3 小さな事故と超ド級の大事件
今日は金曜日。
いつもと変わらない一週間が終わろうとしていた。
しかし、この日。ちょっとした事件と、俺の人生を根底からひっくり返しかねない大事件の二つが起こった。
一つ目の事件は2時間目の現文の時間。
俺が唯一苦手とする教師の授業だった。
何が苦手かって?見てれば分かるよ。
『よし、それじゃあ次のページを誰かに呼んでもらうとするか。ついでに、この時の登場人物の心情も答えてもらおうかね』
いいながら、教師はスマホをいじりだした。
何かのアプリを起動すると、軽く表面をタッチする。
『それじゃあ、いつも通りクジで決めるか』
間違いない、あの悪魔の兵器を使ったのだ。
悪魔の兵器を眺めながら、その教師はアプリが表示したランダムな番号を読み上げる。
『出席番号1452番。立ちなさい』
「……!」
嫌な予感は見事に的中した。
1452番。俺の出席番号である。
いかに万全を期そうとも、このようにランダム要素を織り込まれてしまっては回避しようがない。いくらなんでも、他人のスマホアプリをハッキングするなんてできないし……。
そして、俺は生まれつきクジ運が悪いのである。
『どうした?出席番号1452番。聞こえんのか?』
「……はい」
これ以上黙っていては余計に目立ってしまう。
仕方なくその場で立ち上がる。
全身から汗が噴き出すのが分かる。
視線を教科書に落とし込んで、そこにだけ意識を集中させる。
だけど、やっぱりだめだ。視線を感じる。みんなが俺を見ている。
そう考えただけで、全身が硬直し、頭の中が真っ白になる。呼吸の仕方も忘れてしまうほどだった。
膝が震え、指が壊れたおもちゃのようにビクビクと小刻みに揺れている。
『どうしたー?先生の話を聞いとらんかったのか?どこのページを読めばいいのか分からんのだろ』
「……」
先生が何を言っているのかもわからない。教科書の文字が俺を嘲笑うかのように揺らめきだす。
教科書に俺の汗が滴り落ちていたのだ。
『もういい!やる気がないならそう言いなさい。さっさと座れ』
「……はい」
それだけの声を絞り出し、椅子に座るだけで精いっぱいだった。
肺の奥に澱のように溜まっていた息を、周囲に悟られないようにゆっくりと吐き出す。
椅子に座って、足の震えは少し収まったけど、小刻みな腕の痙攣はそのままだった。
先生が次の発表者を指名していたが、周囲の生徒たちの注目は、依然俺に向けられたまま。
(頼む、お願いだから俺のことは気にしないでくれ……!)
そんな本心を口にすれば、余計に注目をひいてしまうのは分かっていたし、何よりそんな度胸があるわけもない。
目を閉じて、教科書に視線を落とすふりをして、ひたすらに周囲の視線が去っていくのを耐える。
結局、授業の残り時間のほとんどは、震える身体を周囲に悟られないようにするだけで費やしてしまった……。
「さっきの時間、先生にあてられた時どうしたの?」なんていう問いかけを受ける前に、休み時間に入るや否や急用ができたふりをして教室を後にする。
これ以上目立つのは御免だ。どのみち、この程度のことなら一時間程度で風化する。
休み時間を目立たずに過ごす方法なら、いくつも用意している。
人気のない自販機の隅っこで時間をつぶすような愚行を、俺は冒さない。万が一見つかった暁には、余計に目立ってしまうからだ。
一番目立たない方法は、人通りの多い場所を歩き続けることだ。用事があるような顔して歩いている奴に、わざわざ注目する生徒もいないだろう。
名付けて、”ステルス・スニーク”。意味が重複してるのは重々承知しているので、いちいちツッコまないで結構。
それはさておき、先ほどの体たらくを見て、よくわかったと思う。
俺が、どうしてここまで目立つことを嫌うのか。
とにかく、人の視線を感じると、頭と体の両方がフリーズしてしまうのだ。
昔からこうだったわけじゃない。こうなってしまった原因はあるにはあるのだが、話すと長くなるから今はやめておこう。
「……はあ」
我ながら厄介な体質なったものだとこっそりとため息をつく。
気が付けば、周囲から人気が薄れつつある。別の人通りの多い場所を目指して方向転換した刹那、背後から声をかけられた。
「やっほ、佐藤くん」
「!?」
まさか、”ステルス・スニーク”中に声をかけられるなんて思ってもいなかったから驚いた。
そして、振り返った先にあった顔を見て、さらに驚く羽目に。
「……青蓮院さん。ど、ど、ど、どうしたの?」
さすがに声が上ずる。人目にさらされているわけではないが、こんな唐突に声をかけられたらパニックに陥るのも無理はないだろう。
だって、俺が彼女と会話するなんて初めてのことなんだぜ!?
そんな俺の心中をよそに、彼女は快活に笑う。
「どうって程でもないけど、さっきの授業中、とても調子が悪そうだったから心配になって。ゴメン、迷惑だったかな?」
意志の強そうな濃い眉毛が、すまなそうに垂れ下がる。俺は慌てて声を上げた。
「そ、そんなことないよ。心配してくれて、ありがとう」
「そっか、よかった。ああいうことは誰にでもあるから、気にしないで良いと思うよ」
それじゃと軽く手を上げて、はにかむ様に柔らかい笑みを残し、彼女はせわしなくどこかに小走りに駆けて行った。
……俺の名前、憶えてくれてるんだ……
4000人もいる生徒の顔と名前を一致させるなんて、普通の人間ではまず不可能だ。
ましてや1年ごとにクラス替えがあるのだから、覚えたころには別の教室なんてこともある。
それなのに、彼女は何の苦労もなくあっさりと俺の名前を言い当てたんだ。
「本当、大した女性だ。君の全てを、心から尊敬するよ」
誰にも聞こえないように、こっそりと本音を漏らすのだった。
さて、金曜日に起こった2つの事件のうち、二つ目についてこれから語ろうと思う。
なに?さっき彼女に声をかけられたのが二つ目だったんじゃないかって?
俺もそう思ってたさ。でも、そうじゃなかった。
二つ目の大事件は、その日の午後に起こったんだ。
『さて、諸君も3年生。そして、今年もそろそろ我が校伝統行事の季節がやってきたわけだ』
担当教師が楽し気に声を弾ませる。
一方、声を受け取った生徒たちのリアクションは様々だった。
不平に頬を膨らませる者、ギラギラした目で周囲を見渡す者、手作りのメモ帳に何やら必死でペンを走らせる者。
高校3年に訪れる、我が校独自の少々風変わりなイベント。
『”多部ログ”の始まりだ!』
普段は生真面目な様子の教師が、この時ばかりは少しタガが外れたようにテンションが高い。
活動期間中は部活動も禁止になるため、教員も早々に帰宅できるという、非常にありがたいイベントでもあるのだ。
多部川商店街活性化イベント、通称”多部ログ”
生徒数約3万人という、とんでもない学院のお膝元である多部川商店街。
当然のことながら商店街の利害と、生徒の立ち振る舞いには密接な関係がある。
素行の悪い生徒のたまり場にされるのは御免だが、かといって3万人もいる生徒すべての来店を断るのはあまりにも惜しい。
それは学院側も同じで、地元との関係を良好に保つため、生徒には商店街と健全なお付き合いをしてほしいというのが本音だろう。
そこで考案されたのが件のイベント、というわけだ。
早い話が、社会科見学の一環と称して地元商店街のレビュー記事を書かせるという主旨の”課外授業”なのだ。
学校の公式行事であるため、生徒側も迂闊な行動はできない。なにしろこの期間中に店側からクレームが来れば単位を落とす仕組みになっているのだから。
商店街にしても、年に一回、一か月間に集中して集客できるのだから願ったりかなったりである。
完全なwin-winの関係を生み出しているように見えるイベントだが、一点だけ問題があった。
それは、俺にとっても致命的な問題だ。
それは、"二人一組のペアで実施する"というルールだ。
人数が多すぎると活動に身が入らなくなる生徒もいるし、集団で店に入ること自体が迷惑になる場合もある。
一人で行動させるのも、採点が面倒だったり、要らぬトラブルのもとになることもある。もちろん商店街は他校の生徒も利用するし、その中には不良の巣窟として名高い朱久高校も名を連ねている。1人で下校しているときに、カツアゲにあったという話を幾度となくホームルームで聞かされたものだ。
と言った理由で、この学院きっての珍妙なイベントは、勤勉な受験生にとっては貴重な学習時間を奪われるだけの億劫なものであり、恋人のいない男女にとっては貴重な出会いのチャンスでもある。
もっとも、必ずしも意中の相手とペアになれるわけもなく、同姓のペアが乱立することも多々ある。
なにしろ、ペアを決定するのはお決まりのクジだからだ。
「どうせ誰と一緒にやっても同じなんだ。さっさと終わらせてくれ……」
ざわつく教室の中、俺は半眼になって呆然と張り切る教師を見つめるだけ。
生まれつきクジ運の悪い俺にとっては、ただ単に見知らぬ相手と当たり障りのない時間を過ごすだけの退屈なイベントに過ぎない。
それでも、誰かと二人きりで行動するのは耐え難いストレスだ。1人とは言え、他人から常に注目され続けるわけだからな……。
『それじゃあ、お楽しみのペア決めタイムと行くか。各自、自分の端末に注目するように。それじゃあ、始めるぞー!』
完全に死んだ目で自分の携帯を眺める。
何度も繰り返して悪いが、俺のクジ運は本当に悪い。生まれてこの方、クジで『当たり』と名のつくものを引き当てたことがないレベルだ。
ここまで偏ると、もはや何ものかの見えざる手が俺の運命に介入しているのでは?と疑ったこともあるが、考えても結論の出るものではなかった。
そしてなにより、このクジ運の無さは、目立ちたくないという俺の理念に結構マッチしているのだ。
だから、今回もきっと当たり障りのない、地味なパートナーを無事に引き当てて、無難に終わるのだろうと思っていた。
そう、携帯端末に記された、その四桁の番号を見るまでは……
「……嘘だろ?」
何かの間違いかと思ったが、そうではない。
俺が彼女の出席番号を忘れるわけがないし、このタイミングで端末が故障することなどさらにあり得ない。
つまり……
「やっほ、佐藤くん。今日は、これで二度目だね。一か月間、よろしくね」
つい数時間前と同じく、彼女にしては珍しい、はにかんだあやふやな笑みを浮かべて、青蓮院琴音──俺の多部ログパートナーがそこに立っていた。
どうやら、今までの俺のクジ運の悪さは、全てこの一瞬のために集約されていたらしい。
「神様、ありがとう」
誰にも聞こえないように、小声で神への感謝の言葉を口にしたのだった。