第十小節 da capo「ソワレ•ピルグナー」Ⅰ
ー数日後ー
事前の通達より幾分遅かったが、今日「月沙」から使者が来る。私は、いつにも増して落ち着きが無かったと思う。
何でも「外海の霧」の周期が乱れていて、到着に時間がかかりそうだと──正直に言って、この時私は周囲の事まで関心が回っていなかったと思う。
いつものように陽が差し込み出す前に目覚め、窓から海の向こうを見ると、潮風に乗って「何かが焼けた様な香り」が混ざっている。これでも、料理人の家系だ。香りには敏感だった。
違和感を感じて直ぐに、飛び出すと城内の北側、来客専門の波止場を目指す。王城に用がある船は全て、城下ではなく専用の入り口に船を停めるのだ。何か嫌な感じがする。この香りは、食物の香りではない事に薄々気づいていた。考えたくない──心の中で浮かび上がる可能性が現実的な言葉として形を成す前に私はその言葉を否定して走り続けた。
▼△▼△ ▼△▼△ ▼△▼△ ▼△▼
波止場に着くと、まだ船は霧がかかって見えないが、真っ直ぐに──確かに向かってきている。焼けただれた香りが潮風に乗って、私に訴えてくる。胸騒ぎが止まらなかった。近くの見張り番の兵士たちにも声を掛けて、一緒に受け入れの準備をする。考えうる最悪の事態に備えて、治療の式が使える医者も手配する様お願いした。兵士達はいまいち事態を把握しきれていないが、料理長ロナーの娘である私を邪険になどは出来ない。何もなければもちろんそれが望ましい。このまま何事もなく迎えたい、と心の底から思った。
「ソワレさん…本当にこんな時間に寄港するんで?」
「間違いないです…。それに風に乗って焦げ臭さが──」
「──見えたぞぉっ!!」
直ぐ側の灯台の見張り番から、合図の鐘と号令が響き渡る。耳を打つ鐘の音が、今はひどく心地が悪い。この国で本来こんなに荒々しく鐘が鳴る事などないのだから。見張り番は目を凝らし眉間に大きく皺を寄せ遠方から近づくシルエットを注視している。視界の悪い霧の向こう側から姿を現したのと同時に声を上げた。
「…三名だっ!怪我を──」と、灯台守の声が震えながら、途切れた。
「──医者の準備をっ!!こ、国王様にも直ぐに連絡をっ!!」
胸の奥が大きく鳴ったかと思うと全身が震え出すのを感じた。霧に塗れて現れた”それ”は、使者が乗るにはあまりにも粗末で──血だらけで女が一人、男の腕の中で苦しそうに声を上げている。もう一人の女は、血だらけの二人に翠緑の色の式をかけ続けており、表情から一刻の猶予も許さない事を容易く想像させた。彼等が乗る、その船と呼ぶことも難しいボロボロの小舟──よくこの状態で、この海域を渡って来たと誰もが言葉を飲み込んだ。小舟が岸に着くと直ぐに、兵達が彼等を引き上げる。近づいた兵や見張り番が慌てて手を差し伸べて引き上げようとするが、必死の形相で黒髪の女性が嘆願した。
「──待って下さい!!ゆっくりと...!出来るだけ動かさない様に...!どなたか!!治療式を使える方は居ませんか?!かなりの深傷です、すぐに治療式を行える人を...!」
黒髪の女が此方を見つめ、鬼気迫る表情で嘆願する。だが、目の前の症状に対応できる様な医者はこの国には──誰が診ても、回復など到底見込めないのでは、と思うほどに凄まじかった。そんな中、桜色の髪の女が、黒髪の女に表情を歪ませて咳き込みながら訴える。大きな簪と髪留めが血で塗れていた。
「….ぐうううっ!!!…はぁっぐっ!…若様は?!玖我音!!...さっき私を庇ってさらに刻印を刻まれて…!!すぐに若様の意識を呼び戻すために式を!」
「…胡桃様!若様の命令です!!玖我音の全ての脈を持って──胡桃様とお子様の命を守れと…!動かないで下さい!!」
「…いやっ!!若様…!!目を覚まして下さい!!若様っ!!どうしてあんな無茶を──!!」
手を伸ばし「若」と声をあげる女の声は掠れており、此処に辿り着くまでの壮絶さが伝わってくる。正直に言って、震えが止まらなかった。こんな酷い傷は見たこともないし想像を超えていた。胃の中に残った食べ物がその場で逆流しそうになるのを必死に堪えながら──ただ目だけは逸らしてはならない気がしたのだ。
「…じっとして下さい!今は治療に集中しなければっ!どなたか早くっ!治療式を使える方は──!?」
兵達は余りの傷の酷さに尻込みしている。仮にもこの国を守るために訓練を受けている者達が臆する程には酷い傷であった。銃槍や斬撃に焼け爛れた患部。どうしてここまでの傷を負う事が出来るのか、ここまでの傷を負って私は誰かを庇う事は出来るだろうか──。
「…わ、わたし!簡単な治療式なら!」
私は咄嗟に彼女達の悲痛な叫びに背中を突き動かされて、駆け寄った。その場で起こっている事象が、呼び出された医者達には理解を超えていて、皆動き出すのが一拍以上遅かった。緊迫した状況で、一人の少女を合図に皆が釣られて動き出す。
「──今から、私がお二人の状態を一時的にですが、固定します!あなたは、私の脈に沿う様に、脈を流して下さい!!」
「脈の、受け渡し──」
「早くっ!!」
「──は、はい!」
言われるがまま、黒髪の女の背中に手を当て治療式を刻印する。簡単な誰もが扱えるはずの白の治療式。それが黒髪の女性の背中を入り口として刻印し、発動をすると──自分の脈が勢いよく女に吸われると強烈な目眩に襲われ──同時に、それが巨大な脈に増幅されて、治療式が強固になっていく様に目を奪われた。
「ありがとうございます!このまま──もう少しっ!もう少し脈を送れますか!」
「は、はい!」
背中越しにかなりの無茶をして式を行使しているのが分かった。体内でズタズタに傷ついた彼女の脈が悲鳴を上げているのがわかる──女の指先からは、美しい色が二人を優しく包み傷を「固定」していく様は、目の前に広がる光景とは酷く不釣り合いだった。
「…くる…み…」
「──若様っ!?どうしてあんな無茶をっ!!胡桃はここに…!」
「良かった…」
男は呟くと同時に、血を吐き出し苦しそうに呻いているが、その目は「死んで」いなかった。生を諦めた者の目じゃない──。男は桜色の髪の女を見つめながら、何か小さく呟いている。女は涙を浮かべながら頷き続けている。自信がこれだけの傷を負いながらも、お互いを護り合う彼等に強い絆を感じる。
そのやりとりに目を奪われていると、黒髪の女性の脈の流れが変わったのに気付いた。彼女は深く息を着いて、額を血だらけの掌で拭っている。
「──固定完了です!どなたか手を!!」
一連の流れを兵達は力無く見つめるしか出来なかった。黒髪の女の合図と共に、兵達は力仕事ならと傷の状態を固定された二人を城内へ運び出す。
私は慣れない脈を行使したためか、立ち上がるも足元がおぼつかない。事態が切迫していて見えていなかったが──。
小舟にはもう一人、焼けただれた男の遺体が横たわっていた。生前は非常に逞しかったであろうその肉体は黒く凹凸を無くし、塵になってしまいそうなほどだった。黒髪の女も、先ほど背中に触れた時に酷い火傷を負っていたのに気づいた。あれほどの傷を負いながら、自分の命よりも優先して守りたいと思える者が、自分には有るだろうかと不安になった事を覚えている。
▼△▼△ ▼△▼△
私は体の震えが止まらずに肩を抑えていると、先ほどの黒髪の女性、クガネが私の肩をそっと優しく包んでくれた。黒い髪を、先程の女性と同じく特徴的な簪で結った人──。
「先ほどは…ありがとうございました。私は玖我音、もしよければ貴方のお名前をお聞きしても?」
「ソワレ......ピルグナーです…」
「──ピルグナー?素敵な…名前ですね」
「────」
私は緊張状態にあったせいで、普段は名乗らない「隠し名」まで口にしてしまう。クガネはこの時には恐らく「気づいていた」様な気がした。何も言わずにあれからずっと「気づいていない」フリをしてくれている。
「ではソワレ様…もう少し、協力をしていただきたいのですが、お願いできますか?」
「う、うん...」
クガネと共に二人が運ばれた部屋に移動すると、私は改めて桜色の髪をした女性と銀髪の男性の傷を見て絶句した。胡桃と呼ばれた女性の四肢は黒く焦げており「受戒」しているのだ。奏梛と呼ばれた男の身体には、鉤爪と刀疵、銃創が無数に刻まれており、傷と傷が繋がり合い、壊死してしまっていてもおかしくない。
「──ソワレ様。一度も目を背けずにいられたのは”あの場で”貴方だけでした。だから、貴方に協力して欲しい。それに貴方の脈は…少し……特別な様です」
彼女は気づいていたのだ──。
「…私が先ほど行っていた式を、再度展開します、私の背中に同じ様に脈を送り続けて下さい」
「わかった…!でもクガネ…さんも背中が酷い状態で──」
「構いませんっ…!このお二人の生命を繋ぎ止める事が、全てにおいて優先されます…!」
玖我音は当然とも言える口調で言葉を続けた。胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じる。色々な感情がぶつかり合って整理出来ない。状況に似つかわしくない嫉妬に似たその感情に、胸の奥が苦しくなった。




