第九小節 da capo 「ソワレ」Ⅰ
此処から少し過去編が始まります。
初めて会った時──。それは「彼女の最後」だった。
なんて事のない一日だった。何時もの様に気怠い体を無理やり起こし、窓を開けて髪を結う。階下では母が、明け方早くから店で並べる為の焼き菓子などの準備に忙しなく厨房内を行き来している。変わらずの光景にいつも無意識に口元が緩んでいたと思う。どこか安心感を感じるこの一日の始まり方が好きだった。
今でこそだが──私は一つ大きな勘違いをしていた。
だって──この幸せな毎日は、当たり前の様に続くと思っていたのだから──。
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「お母さん…おはよう…ふぁっ」
目を擦りながら、階下で朝早く仕込みをこなす母の元へ階段を降りていく。毎日目にする日常──私の一日の始まり。いつも誰よりも朝早く起きて、お店で並べるパンやお惣菜などを準備し始める。辛い顔一つせずに、いつも笑顔で仕事をこなす母を私は尊敬していた。父はというと、王城で料理長として仕事をしている。城では「料理長のロナー」といえば誰もがしる腕利きの料理人だ。母も料理人であり、王城のすぐ近くでお店を開いている。私も将来は二人の娘なのだから料理人の道を歩むのだろうか─?漠然といつもそんなことをどこか他人事の様に考えていたと思う。
「──おはようソワレ。今日は配達が多いから仕込みが多くて──そっちの配達名簿の方をチェックして貰える?」
「…うん、分かった」
欠伸をしながらカウンターに今日の配達先等が記されたノートを捲り、時間や数量などを一つずつ確認していく。すると今日の昼過ぎに大量の注文が──ルクセリア王城から入っている事に気づいた。その個数や品目を含めてうちだけでまかないきれる量なのだろうか?と母に尋ねた。この量は誰かに手伝って貰わないと捌き切れない。
「──お母さん、こんなに受けちゃって大丈夫?」
「ははっ…少し──安請け合いしちゃったよねえ」
「んー、まぁ...頑張れば大丈夫だとは思うけど、この量をさらに運ぶってなると──」
「それは心配ないよ?ゴズ君に──この後手伝いに来る様にって昨日から伝えてあるから」
母は笑いながら、此方を見て意地悪くウィンクした。私はため息をつきながら「またぁ?」と返した。都合よく使われる事が多いゴズに同情してしまうが、彼は確かに断るなどしないだろう。だが彼の友人として、ほんの少し気を遣ってあげる様にも釘を刺しておく。ゴズは便利屋ではないのだ。彼は将来は調律師として名を馳せる筈なのだから──。
「お母さん、困ったらゴズを呼べばいいと思ってない…?アイツは便利屋じゃないんだよ…?」
「ふふっ──ゴズ君が居るとソワレも嬉しいかなって」
「なんでもいいよ…。とりあえず分かった。それじゃあ王城への荷物はこっちでやっておくから、近場の配達とかはお母さんお願いね」
──これが母と最後のやり取りだった。もっと他愛も無い会話を交わしたかった。
明日死ぬかもしれないから、悔いのない様に生きなさいって誰かが言っていた。悔いのない様に生きて、突然の死を受け入れられる理由にはならない。当時──私は何度も母の亡骸の前で泣いたんだ。
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昼過ぎになると漸く、ゴズが走りながら汗だくでやってきた。ゴズに濡れた手拭いを渡して「遅い!」と不満げな表情で問い詰めていたのを覚えている。おそらくはまた夜遅くまでゴズのお父さんと共に調律の勉強をしていたのだろう。
調律師──。ルクセリアと月沙という国同士で協定が結ばれ、始めての外交の際に、相手国から示されたものの一つ。楽器を操る術、そしてその楽器を奏者と結びつける楽器と奏者の間を取り持つ存在──。私はまだ楽器奏者にそこまで会えたわけではないし、その演奏も十分に聴いたわけではない。交易でロクリアン諸島の方から詩人達が霧の周期に合わせて滞在中に語る歌がせいぜいだった。そして外界の詩人などが操る楽器と違い、月沙からもたらされた楽器は主人を脈でつなぎ合わせ、唯一無二の音色を奏でるのだ。
だが、私はその演奏もそうだが、何よりも歌と「楽器」から紡がれる旋律に人々が、国境を越えて一つになるような──その空気感が特に好きだった。
「ごめんっ!!父さんの”調律”を教わってたら夢中になって気づかなくて…」
「──どうせそんな事だろうと思って、もう積荷は馬車に乗せたから。城内へ運ぶの手伝ってよね」
「さっさと乗ってー、置いてくよ?」
「──待てって!ったく、ちょっとは言い訳させてくれっ」
私達は自宅から王城へ馬車を向かわせる。
この国には、今色々な「外海の文化」が流れ込んでいる。その一つが調律師と共に、月沙からもたらされた「楽器」だ。種類もそうだが、音色も十人十色──様々な音色を奏でる。
「音呼び」と呼ばれる、楽器側が奏者を選ぶという独特な仕組みも相まって、ある種の「気高さ」や「気品」を感じ、月沙からもたらされたその文化には一際興味があった。私の隣で言い訳を続けるゴズは、この国に根付き始めている「楽器」の専門店を営む”調律師”の息子だ。
調律師は音呼びで選ばれた、「奏者」と「楽器」を取り持つ存在──調律師が間に入る事で、「楽器」の特性を増幅させ、様々な副次効果を生み出す事が可能になる。主に治療方面での効果が特に顕著であり、人々を豊かに彩る、この国にとって今となっては欠かせない要素の一つへと変化し続けている。
そんな「楽器」という文化をこの国にもたらしたのは「月沙」という「受戒者」達をまとめ上げて建国した国の王「剣聖」──。
私にとって──いや、この国にとっても初めての「外交」だった。月沙とルクセリア卿国は”以前”から親交があり、本格的に交流が始まったのが二年前──。
祝典の際に見かけたその「剣聖」は私にとって、当時とても遠い存在だったのを覚えている。この世界の理から足を踏み外してしまった様な感覚と共に、気高さや気品、そして他者を思いやる慈愛を感じさせる人でもあった。
「彼」に仕える四人の将は、それぞれが剣聖が受け継いだとされる、月の民から賜った色を操るとされ、その力を「受戒者」を守る為に振るう──当時、世界中何処を見渡しても「月沙」は異質だった。この世界で唯一受戒者を治療する事ができる人。私はどこかで憧れの様な感情を勝手に抱いていた。理由はわからない。ただ、私の心の中の深く深く潜り続けた先の「何か」が彼を崇高な存在に仕立て上げていた。
隣で屈託なく笑い、私を楽しませる為に尽きる事なく話題を提供し続けてくれるゴズのおかげで、あっという間に馬車が王城へ到着する。二人は城内で働く「父」がいるその場所へ迷いなく進んでいく。城門を抜けて、大きな噴水を西に進んだその先が、城内の食事を全て管理している料理人達が勤める建物だ。
「ふう…。これで全部だね。お父さん、こんなに仕入れをするなんてどうしたの?お母さんもびっくりしてたよ?」
「──ああ、近日中に月沙から使者が来るそうでな。もしソウナ殿がいらした場合に備えての保険だよ。彼がもしくるのであれば、精一杯もてなしたいのさ」
「ソウナ…?」
「ああ──ソワレは知らなんだか。月沙の剣聖の名だよ」
父は自分の息子の様に誇らしいのか、何処か嬉しそうだった。咄嗟に私は無意識に言葉が続いた。私はずっと自分の身分を弁えずに、会ってみたい、話をしてみたい──と勝手に想いを馳せていたのだ。願ってもいないチャンスだった。
「お父さん、剣聖に会えるのっ?私も一緒に──」
「ソウナ殿はまだ来るとは決まった訳ではないのだが──」
「ソワレは一度言い出すと聞かねえからなあ」
ゴズは笑いながら、続けて間髪入れずに言葉を続ける。それが、彼の優しさだと私は知っていた。続く言葉は私には容易に想像できた。
「ドランさんは、俺が手伝いに行くから気にするな。剣聖がくるんなら滅多に会う機会なんてないんだ。行ってこいよ」
「ねえ、お父さんっ!私も何でも手伝うし!それに最近料理の腕もお母さんから──」
「──ソワレ。落ち着きなさい。まだ来ると決まった訳じゃないんだよ?そうだな、ドランはゴズ君が見てくれるなら──構わないよ。それと、今週は王城で私と共に過ごす事。剣聖様に会うにしたっていろいろと覚えないといけない事もある。いいね?」
「あ、でも私王城で過ごす許可とか──」
「──心配ないよ、私からルクセリア国王に進言しておく」
「やった!そうだ、ゴズ!母さんはいつも朝早いから、前の日から──」
「ハイハイ、大丈夫だって。一週間くらい、なんて事ねえよ。それにいつも手伝ってるんだ。正直調律師だってことを忘れそうになるくらい手伝ってるんだ。なんてことねぇよ」
「…ありがとう!」
私はこうして、一週間王城での生活を父の補佐として過ごすことになったのだった。
暫くして──実際に「剣聖」と会うことが出来たのは王城で過ごす最終日だった。私は実家にいる時と同じ様に生活のリズムは崩さず、朝早くから父の手伝いとして城内の食事を父と共に作り続けながら、彼に会う日を待ち望んでいた。