思い出の竜田揚げ
私がまだ小学校低学年の頃のはなし。私の住む町はそれなりに賑わっていた。治安は悪いと昔から言われている。だが、そのぶん周囲のおばちゃんやおじちゃんたちが子どもの面倒を見てくれていた。
例えば、鍵っ子だった私は、よく鍵を忘れる。当時は死角になるところに住んでいたので、その近くにあったキリスト教系の小さな教会でミサと共にお菓子。横にある喫茶店でゆで卵や水を貰って涼んでいたりした。
それらが閉まっている時は、近くのスーパーに行っていた。そこは小さいながらも、ゲーム屋さんや花屋さんや、飲食店、ゲームセンターなどが充実している。
そこで働いていたゲームセンターのおじさんに鍵を忘れたことを言うと、「またか!」と、内緒でコインを貰えた。私はそこのジャックポットというコインゲームが好きだった。ジャンケンをして勝ったら、止まった数字の分だけコインが出てくる。
そういうコインゲームで、1日。親が帰ってくるまで遊ばせてくれたのだ。
同じ階に、中華屋さんとフルーツパーラーがある。私はその中華屋さんの竜田揚げが凄く好きだった。母と父が口喧嘩していた時、「うるさくてごめんな」と、母がよく連れて行ってくれたのだ。
喧嘩の内容は言わないが、凄くストレスがあった。だけれど、中華屋さんに連れて行ってくれるのは、本当に嬉しかった。なにより、母が私に構ってくれる。それが楽しかったのだ。
竜田揚げの衣は白くカリカリで、噛めば噛むほど鳥皮のさっぱりした油が喉を潤してくれる。
子どもの拳ほどの大きさで、時々スポーンと箸から抜けてしまうこともあった。それと一緒に食べた醤油ラーメンも、スッキリとした喉越しだ。汁を水筒に詰めたいと思うこともあった。
そこの店主のおっちゃんは、必ず食べてる途中で、
「美味しいか?」
と声を掛けてくる。
昔ながらの気さくなおっちゃんだ。自分の料理の腕に相当自信があったと思う。本当に美味しい。けれど、当時はそれがなんだか少しだけ恥ずかしかった。
でも、気持ちは伝えなければと、笑顔で返答した。
「美味しいです!」
「そうかー! いっぱい食べや!」
そんな会話をして、ちゅるちゅるラーメンを啜ったり、カリカリと竜田揚げを食べたりしていた。おっちゃんの言うように、たくさん食べる私は、食後にフルーツパーラーにも寄る。
そこで必ず頼んでいたのが、バナナクレープだ。よくある巻かれているものでは無い。お皿に乗っていて、ナイフとフォークで食べるもの。これも美味しかった。横に添えられた、たっぷりの生クリームに、ほろにがチョコソース。あふれんほどのバナナ。
値段は少し高いけれど、まだクレープが爆発的に流行る前のそれは、気品のある上品な味だった。店主のおばちゃんが、「待ってな、今作るから」と。カウンター越しに言ってくれる。気さくでお洒落でおおらかなおばちゃんだった。
店の作りも、昭和と平成が入り混じったような、古くて新しい造りだ。大きなブラウン管テレビが置いてあって、そこから出る音がお店のBGMだった。
例えるなら、女性も男性も入りやすい明るい喫茶店みたいな空間。
また。フルーツパーラーの店主のおばちゃんは、常連さんや店の人との情報のやり取りが速かった。例えば、
「近くの公園で変質者が出たんだって!」
とか、
「〇〇通りで事故ですって!」
とか。
とにかく町の情報が速い。いち早く、通っていたスーパーの経営不振を聴いたのも、この店だ。その通りになってしまった。先ずは粋の良かった中華屋さんが閉店してしまった。その次はゲーム屋さん……と、どんどんスーパーから店が撤退していく。
その後私はしばらくして、引っ越すことになった。前に住んでいたところより条件のいい家だ。そこでの生活に慣れた私は、しばらく思い出の味を忘れていた。
けれど、今日、夢に見た。あの真っ赤な中華の店で、竜田揚げを食べている自分を。あの油の味を。店主のおっちゃんの「美味しいか?」という言葉を。
思い出は美化される。だからか、あの味を超える竜田揚げにはもう一生出逢えないだろう。美味しい美味しくないの問題ではなく。あの味は唯一無二だったのだ。
引っ越して数10年ぶりに近くへ行ってみると、そこは駐車場になっていた。残された公園は寂れて人っ子一人居ない。寂しい物である。
また、こちら側の町も、少しずつ寂れていく前兆を見せている。町全体に活気が無くなったら、きっと氏神様も悲しむだろうな。そんなことを想った朝だ。