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題無

悪夢から覚ましてほしい

作者: 一布

私は無知で、何も知りません。

戦場を知りません。

戦地で人を殺すことを知りません。

戦地で殺されることを知りません。

家族が戦地に行き、残されることを知りません。


だからこれは、フィクションです。


ただ、分かるのは。

傷付くのは、いつでも力のない人達だということです。



「ママ、お腹すいた」


 五歳の娘が泣いています。

 三歳の娘は、泣き疲れてソファーの上で眠っています。


 私の国が姉妹国に攻撃を開始してから、三ヶ月ほどが過ぎました。


 私の母国は、今や侵略国として世界中に知られています。各国から経済制裁を受け、経済は停止し、日々の食べ物にも困る有様。小さな娘達は、いつも泣いています。


 夫は、徴兵され戦争に駆り出されました。もうずいぶん長く帰ってきていません。無事かどうかすら分かりません。


 私はただ、夫の無事を祈ることしかできない。


 夫の代わりに、娘達を守り続けることしかできない。


 夫は優しい人です。人の命を救いたいと、救急救命の仕事に就いていました。人を助けたことを誇らしげに語り、助けられなかったことを悲しみ。


 誇りを持って、自分の仕事に従事していました。


 夫は三十五歳。そんな仕事をしていたから、体も十分過ぎるほど鍛えられている。徴兵の対象となるのは当然だったのかも知れません。


 けれど私には、あの人が銃を持って戦えるとは思えません。人の命を奪えるとは思えません。けれど、戦場では、殺さなければ殺される。


 あの人に死んでほしくない。

 殺してほしくもない。


 戦争では絶対に叶わない願いです。


 だから、祈るしかないんです。


 どうか。

 どうか、生還した夫が、もとの優しい夫のままであるようにと。


 もとの夫のまま、帰ってきてほしいと。


 それまでは、私が、夫の代わりに娘達を守り続けるんです。帰ってきた優しい夫に、元気な娘達の笑顔を見せるために。


 とはいえ、状況は芳しくありません。


 他国からの経済制裁を受け、この国は、今はとても貧しいです。


 経済制裁を受けると、この国の貨幣価値が下がることは火を見るよりも明かでした。人々は、こぞって金融機関に足を運び、預貯金を引き出しました。そのお金が、しばらくは紙切れ同然となると分かっていても。


 私ももちろん、例外ではありませんでした。


 戦争が始まって二ヶ月も経つと、いよいよ経済が回らなくなってきました。店舗に商品が並ばなくなり、保管している保存食で飢えを凌ぐ必要が出てきました。


 商品が売られないのなら、お金なんていくら持っていても意味がありません。


 食べ物の入手は、物々交換が主体となってきました。


 娘達にお腹いっぱい食べさせたい。美味しいと笑う娘達を見たい。パパに甘える娘達を見たい。楽しく食卓を囲んでいた頃に戻りたい。


 夫に抱きついて、私も、彼に甘えたい。


「パパはまだ帰って来ないの?」


 もう二ヶ月以上前から、娘達はそう聞いてくるようになりました。


 私は何も答えられません。もう少し、なんて嘘でも言えません。この国の偉い人達は、攻め込んだ姉妹国の休戦要求にも対応する気がなく、世界各国の要請にも応える気がないのですから。


 戦争を必要だと感じているのは、戦争で苦しまない人達だけ。


 私も、娘達も、こんなに苦しいのに。


 涙が出そうです。悲しいです。不安です。辛いです。助けてほしいです。


 でも、誰も助けてくれない。


 世界では、攻め込まれた姉妹国からの難民を引き受ける国がいくつもあるそうです。


 けれど、この国から逃げた人達を受け入れる国はありません。少なくとも、私は知りません。あったとしても、そんな情報など入ってこない。今のこの国は、そんな周知などしてくれない。戦争を推し進めている。それを国民に強要している。


 この国の行政機関は、戦争反対のデモを行った人達を、問答無用で逮捕しています。国家に対する反逆だと。争いを嫌い、平和を求めるのが悪だと。


 私達は、この国から逃げられない。ただ、耐えるしかない。


 私の心はどんどん沈んでいきます。まるで、深い深い水の中に落ちてゆくように。


 涙が出そうでした。


 それでも。


 私は、泣き疲れて眠っている三歳の娘と、彼女の近くで泣いている五歳の娘を見ました。


 私は、泣いてなんていられない。この子達を守る。夫がいない今、それができるのは私だけなんですから。

 

 私は自分の頬を両手で張りました。気を引き締めるために。行動するために。


 そろそろ、この家の食料も底を尽きそうです。どうにかして、食べ物を手に入れないと。


 私は、重くなっている自分の心を無理矢理奮い立たせ、家の中を散策しました。何か、食べ物と交換できそうな物はないか。


 夫が着ていた服を、何着か取りまとめました。これと、何日分かの食べ物を交換できたら。


 鞄に夫の服を詰めて、泣き止みそうな五歳の娘に言いました。


「ママね、食べ物持ってくるから。お腹いっぱい食べれるように、頑張るから。だから、ちょっとだけお留守番してて」


 娘は、口をきいてくれませんでした。プイッと、私から顔を逸らしました。彼女もストレスが溜まっているのでしょう。


 正直に言います。少し苛立ちます。可愛い娘なのに。大切な娘なのに。それなのに苛立つほど、私の心もささくれ立っているのでしょう。

 

 これではいけない。心の棘を必死に折って、私は家を出ました。


 近所の公園に足を運びます。食べ物を求める人々がたくさんいました。需要と供給が、まるで釣り合っていません。今の状況で、長期間保存可能な食べ物を持っている人はほとんどいません。


 ほんの少数の、リアカーや車に缶詰などを積んだ人達。彼等の周囲には人が集まり、物々交換を持ちかけています。


 私のその輪に加わり交換を持ちかけますが、けんもほろろに断られました。やや年配の男性が持っていたたくさんの缶詰を手に入れたのは、交換品としてポリタンクに入れたガソリンを持っていた人でした。


 食べ物が、手に入らない。

 どうしよう。


 困っていると、一人の男性に声をかけられました。中年の男性でした。おそらく、私より十歳くらい年上。四十前後、といったところでしょうか。


 彼は私に、食べ物がほしいのか、と聞いてきました。


 素直に、正直に私は答えました。娘が二人いるんです。どうにかして、娘達にはちゃんと食べさせたいんです。


 男性は、私に着いて来るように言いました。食べ物はあるけど、大勢の人の目に映るところには持って行きたくなかった。あんたが持っている物と交換でいいから、こっちに来てくれ、と。


 地獄に仏、なんて言葉がどこかの国にあると聞いたことがあります。


 今の私は、まさにそんな気分でした。


 私は男性の後ろに着いていきました。正直に言うと、彼は少し臭いました。お風呂にも入れていないのでしょう。私も人の事は言えませんが。


 彼が私を連れて来たのは、古びたマンションでした。ここに来るまでに、彼は、自身のことを話していました。戦争が始まる前までは食品加工の工場に働いていたこと。ロス商品が一日に多数出るので、それを持ち帰り、食費を切り詰めていたこと。持ち帰っているうちに、家に缶詰などが溜まりに溜まったこと。今となっては幸運だった、と思えていること。


 マンションの一階が、彼の部屋でした。


 男性は私を家に上がらせると、段ボールに入った二十個ほどの缶詰を差し出してきました。


 それは、今の私にとっては、宝の山のように見えました。


 久し振りに、娘達にたくさん食べさせることができる。久し振りに、娘達が笑ってくれるかも知れない。


 私は笑顔を浮かべながら、交換のための服を男性に差し出しました。


 男性は、私が差し出した服を受け取りませんでした。


「それはいい。その代わり──」


 彼が求めたのは、私の体でした。


「俺も、ずいぶんご無沙汰なんだよ」


 寒気がしました。


 こんな、みんな大変なときに。

 こんな、みんな苦しんでいるときに。

 こんな、みんな悲しんでいるときに。

 こんな、命さえ危ういときに。


 男性から漂う異臭。いやらしい笑み。私の体を、上から下まで舐めるように見る視線。


 寒気がしました。


 泣いてしまいたかった。

 あまりの気持ち悪さに、泣いてしまいたかった。

 あまりの不快感に、泣いてしまいたかった。

 あまりの悔しさに、泣いてしまいたかった。

 あまりの惨めさに、泣いてしまいたかった。


 断る選択肢のない自分に、泣いてしまいたかった。


 男性が求めるまま、私は服を脱ぎました。

 結婚してから、夫以外に晒したことのない体。


 私は、夫を裏切るのです。

 戦場に出て苦しんでいるであろう夫を、裏切るのです。


 その場で寝かされ、男性は、私の体を楽しみました。


 彼の臭いが、吐息が、感触が、動きが。

 全てが気持ち悪くて、私は瞼を下ろしました。

 自分の心を閉じました。


 暗くなった視界の中で、ひたすら、娘達のことを考えました。それ以外、何も考えられないように。自分が今なにをしているかなんて、忘れてしまえるように。


 長い長い、時間でした。


 男性が満足すると、私は解放されました。


 手に入れた、ほんの数日分の食べ物。

 これだけの食べ物を手に入れるために、私は、捨てたのです。


 自分の尊厳を。

 夫への想いを。

 娘達の親として、心から笑えることを。


 袋に入った缶詰を持ちながら、私は、帰り道で泣きました。

 涙が止まりませんでした。


 ほんの少し前まで、幸せだったのに。

 

 もう、あの生活には戻れない。

 

 私建は、ただ奪われるだけ。

 失うだけ。

 傷付くだけ。

 涙を流すだけ。


 私は、きっと、二度と心から笑えない。

 愛する人に、愛していると言えない。

 娘達を抱き締められない。


 夫が帰ってきても、彼に見られたくない。

 

 夫の無事を祈る、私の心。


 夫を心配しているはずの心に、別の気持ちが芽生え始めました。


 夫が帰ってこないことを期待し始めました。


 夫の記憶の中の私が、戦争が始まる前の私でいられるように。


 綺麗な思い出のまま、永久に残るように。




無法の状況になったとき、最初に被害に遭うのは女性や子供です。

近年の日本の災害時でもそうでした。

戦争となったら、言わずもがな。


この作品に批判は山ほどあるでしょう。

でも、批判の前に、どうか教えて下さい。

なぜ、国を作る人達が無法を生み出すようなことをするのか。

なぜ、その状況で弱い者を虐げる輩が出てくるのか。


なぜ、国は、弱い者を虐げる者を野放しにして、誰も望まない「思想」を推し進めるのか。

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― 新着の感想 ―
[一言] 切なくて悲しくてやりきれなくて泣きました
[良い点] かの国の人達もこんな生活を送ってらっしゃるのでしょうか。胸が痛くなります。 [気になる点] こんな状況でも男の人はおっπがお好きなんですね? まぁ、そういう展開になるだろうなとは思いました…
[一言] こんな第二次世界大戦のような悲劇が 今まさに、また日本で起ころうとしています。 ウクライナへのロシア侵攻を許せば コレを火種に、日本も危なくなります。 アメリカはもうアメリカファースト政策に…
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