第二十五小節 「レミュエル」Ⅱ
──この香りには覚えがある。記憶が頭の奥底から、水底から湧き上がる泡の様に弾けていく様に。あの隊舎にはよく顔を出していた。当時の顔ぶれは恐らくもう──、既にこの世にはいないのだろうが、ここは──おそらく何も変わっていないのだろう。少し鼻をつくような消毒液のような香り。思い出したくない。そう、あの人の顔が記憶の底から──。
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「────」
「──スズレ!」
「...胡桃?ここは──」
「──良かった!心配したんだから!」
最後に思い出せるのは──。皆で宿に泊まり、早めに休んだのが最後。何一つ異常はなかった。なのに、目が覚めた此処は恐らく、宿泊した宿ではない。辺りが妙に騒がしいし、何よりも此処には戦う者特有の──良くも悪くも殺伐とした空気感とでも言うのだろうか──。
「状況が飲み込めていません...説明を…お願いしても?」
「それが…私も目覚ますと全然知らないとこに居て、なんだか周りの人はすごい親切で私達の治療もしてくれて──」
「──待って下さい。胡桃落ち着いて、ゆっくりと」
「ご、ごめん。えっと…目が覚めたらグローザが周りの人と揉めてて──、私達に手を出すなって凄い剣幕で怒ってて、でもその人達はどうやら味方みたいで──」
「一体どういう…奏梛殿は──?」
「それが、奏梛の姿も見当たらないの…でも周りの騎士たちは大丈夫だからって──」
言葉を続けようとスズレに説明をしていると、少し位の高そうな記章が大きく胸元に留められた男が、奥の方から室内に勢いよく入って来た。突如、大きく声を上げ知らされたその内容に、場は騒然となるが、何処か期待感や喜び、と言った前向きな感情が渦巻いているのを感じた。だが何よりも今聞こえた言葉──。
「大変だ!!レミュエル様が一騎打ちを始められた!相手は銀髪の青年だ!!どうやら互角に渡り合っている様で──」
「奏梛──?」
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状況は五分。だが、それは互いに手の内を晒しきっていない上の均衡。決定打に欠けるその場の戦闘に立ち合うものが居たとするなら──。こう思わずにはいられないだろう。決着をつける程の攻勢に転じたその時。どちらかが、死ぬ時なのだと。
「今…なんて言ったんだ」
「──言葉通りの意味だ。私達が、その存在を抹消して来た」
「そのまま受け取るなら…アンタはやっぱり俺達の敵って事じゃねえか…!」
息も絶え絶えに、だがまっすぐに眼前の女性を捉え言葉を投げかける。だが、言葉でさえも互いの本心には届かない。何かを──、理由があって伏せあっている者同士の戦いだと言う事に当人達は気づいている。だが測りかねているのだ。本当に信じていいのだろうか、と。
「そう──、だが、今はもう違う。奏梛、君にはこれからの新しいリドウ王国に…いや、あの方に必要なんだ」
最後の言葉は小さく、剣と脈の衝突によって掻き消された
。必要なのだ、──ゲンティア様の為に。
「生憎、俺たちは国の政治には関わらないって決めてるんだ。他を当たってくれ…!」
「こちらの都合で巻き込もうとしているのは承知の上だ」
「いまいち要領を得ねぇな…!アンタが白と黒以外の脈を持つ人間を始末していたとして──、どうして俺を直ぐに始末しない…?!」
俺はそう言うと、胸の呼吸が整って来たのを確認しながら、空間全体に薄く、広く、網目状に脈を広げていく。先程から動き回りながら、空間全体に仕込んでおいたのだ。この状況を動かす為には、もう少し踏み込んで脈を解放するしかない。
「言っただろう。其方が必要なのだ。それにこれは交渉の皮を被った強制に近い。本意では無いのだが…致し方ないのだ」
「やっと本性を表し始めたな…!気に入らねぇな…!いつまでもその余裕が続くと思うなよ…!!」
──来る。少しずつではあるが、攻撃を繰り出す度に威力が跳ね上がっていく。普通の人間であれば、その膂力のままに押し切れたのだろう。
この奏梛と言う男。先日の酒場で目にした時に、直ぐに分かった。この男は──、選民されている。月の民から選民された者には大きな特徴がある。身体を覆う大きな赤い龍の下顎の様な紋様。そしてもう一つは龍速という概念だ。龍速は体内の脈の流れを表す指針として、近年ようやく私の隊でも研究が進んできている。
シイラロゴスからの言い伝えが多く残るこの地ならではだが、この龍速というのは、体内に許容できる龍脈の量を測る事が出来る事が解っている。判別不可能な程に傷んだ文献からようやく読み解いたものだ。大地に根差す根源的な力。この力は取り込む事など以ての外。取り込んだが最後──深刻な禁断症状と激痛、最終的には人で居られなくなる。
では何故、取り込む事が出来ない力の、器たるものを測るという概念があるのか。そもそもシイラロゴスとは本当に英雄なのか?解らない。だが今はもう時間もない。彼の協力を取り付けねばならない。常人の数倍はあろうかというその器を使って──。
「考え事かよ!まだ余裕があるなんてふざけたやつだ…!」
空間全体に広げた網目上の脈を一気に収束し、レミュエルの動きを抑えようとする。全方位からの空間の収束。逃げ場など無い。だが──また、あの動きだ。
後一歩という所で、まるでこの世界の理を無視する様に、空間と空間の隙間に、まるで建物の影に隠れる様に、ある筈のない、見えない遮蔽物に隠れたかと思うと、こちらの攻撃を難なく躱していく。致命的な一撃を躱されてしまうのだ。厄介極まりない。今までは感覚のままに、この力を行使して勢いでやり過ごして来たが──。このままではいつまで経ってもこいつを抑える事など出来ない。
「──ったく何なんだ!それは!!」
「これか──?私は加護を施されていてな。便利だろう?」
相手を強引に力任せに引き寄せても駄目。空間中に死角をなくしても駄目。力任せに脈を放出してもこちらの疲労が増すばかりだ。それに、これだけ長時間脈を戦闘に使い続けたことは今までにない。胸の辺りの鼓動がやけに早くなって来ているのを感じる。
「くそ…!拉致があかねぇ…!はぁっはぁっ…!」
「──だいぶ息が切れているな。立っているのも辛いのではないか?」
「大人しく受け止めてくれりゃいいのによ…!!」
このレミュエルという女。実力もそうだが、何よりも速い。凄まじい速度で空間を瞬時に移動する影響なのか、こいつの通り道には空気が後から流れてくる。それに加えて先程の空間の隙間に──、あるはずの無い遮蔽物に隠れてしまうようなあの立ち回り。
「────」
「どうした…?諦めたのか」
「…あいつらの顔も見ずに諦めるわけがねぇだろう!力不足なのは十分に理解してる…!だがな──、俺にはアイツらを、不自由なく護る力が必要だと思ってたんだ…!お陰で決心がついたぜ。アンタを見込んでやるんだ」
「──止めて見ろよ」
「なにを──」
体内に集めた脈を、中心に向かって大量に注ぎ込むイメージだ。俺は昔から生命の危機に瀕した時に、記憶が欠如する事がある。今までは絶対に、知り得る事がなかった事だ。理由は簡単だった。こうなると、誰も彼もが死ぬからだ。この状態を止める事が出来たのは胡桃のみだった。アイツが血だらけになりながら、俺を正気に──戻してくれた。その時に初めて知ったのだ。
この忌々しい存在を──。
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「──ねぇちょっと!!レミュエルって貴方達の隊長なの?!どうして奏梛と戦ってるの!?」
「おぉ、其方達は銀髪の青年の仲間の者達か!レミュアン様が連れてこられたのだな!聞いているぞ!心配するな!今は、レミュエル様が相手をしている!」
「どういう事…?良いから奏梛の所へ私達を早く連れて行って!!なんだか胸騒ぎがする!」
「胡桃──?落ち着いて下さい」
「スズレからもお願いっ!この人たちを説得して!」
「騎士の方々、私は目が覚めたばかりであまり状況が把握しきれていないのです。どうして私達三人は此処へ──?」
「──そうか。レミュアン様から聞いていないのか。失礼だった。」
スズレが言葉を届けた先──、入り口前の騎士達の後ろから、異様な長さの剣を背中に、一人の黒髪の青年が現れた。右腕にはどこかで見た様な紋様が刻まれており、傷跡と混ぜ合わさるように描かれている。
「私はロシェ。静動騎士団の動騎士所属の隊長だ。私から説明しよう。君たちの仲間はこちらだ。ついて来てくれ」




