ビターバレンタインデー
付き合って3年になる彼女にサプライズを仕掛けようとしたのは、別れる危機を感じたからではない。
バレンタインデーに彼女のアパートまで行って、寒がりな彼女の為に、好きだと言っていた晴れた空のような色のマフラーと手袋をプレゼントして喜んでもらおうと思ったのだ。
プレゼントをした後、一緒に鍋をつつきながら、来年、僕が院生を卒業したら結婚をしようと言って、彼女が泣いて、それを僕が抱きしめて、忘れられないバレンタインになるのだと思った。
だから、アパートに行って知らない男(正確に言えば写真では見たことがある男)と彼女が鍋をつついていたなんて、想像出来なかった。
僕らは同じ大学の落研で出会ったよくいるカップルだ。
教育学部だった僕と大人しいけど綺麗な彼女。お似合いだった。卒業したら結婚するんだと漠然に思っていた。
だけど、僕はまだ"先生”になりたくなくて院生に進んだ。その事を彼女はあまりよく思わなかったらしい。
「晴人って、そういう所あるよね」
院生に進むと伝えたとき、彼女は携帯画面から目をそらさずに呟いた。
そういうってなんだよ。
って言おうとしたけど、彼女の気を逆立てるだけだというのは、言わなくても分かったから、何も言わずにただ笑った。
それが去年の1月。
その年のバレンタインデーに、彼女は黒のシックな万年筆と生チョコをプレゼントしてくれた。
「院生にまでなるんだから、素敵な先生になってよね」
その万年筆を、今も大切に使っている。それぐらい、彼女が好きなのだ。
院生の僕と社会人の彼女。
彼女は僕の家から電車で2時間くらいの街に就職し、職場近くのアパートで暮らし始めた。
遠距離になったため、最初の頃は毎日連絡を取り合い、夜には電話をし、週末には会いに行った。
それが徐々に既読が遅くなり、電話は週末だけになり、会うのは数ヶ月に1度。
"自然消滅”
という言葉が頭をよぎることも多々あった。
でも、いつまでも彼女が好きだった。
彼女が会社の人たちとバーベキューに行った時、男と2人で写真を撮っていた。
「私の教育係なの。優しい人で"お兄ちゃん”って感じ」
ザワザワと心に風が吹いた。
「そっか。良い職場で安心したよ」
そういった僕の顔は、どういう表情をしていたんだっけ。
その男が、彼女と一緒に鍋を食べている。
「どうして……」
「コンタクトにしたんだね」
「ごめん……」
「あの、彼女とはなんでもないんだ」
狼狽える彼女を庇うように男は立ち上がった。
「立花さん、少し晴人と話をさせて」
彼女は僕を連れて部屋の外に出た。
"立花”を外に出さず、僕を出した時に「あぁ、もう終わったんだな」と感じた。
「私、今、立花さんが好き」
「うん」
「晴人はさ、私の事好きじゃないでしょ」
「好きだよ」
「分かんないよ。晴人と付き合って長いけど、晴人のこと、何も分かんない」
プレゼントは受け取って貰えなかった。
帰り道、同じようなことを中学の時に付き合っていた恋人に言われたことを思い出した。
僕はあの頃から成長していないらしい。
プレゼントを持って駅まで向かい、グラグラと電車に揺られながら、やっぱり彼女が好きだなと思った。しかし別れたくないと泣きつくほど、僕は子供ではない。でも、バレンタインデーに振らなくてもいいではないかと腹を立ててしまう僕は、やっぱり子供なのだろう。
見慣れた風景に戻り、行きとは違う僕がいる。いつもの道を歩いているとパラパラと雨が降ってきた。薄暗い空を眺め、今日は最悪だと思っていたら、急に雨は強くなる。
「マジかよ」
自分のアパートまではだいぶ距離があった為、雨宿りが出来そうな公園の四阿に目がいき、走る。
走りながらプレゼントを守っている自分に気が付いて嫌気がさした。
軽く濡れた髪を手で叩き、四阿に入る。2月は寒い。この寒さを、もう誰にも慰めてもらうことは出来ない。
「はぁーーー」
ため息を着いてベンチに座ろうとした時、先客がいた事に気がついた。
「うおっ」
声に出してしまったが、雨が降っていてどこにも行けないからベンチの端に静かに座る。
中学生くらいの少年(ジャージを着ているから性別は確かではない)が体育座りをしながらベンチで小さくなっている。
彼or彼女も何か嫌なことでもあったのだろうか。まあ僕ほど辛いことは無いだろう。
ふと、その身体が小刻みに揺れながら声を出していることが分かった。最初は鼻をすする音が聞こえて、風邪でも引いたと思っていたが、違う。
泣いている。
ヒックヒックと漫画のような泣き方をしている。
雨は、ずっと強くなる。
「あー、雨止まねぇなー」
自分の中にいる"教師”が動いた。
「雨降ってっと寒いよなー」
一人言にはならないように、小さいのが少しでも顔を上げるように、一方的に言葉を投げる。
「寒くないの?」
受け取れる言葉を渡す。
「寒い」
顔を上げずに答えた。
「よなー。傘とか持ってないの?」
「ないからココにいる」
「雨予報って言ってたよ?」
「天気予報見てない」
「そのカバン、部活用?」
「うん」
「陸上部?」
「うん」
「試合?」
「うん」
「勝った?」
「ううん」
「僕も」
ふと顔を上げた。
その顔は、ショートカットだから気が付かなかったが、少女だった。
「どういうこと?」
眉間に小さな皺を寄せながら少女は尋ねる。
僕はさっき起こった出来事をプレゼントの袋を指さしながら、事細かに伝えた。
「笑えるだろ?」
「全然」
紅くなった鼻をすすった少女はまた、涙を優しく流す。
「誰かの恋愛を笑えるくらい、私は恋をしていない」
「君は、なんで泣いてるの?」
尋ねても良いか迷ったが好奇心が勝ってしまった。
僕の顔をチロリと見ると、少女は消え入りそうな小さな声で話し始めた。
「好きな人がいた。同じ部活のひとつ上の先輩。今日は部活の試合があって、先輩はもう卒業しちゃうから会えるのは今日で最後なの。だから告白しようと思って、自分で作ったチョコを渡そうと決めた。昨日、沢山チョコを試作したから試合前なのにめっちゃ食べちゃった」
「へへへ」と笑う少女の手には、可愛らしいリボンがついた小さな紙袋がある。僕は目を逸らした。
それに少女は気がついたのだろうか。
「そう、これ。ここにあるって事は結局渡せなかったの。ていうより、受け取って貰えなかったってのが正しいかな?私こんな男みたいな見た目だからさ、有り得ないんだって。男友達みたいに仲良かったから、彼女にはなれないって。別に付き合いたいとかはなかったんだけどね。いままでありがとうの気持ちも入ったチョコレートだったのに、それすら受け取って貰えなかったのが凄くショック」
長い溜息をついた少女は膝を抱えて俯いた。
「好きにならなかったら良かった。渡さなかったら良かった。仲良くなんか、ならなかったら良かった。こんな後悔しかしてない、駄目な恋だったんだよ。だから、浮気されても彼女が出来たお兄さんは凄いと思う」
そうなのだろうか。
僕は、彼女に「好き」と伝える努力をしただろうか。「分かってもらえる」と彼女の優しさに胡座をかいていただけではないか。本当に好きだったのに、それが伝わっていなかった。少女は、それを最後にしっかりと伝えた。僕の方が、恋愛を甘く見ていたんじゃないか。
「後悔するくらい誰かを好きになれたんだから、いい恋だったんだよ」
「お兄さんも後悔してる?」
「あまりしてない」
彼女との別れは、後悔ではない。悪かったと思っているんだ。
彼女は僕に沢山くれたのに、僕は最後のプレゼントすら渡せなかった。これは後悔ではない。悪いのは僕だから。
「それでも、僕は次も同じような間違いをしたいって思うんだから、駄目な恋だったんだ。でも、とても離しがたい恋だった」
少女は「よくわかんない」と言って首を傾げた。
「もう恋愛なんてしたくないな。部活やって友達と遊んで、男なんて懲り懲り」
「そんなこと言うなよ。次はもっといい人に出会えるはずだから」
「お兄さんに言われても説得力ないね」
少女はケラケラと笑った。ようやく笑ってくれた。
「見て!」
立ち上がった少女が四阿の外を指さす。
その方向を見ると、雨が雪に変わっていた。
「すごい!ここでも雪って降るんだ!」
「通りで寒いはずだわ」
2人で四阿を出て、しばらく空を眺めていた。
「へっくしゅん」
少女は寒そうに震える。よく見ると少女が履いていたのは半ズボンだった。
「ちょっと待って」
プレゼントだった袋からマフラーと手袋を取り出し、タグを切る。
「これ、君にあげる」
「え、貰えないよ」
「僕が持ってても使い道ないから」
「こんな高そうで綺麗なマフラー使えない……」
そう言いながらも少女はプレゼントを受け取ってくれた。あの話をした後だったから、断りきれなかったのだろう。悪い事をした。
「きっと良く似合うようになるよ」
僕はマフラーを少女の首に巻き、手袋を着けてあげた。少女が着ている紫芋みたいな色のジャージとは不似合いだったけど、少女の白い肌と空色のマフラーたちは今でもよく似合っていた。
「ありがとう」
困ったように少女は笑う。どういたしまして。
「あ、そうだ」
少女は思い出したようにチョコが入っている紙袋を持ってきた。
「これあげる」
「え?」
「プレゼント交換ってことで」
なるほど。それなら有難く受け取れる。
「ありがとう」
「ねぇ食べてみてくれない?味の感想が知りたいの」
紙袋の中から小さな袋に入ったトリュフチョコを摘み、口に放り投げる。
ビターな味のパウダーと甘いチョコがよく合っている。
「美味しい」
「でしょ?これ食べられなかったとか、先輩はとても不幸だ」
少女は笑う。ここまで笑えるようになったらもう大丈夫だ。
ホッとしたのもつかの間、少女は悪巧みを思いついた、いたずらっ子のような顔をした。
「私、お菓子職人になろうかな。それで先輩が私のお菓子を買いに来た時、これでも喰らえってトリュフチョコ投げつけてやるんだ」
その発想に度肝を抜かれて笑ってしまった。でも、とてもいいアイディアだ。
「いいね、それ」
「だから、お兄さんも素敵な彼女と出会ってさ、素敵な色のマフラー巻いて、幸せになったらいいよね」
うん。その通りだ。
僕は深くうなづく。
「じゃあ私は雪になったから帰るよ。バイバイ!」
僕があげた空色のマフラーを靡かせて、少女は振り向かずに雪の中を走っていった。
僕はもう一度チョコを口に入れる。
ビターとスイートが混ざりあって、やっぱり最後は甘かった。
同じ空から降ってるのに、雨から雪に変わっただけで随分ロマンチックになりますよね。