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あなたに送る物語

うたうたい

作者: 速水詩穂

 


 うたうたい



 耳の奥にこびりついたメロディー。

 いくつかの音が複雑に組み合わさってできたというよりは、一音一音確かめるようにきちんと発音する音の集まり。丁度幼子が歩いた道筋のような。けれどもそれは、しっかりと踏みしめて進む一歩。単純に聞きやすく、まっすぐな音。


 頭が痛い。雨音で目が覚めると、鈍くうずくこめかみを押さえる。例え陽性でなかったとしても光であることに変わりはなく、一度覚醒してしまえば容赦なくまぶたを叩く。布団をかぶりなおすと、波が過ぎ去るのを待つ。


 以前に比べてだいぶ減ったが、時々まだ夢を見る。こうして弱っている時は特にそう。家族三人で暮らしている夢だ。

  父がいて、母がいて、まだ幼い自分がいる。鼻歌を歌う母の足元を、お気に入りの絵本を抱えて行ったり来たりしていると、コーヒーのお代わりを取りに来た父に頭をなでられる。力強く、大きな手。自分にとっての絶対の庇護者。その万能の安心感、を奪われる日が来るなんて、いったい誰が想像できただろう。

  この時初めて知る。自分にとっての絶対は、世の中にとっての絶対ではないのだ。


 深い谷底から浮上する。意識が輪郭を取り戻す頃、懐かしいメロディーが聞こえた。頭痛を忘れて飛び起きると、のんきな声が僕を迎えた。

「やっと起きた」

 あごまでの長さの内巻きの髪。細い肩がくるりと回る。同時に感じ取ったのはカレーのにおいだった。

「……勝手に入るなって言ったよね」

「ちょっとすごい汗! 今着替え持ってくるから待ってて」

 相も変わらず人の話を聞きやしない。

「いいから勝手に触らないで」

 ベッドを下りると同時に視界がぐらりと回る。あわててサイドテーブルに手をつくが、しばらく動けそうにない。大きく息をついた。

 どうせ言ったところであいつが聞くと思えない。このやりとり自体、体力の無駄使いだ。

「はい。また体調崩したの? 運動しないからだよ」

 下着は自分で用意して、と持って来た着替えを押し付ける。

 確かにひどい汗だった。冷えた汗が体温を奪う。仕方なく着替えることにした。

「ごはん食べる?」

「……ん。カレー以外なら食べる」

「何言ってるの。カレー以外食べないくせに」

「病人だよ」

「病人だから間違いなく食べる物をつくったの」

 キッチンからコンロの電源を入れる音がした。少しして沸騰する音が聞こえてくる。

  僕は布団に入りなおすと、蹴とばすようにしてシーツをはがした。しっとりと人一人分の汗を吸い込んだそれは、丸めて押しやるとつんのめるようにして頭から床に落ちた。


 両親共に失った僕は、幼いころから特別扱いされていた。

 そんな世間の期待通り「人と違って特別な存在」である自分をまっすぐ演じた。生まれ持った性質もあったのかもしれない。よどみない傲慢は、けれども無神経な同情や哀れみをはねのける上で必要なものでもあった。

  自分の存在を腫れ物だなんて、絶対に思わなかった。そんな特別な存在である僕を唯一特別扱いしなかったのが幼馴染のあいつだった。

「いけないんだ」

 ことあるごとに指をさす。

 通学用の黄色い帽子をかぶらなかった時。横断歩道で手を上げなかった時。先生に敬語を使わなかった時。体育をさぼった時。下校中に買い食いをした時。ヤツはまるで専用の学級委員であるかのようなしつこさでどこにでも現れた。

「うっとおしいんだけど」

 だから僕も決まってそう返した。人のすることなすことに目くじらを立てて、常にストレスを抱えて生活して何が楽しいのか分からない。それでもあいつは僕を指さし続けた。

「いけないんだ」

 誰も口にしなかった「正しい事」を抱きかかえて。


「何で知ってんの?」

 カレーを二皿はさんで向こう側。熱さにおそるおそる口を近づける動きが止まる。

「ん?」

「あの歌」

 ああ、とうなずくと、そっと口に運びなおす。でかい。いや、一口がでかい。熱いんだったら一口量を減らせよ。何「私猫舌なんで」ってかわいこぶってるんだよ。口の端から意地汚い食欲がはみ出てるんだよ。

「なんで?」

「いや、こっちが聞いてるんだけど」

「んー、いい歌だから?」

「答えになってない」

 その口の端が汚い。僕はため息をついた。

 相変わらず人の話を聞かない。いつだってお互い一方通行だ。自分のしたいようにする。そのために互いが存在するかのようだった。

  だからきっと、いくらでも代わりはきく。二人ともたまたまここに居合わせたに過ぎない。

「アンコール?」

「調子乗んないでくれる?」

 笑った。あどけない笑顔は、やっぱり汚い。気付くと頭痛は遠のいていた。今は微かに余韻を感じるくらいだ。

 食事を終えると勝手に下げた食器を洗い始める。水音。その合間からあの歌が聞こえた。聞きやすいようにわざと大きな声で歌っているようだった。

「……歌詞あったんだ」

 つぶやくと、向こうでうなずく姿が視界の端をかすめた。


 鼻歌を歌う母の足元をお気に入りの絵本を抱えて行ったり来たりしていたあの頃。

 テーブルに肘をつく。口元を手のひらで覆うと、部屋の隅を見やった。なるべく何も考えないようにする。ゆっくり息を吸って、吐いて。心を介さないように。間違っても琴線に触れないように。大きく息を吸う。

 初めて知る歌詞。それは「あなたのいる幸せ」をまっすぐに歌った歌。

 あの時、母はそんな歌を口ずさんでいたんだ。あの歌に、僕も父も包まれていたんだ。僕は護られていた。大きな父と優しい母に。だから今、ここにいるんだ。

 能天気な歌声。僕は部屋の隅を見続ける。じっと波が過ぎ去るのを待つ。たった二人分の食器。片付けるにしてはずいぶん長い事、水の音がする気がした。


 思えば自分のしたいようにしていたのは僕の方だった。自分の境遇を嘆いて、けれども弱みを見せないように虚勢を張って。人にぶつかっても謝ることもしなかった。

  自分だけが不幸だと思い込んでいた。自分の事しか見ていなかった。周りに生かされていること。許されてきたことにようやく気づき始める。


「見つけた」

 隣町の公園。そのドーム状の遊具の中で丸くなっている姿を確認する。

 冬も終わりがけ、梅の花が咲き誇る。ただ桜まで届かない気温は、外で過ごすにはまだ寒い。

「……」

「いけないんだ」

 声をかけるが、あいつは中で体育座りをしたまま動こうとしない。

  この遊具自体、側面に二つ穴が空いているだけで、他に入口がない。空いている穴も子供サイズだ。まさか僕は通れない。よく入れたな。入ろうと思えたな。絶対無理だろ。

「ほら、帰るよ。よくもこんな寒い中……。体調崩したら君のせいだからね」

「……」

 返事はない。

「おーい」

「……」

 やっぱり返事はない。

 仕方なくその場に座り込むと、曇天を見上げた。久しぶりに見た空は、灰色ながらも明るい光をお腹いっぱいにためこんでいるかのよう。

  大きく息を吸うと、静かに吐き出す。声は、そのついでに出たに過ぎない。

 それは、いつか母が口ずさんでいた、こいつが歌っていた歌。

 それは「あなたのいる幸せ」をまっすぐに歌った歌。


  かくしきれない感情。雨はいつまでも続かない。寒さもいつまでも続かない。雲もいつまでもそこにいない。いずれは止んで、溶けて、光が滲み出す。そのことに気付くためには、何より

 誰かが、必要だった。

 誰か、自分を見てくれる人が。

 いつだって指さして、自分の存在を認識し続けた人がいたから、僕は僕と向き合うことが出来た。自分を見失わずに済んだ。「それ」に代えはきかない。僕を見つけたのは他の誰でもない、こいつだった。

 どうやら僕は、思っていたよりも不幸ではないみたいだ。


 衣擦れの音がした。小さな穴から顔をのぞかせる、その目が潤んでいる。

「ほら帰るよ」

 早くしないと置いていくと言うと、あわててやつはその小さい穴から出ようとした。ところが、

「あれ? あれ?」

「……。……ウソでしょ?」

 出られないという。だからどうやって入ったんだって。

 ああでもないこうでもないと模索する僕たちは、傍から見ればとんでもないまぬけで、

「……抜けない」

 バカみたいに笑った。

 雲がゆっくりと動いていく。暖かな日差し。明るい光が僕たちを照らした。



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