第二十四小節 「奏梛と志弦」Ⅰ
夢から覚めたあと、妙に体が軽い。目にする物全てが初めてのように、視界に飛び込んでくる。部屋中の壁にかけた絵画、本の種類、位置、食器、床の紋様や質感。全てを記憶として擦り込ませている。目が覚めてからというもの、気持ちが昂ってまったく寝られないのだ。目に飛び込む全てを鮮明に刻みつけ続けていると、部屋の中にはもう、目新しい物が無い事に気付く。そう、今まで自室か禁書庫か、ほとんどこの二箇所の往復だったのだ。記憶できる物など限られている。
「禁書庫…」
志弦はすぐさま部屋を飛び出し、禁書庫へ向かった。
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扉を開けると一人の銀髪の青年が本にうずくまっている。
何やら、身体に纏う雰囲気というか、服の装飾も相まって何処かの王族なのかと思うほど、何か、品の様なものを感じた。
志弦は声をかけようと試みるのだが──。
見知らぬ人に声をかけるという行為が、どうすれば良いのか分からないのだ。そう、今までは見知った人としか交流を持たないようにしていたからだ。
銀髪の男の近くにゆっくりと近づきながら、男の周りをぐるぐると静かに歩き回っている。男はかなり深い眠りについているようで、起きる気配がない。寝ている人をどうやって起こすのかなど常人であれば肩をトントンと叩いたり、声をかけたりなど当たり前のことが彼女には出来ない。
急に世界の見え方が変わって、負担が減ったと言っても初めてのことだらけの志弦にとっては十分に考えなければいけない事なのだ。一時間、また一時間と気づくとあっという間に空が明けて来た。意を決して、男の隣の椅子に座り横目で男を見ると服の袖から何やら紋様の様な者が見えた。
それは桜の花弁の様な紋様と、龍の下顎の牙が刻まれており、目を凝らすと何やら脈の様な物が流れ続けているのが分かる。美しさと危うさを兼ね備えたような脈の流れに目を奪われる。
「脈」と「識」
この世界に存在する、誰もが扱える能力。
かつて七色で区分けされ、現在は「白」と「黒」しか存在しないとされるもの。禁書庫で読み漁った文献を思い返し、つい口をついて言葉が続く。
「えっと…たしか──」
「月沙の民は生まれつき必ず楽器の適性があり…月沙に関係する文字がある者は……自分の器として楽器を媒介に式と脈を操っていた…」
「──流石だな…」
先ほどまで伏していた男が身体を起こし、こちらを見ている。綺麗な瞳。あの時ピアノを弾いていた──吸い込まれるような綺麗な瞳の奥に複雑な感情が渦巻いているのが見て取れる。この男は、見た目通りの美丈夫ではないようだった。一体どれほどの経験を積めばこういう瞳に成るのだろうか──。
「あなたは…あれ…??何処かで…」
志弦は自分でも気付かぬうちに夢の中の出来事が嘘のように思い出せない事に訝しむ。全てを記憶に留めておける彼女にとって、これは考えられない事だった。どうも夢の前後の記憶がぼやけている。そんな彼女を見て、優しくゆっくりと男は言葉を続けた。
その声は心地よく身体に響いた。私の心の中が、この人を知っていると訴える。自分の身体なのに、何処かで圧倒的な影響力の元に晒され続けているような──。
「久しぶりだな…志弦」
知らないはずなのに──私が、名前を、私自身に教えてくれた。
「──奏梛…??」
「…奏梛って…?あなたの名前…?…どうして私…あなたの名前知ってるの…?」
銀髪の青年は翠緑の瞳を潤ませながら微笑んだ。




