも脳裏に残る気がする。浩平の姿が豆粒くらいになるまで見送った。その姿は、見ていると心を苦しくさせるものがある。上を見上げると、蛾はいまだに街灯の光の周りをくるくると飛んでいる。今の俺みたいだと、自然に思えた。必死に光を求めて動いているのに、たどり着けず近づいたり離れたりを繰り返している。そんな蛾を鼻で笑って、俺は残る道を歩いて、自宅の門を開けた。
玄関に入ると珍しく親父の靴があった。我が家三人暮らしの大黒柱は商社勤めで、残業も多く家に帰ってくるのが、俺が寝た後というのもざらにあった。靴を脱いで整えて、リビングに入った。
「温大、お帰り」
親父は赤ら顔で体をこちらに向けてそう言った。手にはおちょこが握られている。
ただいまと言ってリビングにカバンを置いて、洗面所に手を洗いに行った。そのままの流れで着替えてリビングに戻った。
「親父、今日は帰りが早いね」
「商談が上手くいってな。久々の定時帰りだよ」
そう言いながら、親父はおちょこすれすれまで徳利から日本酒を注ぐ。
「お前も飲むか?」
「え?」
「あ・な・た。悪酔いしているようならお酒下げますわよ?」
少し戸惑っていると、台所から母さんの怒気に塗れた声がした。
「じょ、冗談だよ」
親父はそう言って酒をあおった。
「温大、ごはん食べる?」
「あー、まだ大丈夫」
「そう、食べたくなったら言って頂戴ね」
「わかった」
荷物を持ってリビングを出た。今はどうにもご飯が喉を通る気がしなかった。
部屋に入った途端、体の力が抜けるようにその場に座り込んだ。
「はぁ」と大きなため息を吐いて体を丸めるようにうなだれる。自分がそれほどと思っていたが、実際はかなり精神的に疲弊しているようだ。カバンをその場に置いて、這いずるようにしてベッドに登った。ふかふかのベッドに身体を預けて、全身の力を抜く。夕暮れの数十分で俺の中でいろいろなことが変わった。相談者と相談相手。自分と恋敵……。今もそうだが、浩平を恋敵と思うことに違和感を覚えている。浩平は今、確実に恋敵のはずなんだが、主観、いや、心のどこかで、浩平=恋敵となることに納得がいっていない自分がいる。これまでの浩平との関係を自分だけで勝手に解釈を変えてしまうことに後ろめたさを感じているのか、また別の理由があるのか、分からなかった。
疲れには抗えず、目をつぶった。夜ご飯も食べず、そのまま寝入ってしまった。
目覚めたのは朝の五時過ぎ。秋も晩秋に近づいて、日の出はまだだ。寒さのあまり、布団に身をくるめた。人間は器用なもので、無意識でも寒かったら、掛け布団を引き寄せるらしい。チュンチュンと早起きな鳥の声がする。あぁ、目が覚めてしまった。
シャワーを浴びて、台所に行くと母さんがお弁当の用意をしていた。お肉がジューっと音を立てて焼かれて、香ばしい、いい匂いがする。
「あら、まだ起きるには早くない?」
「大丈夫。昨日寝たの早かったからさ」
「そうなのね。おはよう」
「うん、おはよう」
「朝ご飯用意するから、座って待ってて。ご飯はどのくらい食べる?」
「自分でよそうよ」
そう断って、茶碗を食器棚から取り出した。母さんの隣に置かれたしゃもじで炊飯器からご飯を山盛りよそった。昨日の夜ご飯を食べ損ねたせいで、異様にお腹が空いている。
「あ、昨日の夜結局食べてないもんね。もう少しおかず作らなくていいかしら?」
母さんの手にあるフライパンでは目玉焼きがぷつぷつと焼きあがっている。
「あー、足りなかったらふりかけで食べるよ」
「そしたら、箸とお茶準備しておいて。盛り付けて持ってくから」
「はーい」
言われた通りに箸とお茶を注いだコップを持って席に着いた。シャワーから出て、喉が渇いていたからコップのお茶を早々に飲み干してしまった。
「はい、おまちどうさま」
そういって、母さんは目の前に目玉焼き、キャベツの千切り、お気持ちばかりのバナナがのったプレートを置いた。我が家定番の朝プレートだ。
「もうお茶飲んじゃったの。ついでくるわね」
今度はコップを持って台所に戻った。お腹の減りに耐えられず、お茶を待たず食べ始めることにした。机の中央に置かれた調味料からソースをとって目玉焼きとキャベツにかけた。 黄身を割って、ソースと黄身を絡めた白身を口に運ぶ。うん、おいしい。一口でご飯二箸はいける。
「はい、お茶」
「ありがとう」
お茶を受け取って、そのまま一口。コップを置いてまた食べ始めた。
「昨日、夜ご飯も食べず、寝るのも早かったわよね」
母さんがコップを片手に、俺の正面に座った。
「そうだね」
「よっぽど疲れてたのね。体育でもあった?」
「そう……だね」
流石に言えない。母さんも奏のことは昔からよく知っている。不用意に何かしら話してそれが奏のお母さんに伝わったら、奏にどう思われるか。そもそもこんな話されても母さんも困るだろう。
「ん、歯切れが悪いわね」
考えていたことに感づいたのかさらに問われた。
「そんなことないよ」
「そう。じゃあ、お弁当の準備、してくるわね」
母さんは台所に戻った。母の勘というのはなんとも恐ろしい。
そんなことを思っていると、リビングのドアが勢いよく開いて親父が駆け込んできた。 ネクタイが曲がっていて、まだ目も眠そうだ。
「母さん、僕朝ご飯いいや。行ってきます」
そう言い残して、ドタバタと廊下を駆けていった。
「ちょっと待ちなさいよ!せめて野菜ジュースは飲んでいきなさい!それに、ネクタイ曲がってるわよ~」
パックの野菜ジュースを片手に母さんは親父を追いかけた。おそらく、母さんがいなければ、親父は社会で言うところのだらしのない人になっているだろう。
「あぁ、ありがとう」
「どういたしまして。いってらっしゃい」玄関先から聞こえる声からして夫婦仲はいいのだろうが、朝から騒々しい。スキップ気味の足取りで戻ってきた母さんは俺を見て、「あんな大人になっちゃだめだからね」と言った。そう言う顔はあきれ顔ではなく、笑顔だった。
一通りの用意を済ませて、玄関で靴を履いている途中で気が付いた。コートを出すという話を母さんにしていない。去年クリーニングからもらって帰ってきてそのあとにしまったのは母さんだ。
「はい、お弁当できたわよ」
そう言って、母さんがリビングから弁当箱を持ってきた。
「ありがとう」
弁当箱を受け取ってカバンに詰めた。
「あのさ、今すぐじゃなくていいんだけど、コートがそろそろ欲しいいいんだけど」
「コートね。すぐに出せるわよ?」
「ほんと?お願いしてもいい?」
「わかった。待ってて」
「はーい」
俺は、母さんを待つ間にLINEを開いた。夜なにか連絡が来ているかもしれない。受信数は十五件。やけに多いなと思ったが、それは一つのグループに集中していた。俺、浩平、奏三人のグループ。【いつ遊ぶ?】と奏が始めに送っていた。昨日の朝話していた内容の続きだった。いくつかのメッセージのあと
【今週の日曜日はどう?】と浩平が送ったのに対して
【私も日曜がいいな】と奏が返していた。
【俺もその日で大丈夫】と一言返しておいた。
再度始めからメッセージを見返すと、途中途中のメッセージに使われるスタンプが見たことのないかわいいスタンプだったり、やけに浩平に同調するような内容のメッセージだったりが見られた。昨日のせいで、そういうふうに見てしまっているのかもしれない。実は気づかなかっただけで前からこんな感じなのか?そう思って、遡ってメッセージを見ようとしたタイミングで母さんが戻ってきた。
「はい、どうぞ」
母さんはハンガーから外してベージュのコートを手渡してくれた。
「ありがとう」
一旦、スマホをズボンのポケットにしまってコートに腕を通した。コートのボタンを留め終え、カバンの中身を確認して、
「いってきます」
「いってらっしゃい。車には気を付けてね」
朝の挨拶を交わして、ドアを閉めた。歩き始めてすぐ、スマホが鳴った。見てみると、奏からLINEがきていた。
【温大、今日、日直だけど時間大丈夫?】
……しまった。すっかり忘れていた。
【急いで行きます】とメッセージを返して、駆け足で学校に向かった。
日直は、教室の換気に、花瓶の水替え、担任から日誌を受け取るなど、朝から仕事がある。これが一つでもできていないと明日も日直をやらされる羽目になるから、まぁ、焦った。でも、かなりのスピードで走ったおかげで、時間には余裕で間に合ってなんとか日直の朝仕事を終わらせることが出来た。走ったおかげで、コートがいらないほどに体が温まり、学校に着いてすぐ、机の上に脱ぎ捨てた。その脱ぎ捨てたコートを枕に机で寝そべっていると、奏が話しかけてきた。すぐ体を起こして、声のする方へ体を向けた。温まった体がさらに温まる。
「お疲れ様。私が連絡しなかったら忘れてたよね?」
「うん、絶対忘れてた。ありがと」
「いえいえ」
会話が途切れた。話題もなく、どうにか会話を続けようと、あまり話す気にならない話題を持ち出すことにした。
「それで、浩平とはどう?」
「どう?って……というかここで話すの?誰かに聞かれて噂が立つの嫌だから、あんまり話したくはないんだけど」
「あー。そっか。ごめん」
「そんな謝らなくていいよ。そうね、最近は夜遅くまでLINEで話したりしてる。温大がアドバイスくれたこととかは今日試してみる」
夜遅くまでLINEしていた……。つまり、昨日浩平も奏も遅れて来たのは、そういうことだったのか。朝から嫌なことを聞いてしまった。
「頑張ってね。といっても、普段通りにしてればいいとは思うけどね」
「そうだね。あんまり気張らずやってみる」
奏はグットマークを作って、自信があるようにふるまって見える。それでも、顔には緊張の色が見える。好きな人に話しかけるのは勇気のいることだし、緊張するのはよくわかる。実際、俺も今緊張しているし。
「そろそろ浩平君来るころかな?」
「そうじゃないかな」
「廊下見てこよ」
奏は速足で廊下の方に行ってしまった。離れて行ってしまう奏を寂しく思うとともに、これから奏が浩平と話すと思うと、心がもやもやする。二人が話すところを覗いてみようと立ち上がったが、そんなことをすれば、奏にまた嫌に思われる。……やめておくか。俺はまた、椅子に座って、机に寝そべった。
その数分後、うきうきした奏が戻ってきた。
「話せたよ!」
「よかったじゃん。何話したの?」
「日曜日に遊ぶ時に何のゲームで遊ぶかって話。浩平君、私が好きなゲームに加えて、おすすめのゲームまで教えてくれてさ、これって、少しは私のこと気にしてもらえてるってことかな?」
せっかく嬉しそうに話してくれているのに、「……いや、単純に浩平が気配りの過ぎるいいやつなだけだと思う。」とは、口が裂けても言えない。しかし、「そうだと思う」と、言い切ることもできないし、そもそも、この奏の恋が上手くいってほしくないのにそれを応援するようなことは言いたくない。なんとも、返答に困る。だが、
「そうかもね」と返した。これなら、可能性も含んで、奏を傷づけることもない。
「そうだよね!」と一人で、奏は有頂天になっていた。
「あ、そうそう、伝え忘れるところだった」
「え?」
「昼に屋上に来てくれって浩平君が言ってたよ」
「あ~わかった。ありがと」
何の用だろう。再来週の試合のことか、もしくは……。とにかく行ってみるしかない。
チャイムの音がして、奏は席に戻った。担任が小走りで教室に入って、朝の会始まった。昼休みまで、浩平に呼ばれた内容で頭がいっぱいになって、まったく授業に集中できなかった。
言われた通り、昼休み、屋上に向かった。こうやって呼ばれるときはだいたい弁当を食べながらの長話。昨日のこともあって、浩平と話すのは少し億劫だ、それに寒いし。話す内容とすれば、再来週の試合に向けてか、それとも、奏のことか。前者であれば、ご飯もおいしく食べれる。それを期待して、屋上への階段を上った。
少し錆びた緑の扉を開けると、浩平が先に弁当を広げて胡坐をかいて座っていた。気温も上がって朝よりは温かい。
「あ、来た来た。奏ちゃんに来てることは聞いてたけど、心配したよ」
「ごめんごめん。日直なの忘れててさ」
浩平の隣に座って、弁当の風呂敷を広げた。屋上はあまり人が来ない。周りを気にせず話せる数少ない密会場所の一つだ。そうはいっても、密会という密会はしたことがないが。
「そっか~気をつけなよ。二組は仕事が全部できてないともう一日やらされるんでしょ?」
「ほんと面倒だよ。一組はそんなことないんだよな、うらやましい」
「だろ~。……よかった」
「へ?」
弁当を広げていた俺の手が止まった。
「温大、昨日の帰り、すっごい無口で気分が悪そうだったからさ、朝通学路で会わなかったから、何かあったんじゃないかと思って。それで心配してたんだよ」
「そっかぁ……」
流石浩平。まだ心配してくれていた。でもそれはそうか、今まで帰り道にあんな雰囲気になったことなってなかった。浩平は俺にとって親友と呼べる存在。余計変化も目に付くか。奏の話だったら嫌だと考えていた自分が恥ずかしい。
「もう、大丈夫だよ。何の問題もない」
「わかった。何か話したくなったらちゃんと話してよ?僕は浩平の味方だからさ」
……何があっても、俺の味方で居てくれるのかな。でも、今はこの浩平の良心にすがることにしておこう。
「ありがとう。そんな過度に心配しなくていいからね」
「うん!」
話に一区切りがついて、やっと弁当とご対面。白飯に、おかずは生姜焼き。おひたしとミニトマトが申し訳程度に入っている。好きなおかずが入ってるか入っていないかで、午後の授業に対するモチベーションが大きく変わる。今日は寝たりせず頑張れそうだ。
「あ、生姜焼きじゃん。」
「そういう浩平は肉巻きじゃん。おいしそう」
「温大、少し交換しない?」
「肉巻き一個にどのくらい?」
「ひとつかみ」
「箸使いの力量に左右されるな……いいよ」
「やった。はい」
浩平から弁当箱を受け取って、自分のも渡す。せっかくなので、大きいのをもらおう。どうせ浩平もひとつかみと言いながらひとつかみじゃない量を持っていくだろうし。五個入っているうちから、一際大きい肉巻きを取った。かぶりつくと野菜の甘い味と、たれの辛い味がいい具合にマッチして、口の中が遊園地のようになった。
「おいしかった。ありがとう」
そう言って、弁当箱を返そうと浩平を見ると、口をぱんぱんにしていた。見た目は栗鼠だ。
俺の弁当箱に目をやると、五分の一ほどなくなっている。
「浩平……やりやがったな」
「おいしかったです。ごちです」
「……もう一個もらっても?」
「すいませんでした」
少しの間のあと、二人で笑いあった。この時ばかりは、来る前の心配が嘘のようだった。
また雑談をしながら食べ進め、ふたりとも食べ終えそれぞれ教室に戻った。途中浩平に、そろそろ練習に来いと言われたが、あまり行く気はしない。そもそもそんなに練習せずとも動ける自信がある。だが、それを伝えたところ、「来よっか」と肩を捕まれ脅された。こうなれば行くしかない。
好きな生姜焼きと、おいしい浩平の肉巻きを食べたおかげか、無事午後の授業を乗り越えた。ただ、その授業には集中できず、浩平を疎ましく思う感情と、親友と思う感情が混ざり合って居心地が悪かった。
放課後、グラウンドを木枯らしに逆らいながら走る。
「温大!」
「おう!」
左から浩平のパスを受け取って、ゴールに向かう。浩平は毎回いい位置にボールを運んでくれる。ディフェンダーに見立てたコーンをじぐざぐに避けて、キーパーと一対一。右足で強く放たれたシュートはゴールネットを揺らした。
「温大ナイス!」
浩平とハイタッチ。
「やっぱ、上手いね」
「だから、小学生の頃やってた程度だって」
小学生の頃に、超次元サッカーなんかがアニメでやっていて、感化された俺はアニメで放たれる技を夢見て、サッカー部に入った。そして、そんな技はないと現実を知った。それでも、なんとか技っぽいのでもいいからやってみたいと猛特訓した結果。普通にサッカーが上手くなっていた。ちなみにこのことは、誰にも言えていない。恥ずかしいから。ついでに技の一つもない。
「今からでもいいからサッカー部に入ってほしいよ」
「今からは無理だな~」
浩平は、面倒見の良さが起因するのか、的確なところに正確なパスを出す。フォワードを務めるやつならありがた過ぎて頭が上がらないじゃないか。正直、俺のシュートも浩平なしじゃ成り立たないくらい。そんな風に活躍するもんだから、ファンもいるらしい。「羨ましくて仕方がない!」と、高一が休憩中にボヤいていた。
練習が終わり、部室はサッカー部員でごった返していた。間借りしているロッカーを開けて、タオルで汗を拭いて制服を着る。カバンとコートを持って外に出ると、浩平も後に続いて出てきた。
「奏ちゃん、まだ部活中かな?」
「さぁ?コンクールがあるとは聞いてないから、もう片付けしてるんじゃないか?」
「それなら教室に行こうか」
「そうしよう」
日もだいぶ落ちて、薄暗くなった廊下は少し不気味だった。あの曲がり角から血まみれの女が飛び出してきたり、後ろからチェーンソーを持った仮面男が追いかけてきたり……。そんなことはほぼあり得ないだろうが、こういう場所にいるとどうしても考えてしまう。いつものように教室に行くと明かりがついていて、安堵した。中には奏が一人。
「二人ともお疲れ様」
「お疲れ」
「お疲れ様」
教室に入って、椅子に座って一息つく。奏が少し渋ったように浩平に話しかけた。
「あのー浩平君。次の試合っていつ?」
「二十五日だよ。温大も出るから期待してて。絶対勝てるから」
「そうだね、頑張って!温大も頑張ってシュート決めてよ!」
奏はそう言っていたが、俺に向いた目線は鋭かった。あの時、そんなことは聞いてないよ?どういうこと?と目で訴えているようだ。といっても、これに気を回すことなんて出来ず、いつも通りを装って、会話を続けることにした。
「もちろん。五得点は上げるよ」
「じゃあ、もっと正確にパスを出さなきゃね」
「今でも十分だよ?」
「温大がもっと上手くなるんだったら、僕も上手くならないと。でしょ?」
「そうだな。頼んだ」
ひとしきり話した後、帰路に就いた。昨日ほどの居心地の悪さはなかった。それでも、奏が浩平に接するときの態度、行動、言動。すべてが目に付いた。浩平へのボディータッチは前からあったが、今になって思うと、奏はもっと前から浩平のことが好きだったのかもしれない。そう思うと、幼馴染なのに変化に気づけなかった自分に腹が立つ。もし気づいていたら、こうはなっていなかったかもしれない。そんなことを考えても無意味なのはわかっているが、どうしても考えてしまう。どんどん奏が自分のもとから離れて行ってしまう感覚が俺を襲った。
奏と交差点で別れて、浩平と二人で歩く。しばらく喋っていたが、ネタが尽きて二人とも黙っている。ふと今、確認したいことが思い浮かんだが、このタイミングで聞くのは不自然な気もしてならない。思えば、二人きりの時でもこの話題になった記憶がない。それでも、聞かなきゃ始まらない。そんな気がして、勇気を絞り出さんとするような声で、聞いた。
「浩平さ、ファンとかいるらしいけど、好きな人とかいる?」
「え?急だね。うーん……。ファンの子にはいないかな」
「ファンじゃなかったらいるってこと?」
「……どうだろうね」
この一瞬、奏の顔が頭をよぎった。実は、浩平も奏のことが……。いや、そんなこと……。……判断しようのないことか。すっと言ってくれないということは、何か隠したいことがあるのだろうか。
「そっか……」
「温大はいるの?」
「あー俺は……いないよ」
「いないのか……なら、いつか相談に乗ってもらおうかな」
「え……まじ?」
「うん。だめ?」
「そんなことはないけど」
「じゃよろしく」
「はーい」
あぁ。聞くんじゃなかった。もし、奏ならもう俺は立ち直ることが出来ないくらいのショックを受けるだろうし、もし違うのなら、それは好機になる。でも、それは、奏がフラれたところに漬け込むようなもので、奏に悪いことをしているようで、気が引ける。
「じゃ、また明日」
「おう。ばいばい」
家の前で浩平を見送った。今日は普段と変わらない態度で接することができた……気がする。誘蛾灯となっている街灯はチカチカと点滅していた。
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