全休符 「壱」
辺り一面が見渡す限りの砂漠である、ルクセリア卿国から遥か東に位置しているルーグリッド。
吹き荒れる天災の一つが、生物の存在を許さない過酷な環境で、その日を生き延びるのが精一杯だったあの頃。砂嵐が止まず、廃墟と化した───建物とも呼べない場所に拠点を構え、飢えに耐え続けた。
毎日の食事といえば、運良く地下に沸いた水源から確保できる少量の水。そして周辺の脈獣が生存競争に敗れ、砂漠と同化しそうになっているのをたまに見つけては、その肉を捌いては食い繋いでいた。
覚えて…いるか──?
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この世界には双眼の眼という、一際異質な存在がある。門から吹く風に長時間さらされ続けると、身体の一部に紋様が浮かび上がり、生きていけない程の苦痛と人としての尊厳を失う───皮肉なものだ。この世界で、どこに至っても人の尊厳や苦痛など───日常であると言うのに。
巨大な砂漠地帯の中心部に位置するルーグリット帝国は、吹き荒れる双眼の眼の風を一段と強く受けている場所だった。城壁には高くそびえる防風堤が、幾重にも連なっており、帝国内ではなんとか風の影響を緩和し、人が生きていく環境が整えられていた。───だが、帝国内に住む為には、過酷な労働や徴兵に耐えなければならない。
この国は奴隷制度が根強い。買われた者は、真っ当な主人に就ければ良いのだが、そんなのは一握りだった。
大体の奴隷達は、底値で買い叩かれ、帝国が数百年かけて建造中の「龍脈炉」の建造に回される。この大地に元から溢れる純粋な力を吸い上げ、それを動力として機能させようという試みだ。そして殆どの奴隷達が此処で「龍脈中毒」となり、生命を落とした。
かく言う俺もその一人の筈、だった。いつもの様に龍脈炉に駆り出され、運搬中の龍脈を保存した容器から漏れ出たそれを直接浴びてしまった。龍脈とは、この世界が始まってから存在し続ける、原初の力の一つ。健常な人間がこれに触れると、過剰な回復作用によって皮膚が溶け出し、本来体内に存在しない力を急速に取り込んだ事により、自身の脈とぶつかり合い弾け飛んでしまう。
執着は無かった。いつ死んでも良いと思っていた。この世界に残していく人も居ない。手に入れたい物も無い。明日を生きる為に、今日しか生きていられない。そんな生活を強いられた俺に───俺は空っぽだった。
あの日までは───
ただれた身体を引きずって、使い物にならなくなった俺は帝国を追い出され、吹き荒れる暴風に吹かれながらも、辛うじて建物の形を保っている廃屋を見つけ、そこで最期を静かに迎えようと考えた。かなりの距離を歩いてきた自覚はある。正直言って、この状態でよく此処までこれたものだと自嘲気味に笑った。
建物内部には幾つか風化を免れた家具や雑貨が残されている。急いでこの家を後にしたのだろうか。外側からの印象とは反して、廃屋内部には人が住んでいた余韻がまだ、微かに残っていた。地面に敷かれたカーペットに包まり、壁に寄りかかるように力無く座り込む。
少しずつ、少しずつ、意識が遠のいていく。
体の節々に巨大な枷を付けられたように上手く身体が動かない。漸く、あの日常から解放されたと思ったのに──。一人になっても、自由は何処にもなかった。だが、目だけは閉じずに、この世界を観測し続けた。この不条理な世界を目に焼き付けて、次に生まれ変わった時は、この光景とは真逆の世界に飛び込み、自由を謳歌するのだと───世界を知らない子供の考えそうな、幼稚な反骨精神ではあった。
だが、悪くないと思った。そうだ、次の人生は───。
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一瞬意識が飛んでいた。
もう何日も食べる物や水さえ口にしていない。気付くと陽は既に沈み、夜が太陽を隠した。砂漠の夜は悴む程に寒かった。日中の猛暑から、極端な温度変化を繰り返すこの環境で、水源もなく枯れた世界──。
笑いが込み上げた。何日も飲まず食わずだ。乾き切った喉から、奇妙な風切り音が聞こえ───これが今自分が笑っている音なのかと、可笑しくなってくる。野晒しで風化していく方が覚悟が決まっていて良かったのか。自分の中に僅かな、生への執着を感じた。
なまじ建物など見つけてしまったから──?生存本能?あるいは───
室内を、力無く壁沿いに見て回る。装飾が施された食器や、使い物にならないものばかり。元いた場所に戻ろうとゆっくりと脚を進めていると、ひび割れていた足場が崩れ、瓦礫と木材と共に地下へ落下してしまった。
包まっていたカーペットが緩衝材となって、打撲だけで済んだようだ。だが衰弱し切っているのに変わりはない。落下の衝撃がいつまでも余韻として身体を巡り続ける。暗がりの中、満足に力も入らない、覚束無い足取りでゆっくりと進んでいくと───自分の足が、何かを踏み抜き、小さく音を立てて弾ける。僅かだが、地下から水が湧き上がっていた。俺は夢中で地面から湧き出る水を啜った。
「はっ…ははっ…まだ…生きる…選択肢をくれるのかよ…酷いぜ…」
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翌朝、近くを通る脈獣の群れの足音が聞こえた。ルーグリッド帝国が龍脈炉を建造している影響なのかは分からないが、この辺りは特に脈獣達が多かった。通常の獣達とは違い、龍脈の影響を受けた獣達。獰猛で、非常に力が強く、脈のような力も操る厄介な奴らだ。龍脈の影響を色濃く受けた存在の一つでもある為、仮に討伐できたとしても、素材等に転用が可能な部位などは殆ど無く、食べる事も出来ない。相手にするだけ無駄であり、人にとって何も利益をもたらさない存在だった。
「…俺と同じ…か」
ふと俺は幼い頃から、周りには隠し続けていた事が一つあるのを思い出す。白と黒以外の脈をどうやら操れる様なのだ。ただ、顕現の方法が上手くいかない。使おうと思って自在に使える訳ではなかった。龍脈炉で奴隷として過ごしていた頃に、一度休憩中に隠れて脈を発現させた事がある。
幼い頃は空間をなぞる様に、絵を描き遊ぶのが好きだった。こっそりと龍脈炉の影に隠れて空間に絵を描こうと、脈を纏った瞬間───龍脈炉が暴走し、奴隷達の半数以上が被害に合う大きな事故があった。子供でも理解できた。共鳴したのだ、龍脈と。
それからは二度と発現させる事は無かった。大きな被害を生み出したのが自分のせいだと、直感で感じとり、幼いながらに危機意識を持った。どのみち、白と黒以外の脈が使えるのが知れれば、何処かの狂った研究者達に捕まり、朝から晩まで人体実験されるのが目に見えていた。
だが──今は真に独りだ。誰も居ない。此処でなら試してみるのも悪くない。そう思った。掌に色を描いて、心の中の記憶を手繰り寄せた。あの時の様に空間に絵を描いて───
「───出来た…」
発現は出来た。ただ、どういった効果が有るのかが全く解らない。用途も不明。白は治癒に特化していて、黒は破壊に特化しているのは誰でも知っている。この世界の常識だ。だが、これがどう言う意味を持つのかは、脈獣達が教えてくれた。遠くで地鳴りの様に聴こえていた足音が──、一斉に此方へ向かって来ていた。
「……!!」
龍脈炉で共鳴を起こしたと言う事は、龍脈に関係していると考えるのが自然だ。それを少量でも発現すれば──。奴らは龍脈を喰らう生き物でもあるのだ。餌をばら撒いたのと同じだと。思案している間も無く、一斉に建物の周りを脈獣達があっという間に取り囲んでしまった。
おかしいな。いつ死んでも良いと思っていたのに。生きるための道へ続くきっかけを。一つずつ拾い上げていってしまう。俺は生きたい、のか──?
建物の入り口にある扉が吹き飛ばされ、脈獣達が侵入してくる。眼の色が赤黒く変色している。餌を求めている兆候の一つだ。様子を伺うように、姿勢を低くしながら近づいて来る。身体から生えている毛先の先端が、光を帯びて軌跡を描く。どうやって死ぬのが一番望ましいか。
「────────────」
「───」
「──────」
「─────────」
いや、どれも違う──。
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一瞬、また意識が途切れた。目の前には数体の脈獣が倒れている。一体どうやって倒したのか、覚えていない。肝心な部分だけ記憶がすっぽりと抜け落ちていた。残りの脈獣達は逃げ出し、入り口から砂嵐が鼓動の早い心臓の熱を押し上げるように部屋中に砂を撒き散らしている。
「…はあ…はあ…はあ…」
喉の奥が熱い──心臓の近くに、何か大きな熱が集まっているのを感じる。呼吸が苦しい。地下へ続く抜け落ちた床下へ転ぶように落ちていくと、湧き出た水に身体を浸し、何かが爆発してしまいそうな感覚を必死に抑えるように水を飲み続けた。胸の奥の鼓動が落ち着くまで湧き出る水に身体を浸し続けた。半日以上はそうして動かずにただ抜け落ちた一階の隙間から天井を見続けていた。
一階へよじ登ると、先程破壊された入り口から大量の砂が入り込んでおり、積み上げられた砂が横たわった脈獣を覆い隠そうとしている。積もり出している砂を払いのけ、入り口の扉をもう一度立てかけ砂の侵入を防ぐ。
もう──身体にあまり力が入らなかった。
残された力など無いのに。どうして入り口の扉を、再度立てかけたのだろう。砂と共に消えて行けば、楽になれる。一つずつ、生へ近づいて行こうと。どうして拾い上げようとするのか。
視線を真横に移動させると、先程の脈獣が横たわっている。これ程近くで見た事は無かったが──改めて見ると何処か美しさを感じた。とても外界で生きているとは思えない毛並みの艶やかさ。毛先には未だ、少量の光が揺れ動いている。
周りを見渡し、装飾が描かれた皿を集めると何枚かに分けて床に落とし破片を刃物の様に使い──脈獣を捌いた。無意識に。この時──生きていくために必要な事を、拾い上げていこうとする行動に自分でも理解が追いつかなかった。
奴隷は、食べるのには困らなかった。どんなに少量であっても、一日に一度、食事を与えられる。一日にこなすべき仕事を与えられ、従う。明日を考えずとも、その終わりが来るまでは。
──明日を与えられていた。
俺は今、初めて───明日を生きていく為に必要な事を考えている、という事が理解出来なかったのだ。
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正直に言って脈獣の肉は、何度も戻しながらではあったが、少しづつ喉奥にねじ込んでいく途中からは、すんなりと胃の中へ入っていった。そして気付いた事がある。脈獣には血液が無いのだ。身体を捌いた時、血が溢れて部屋中が血生臭い香りで包まれる事を予想していた。だが捌いても捌いても、切り口からは脈が溢れていくだけだった。明日を生きる選択をしても、一つの疑問が頭の中から消える事は無かった。生き抜いて、どうするのか──。
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あれから二日が経った。厳しい夜の寒さも脈獣達の毛皮を剥いで、身体を包んだカーペットの上から覆い、寒さを凌いだ。変わらずに暴風が辺りを覆い尽くす中、蒼い脈を何度か発現させたが、脈獣達は集まって来なかった。地面に耳を当てると、いつも聞こえていた周辺を走り回る脈獣の足音が遠退いていた。
それからまた、一週間程過ぎた。以前口にした脈獣の肉が、恋しいと思える程には強烈な飢えが全身を襲った。全身の爛れた皮膚も、心無しか食後数日は症状が落ち着き、痛みも引いていた様に思う。
また、振り出しに戻り、選ばなくてはならない。飢餓感、全身の龍脈を浴びた箇所の痛み。それに心無しか思考がぼやけている。目的も無く、ただ繋いでいく命。細い糸の上を渡っていく様な感覚。刹那的な感情に囚われ拾い上げていった生きるという選択。以前と違うのは蒼い脈の発現が容易になり、強烈な胸の奥を掴まれていく様な死の感覚を遠ざけるため。
───部屋中に、隙間なく絵を描いた。
こんな世界で暮らしたいと思える、今考えられる最高の理想を描いた。薄紫の桜という樹を中央に添えて、そこから広がる様に十字に広がっていく舗装された道。色とりどりの動物達が住まい、受戒者、健常者、龍脈中毒に侵された人。この世界から零れ落ちてしまった人達が住まう国。行き交う人々は、明日を生きる為に十分な選択が出来、笑いながら明日を自分の意思でつかみ取れる様な──。描きながら何度も笑ってしまう。こんな御伽話に出てくる様な光景は…世界中何処を探しても此処だけだと──
本当はこんなにも色付いた夢の世界を求めて──。
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建物の外壁が風に吹かれ軋む音が続く建物で、異音を上げて入り口の扉がガタガタと音を立てて開いた。せっかくの静かな死を邪魔されたくない──視線だけは入り口に向け続け、残る気力で感情を乗せ注視する。
…邪魔するな。
静かに、死なせてほしい。
俺がこの世界を離れたら此処は好きにしてくれて構わない。
静寂が、欲しいだけなんだ。
最後くらい、こんな小さな望みくらい…叶えてくれても良いだろう──?
この絵の様な、贅沢は望まないんだ。
なあ、聞こえてるか──
壁が軋む音、隙間を高速で行き来する風が低音から高音まで様々な音程を和音として奏で、時折り聞こえる瓦礫の崩落が低くリズムを刻んでいる。
フードを被った得体の知れないシルエットは此方を見て、何か言葉を伝えようとしているが、声が掠れてしまっている様で殆ど聴こえない。部屋を見渡して、身振り手振りで何かを伝えたい様だった。その様子を見て俺は警戒を緩めた。お前もーー命からがら、此処まで逃げてきたんだろう。無理をするな、話さなくても良い。すると背丈は丁度自分と同じくらいであろうそれは、フードを取り、大事そうに背中に抱えた長方形の箱から、何かを取り出した。
なんだ…結局殺されるのか───
そう思った矢先──伸ばし切った髪の隙間から、整った顔立ちの少女が此方を見つめ微笑むと、旋律を奏でた。身体中の感覚が、少しづつ、少しづつゆっくりと戻ってくる──。その美しい旋律は、俺の覚悟を震わせ、生への執着を呼び起こした。
彼女は演奏の途中、右手に持っている長い棒の様なものを落としてしまい、下顎に挟んで左手で構えていた物から旋律が途切れた。続きを聴きたかった。聞き覚えのない旋律が胸の奥を掴んで、ジリジリと握り潰そうとしてくる手を解いて──俺は、蒼い脈を気力で振り絞ると空間に文字を書き連ねた。少女は、その文字をずっと見つめ数秒固まったかと思うと、今度は驚いた表情を見せ、そのまま床が抜け落ちている、その先の水源を見つけ笑顔を見せた。そして、俺を担ぎあげ地下へ連れていくと、俺の目を見て頷いている。
「おか…しな奴…だな…ははッ…好きに…飲めよ」
「──────」
彼女は何かを伝えようとして、喉奥が乾燥で焼けて風切り音が聞こえた。恥ずかしそうに俯いて此方を見た後、恐る恐るゆっくりと水を手の平で掬い、泣きながらゆっくりと掌の盃を傾けた。
「…り…と」
何度か咳き込んで、喉を苦しそうに抑えながらもう一度。
「───私は…胡桃…一階の絵…あなたがかいたッの…」
「見せる為…に描いたんじゃ──」
「私…」
胡桃と名乗った少女は水を何度かまた掬い上げて喉を取り戻すと、久しぶりの喉が鳴る感覚に喜びその高い声音を綺麗に響かせた。
「あんな綺麗な絵、初めて見た…ねえ、貴方の名前は…?」




