第八小節 「龍の方舟」 壱
「舟──?」
奏梛の答えを静かに呟きながら、心で何度も反復し噛み砕いて飲み込む様にくりかえす。
わたしは──。最後に思い出せるのは龍脈の海に父と母に捨てられたこと。あの場所では、人は生きていける資源なんかない──。ひたすらに力の奔流が流れ続け、産まれた生命は破壊され再生を繰り返す、リドウ王国の影の部分。
昔絵本で読んだことがある。「シイラロゴス」は月の民に抗い、戦い続けた後、この国のシンボルとして祀られているが──。私が読んだ本の中の物語と現実は随分と乖離している。力強く神にも近い様な存在として崇められているその存在は、私が拾われた村では忌み嫌われる存在だった。
村では「シイラロゴス」とは、月の民に謀反を起こした大罪人として、また龍脈の海と呼ばれる、通称「生命の彼岸」を汚した張本人として、同じリドウ国内とは思えないほどに、村では口に出すのも憚られる存在だった。
「シイラロゴス」が「生命の彼岸」を汚した事により、この世界に本来存在していた脈──。七つの色の殆どが失われたという事を幼い頃から子供達に云い聞かせるのはあの村だけだろう。実際のところ、どうなのかなんて興味は無かった。だが、あの海に捨てられて以降、「シイラロゴス」こそがこの世界の理を変えてしまった存在なのだと、理解した。
わたしは見たのだ──。あの海の底で──。
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「…….」
「────」
「グローザ…?大丈夫か?」
彼はそう言うと膝をつき、目線はしっかりと私を捉え、優しく声をかけてくれる。綺麗な翠緑の瞳に深めの黒を混ぜ合わせた落ち着きのある、それでいてなにもかも見通す様な──。どうしてだろう、この人からは私と同じ香りがする。そんな訳、あるはずがないのに。
「…う、うん…ごめ、んなさい…」
「謝る必要なんてない──、それより…ここから早く出ないとな」
「ソ、ソウナは…ここの事、知ってる、の」
「──何度か…来たことがある」
そう言ってゆっくりと立ち上がると、伸びをしながら辺りを見回す。辺り一体を取り巻く龍脈の流れが、うねりながら通り道に生命を産み落とし、産み落とされた生命は次の流れに巻き込まれ消えていく。混沌とした風景。そして霞んではいるのだが、昔見た光景とでも言うのか──。何処かで見覚えのある映像が乱れながら私達を覆っている。私が捨てられた場所とは随分と様子が違う。現象の異常さは同じではあるのだが、妙に穏やかに、静かに時間が流れている。何処にいても酷く焦燥感に追われていた私には、とても居心地の良い場所なのかもしれないと感じてしまう。目の前の──私と同じ髪色をした奏梛の振る舞いもあってか、わたしはゆっくりと心が絆されていく様な感覚がある。そんな彼の肩口には大きな傷があり、出血は止まってはいるのだが、おそらく私のせいで──。
「…あ、あのわたし…が、ソウナ…の肩、傷つけ…て、ごめん…なさい」
「いいって言ってるだろ?…それよりもグローザ──。お前──」
「龍脈を食った事があるんじゃないか」
「────」
──どうしてそんな事を訊くのだろう。そんな事、普通の人に出来るわけないのに。この大地に純粋に流れる力の源。そもそも「食す」という概念がない。あれは、身体に取り込めるものではないのだ、普通は。だけど──。心臓の奥が、大きく鼓動を打っている。彼は何かを知っている様な──。
「ど…どう、して…そ、そんな事…聞く、の」
「──あぁ…そうだな、すまない。…俺も同じだから、だ」
私の想像を大きく飛び越えたその回答は、上手く飲み込めずに喉元に留まった。同じとは──?それはあの海の深部について何か知っているのだろうか。首筋から肩にかけてひんやりと、あの時の感覚が戻ってくる。全身の感覚が麻痺した様な気の抜けた相槌を打ってしまった私に彼は続けた。
「──えっ…」
「…俺も喰ったのさ。龍脈獣を──生きて行く為に、な」
「なっ…!」
「──そんな驚く事じゃないだろう?グローザだってその身体の紅い紋様──。それは、龍の咆哮という身体へ急速に異質な龍脈を取り込んだ者に現れる症状だ」
「──ほら、見てみろ」
彼は無造作に服を捲り上げ、自身の腹部にも同じく紋様が刻まれているのを私に見せてくれた。傷だらけの身体に、紅く龍の下顎の様なものが背中の方にまで大きく彼を包む様に、食い破るかの様に描かれている。
──この人は一体何者なの?通常であればその龍脈の痣は、受戒者の証とも言われているもの。そんな軽々しく見せられるものじゃない。ましてや、その大きさからも症状はかなり深刻な筈。なのに──。躊躇いもなく捲り上げて、本当に不名誉な証があったものだが、先程彼はこう言った。
「龍の咆哮」と──。
「ソウナ…変わってる…ふ、普通は、その痣…ぜ、絶対見られたく…ない…ものなのに」
「────」
彼は、少し俯いたあと、私の方へ──。翠緑の双眸が視線を移し、何か雑念を振り払う様な、被りを振るう様に表情を切り替えて私に問う。
「…生きるのを諦めそうになった事が…あるか?」と。私の様な境遇の者は、そう珍しくない。生きるのを諦めようとした事は何度もある──、そう心の中で答えを見つけ、彼の質問に肯定しようとした時、ふと、一つの疑問が頭を過ぎった。諦めそうになったのに、どうしてまだ、生きているんだろう──?と。
「……」
「────」
「俺は、中途半端に、覚悟も決まらずに、ただ、生き延びてしまった…それがこの結果なら甘んじて受け入れるよ。なにもかも、自暴自棄になって──、生きる事を諦めようとしたんだからな」
「──そ、それが……ら、楽だった…?」
「そうだなぁ…」
私も思い当たるところはある──。ついさっきまでは意識も失いながら、彼の龍脈に当てられて暴走して彼を傷付けた。でも──。何処かでこのまま殺してほしいとさえ思っていた。全身に広がる激痛と、この痣の消えない赤み、そして生き延びたとして、それは人として生きていけるのだろうかと──。同じなのかもしれない。それは、今目の前にいる彼もそう。このまま人として楽になりたい、と。そう、死にたいんじゃない。ただ楽になりたい、逃げ出したいのだ。
次の言葉を探す様に彼はゆっくりと指先を真っ直ぐ口元へ運ぶと、表情が少し緩み笑っていた──。自嘲気味に笑いながら、誰かを思い出している様だった。
「ある人が──助けてくれたんだ。…ソイツは微塵も俺を助けたなんて思ってはいないだろうがな」
「──か、家族…とか?」
「いや…偶然居合わせて、その日を越える事だけを考える様になって…気付いたらもう五年?あっという間だよ」
「……」
「とにかく、俺はな…グローザ、お前が放っておけなかったんだ。俺と同じ匂いっていうか、直感で感じたままに動いただけだ。気にするな」
「うそ…?」
「嘘じゃない…。ただ同じ症状に苦しんでいそうな子供が放っておけなかった──って事にしておいてくれ」
「…奏梛…変なの…」
私の体内を巡る龍速が落ち着いてきているのを感じた。それと同時に心も含めた警戒心が解けていくのを感じる。どうしてだろう、彼の眼を見ていると──。
「──グローザに言われたくねえよ」
「それにしても…その様子じゃお前もかなりの龍脈を長期間取り込んだはずだ。そうじゃなきゃ、そこまで龍の様にハッキリと痣は出てこない…」
「聞いていいか?」
「…うん」
「何処で、それだけの量の龍脈を取り込んだんだ」
「わたし、捨てられて…育ててくれた…人がいるんだけど」
「────」
「村が…突然、き、奇妙な…脈獣達に襲われて──。その、時に、わ、わたしは龍脈の海──っていう場所に捨てられたの…」
「────」
「そこには…う、海の底から湧き上がる龍脈が、流れずに滞留してて…」
「そ、そこで、わたしも…奏梛と同じ…その日を生きる事だけ考えて…」
彼は私の話を遮るつもりは無かったと思う。今までの経緯を、話し始めようとした矢先──。彼は、真剣な表情で私に問いかけた。「──どうする?」と。
「…え」
「な、なにが…?」
「──グローザ、俺たちと一緒に来ないか」
「い、いきなり、な、なんで…」
「嫌か──?」
「…い、いやじゃ…」
「わ、わたし、奏梛…傷付けて…それに…じゅ、受戒してる。い、一緒に居ても、何も──」
「一人で、その日を生きていく事だけを考えるより──、一緒に考えた方が少しでも長生き出来そうなもんだろ」
「…そ、それは…」
「──俺と来いよ、グローザ。うちには五月蝿いのと、妙にしっかりした獣人の変わり者の医者がいるが──」
「…」
「え、えっと…」
「──まぁ、一先ずは此処を出るのが先決だな」
「行こう」
「う…うん」
この奇妙な世界を抜け出すために、わたしはこの銀髪の、自分と同じ髪色の人に、後ろから背中を追って移動を開始した。




