第46話 未遂とJK②
ひまりは濡れた髪をタオルで拭きながら、ドライヤーのコンセントを挿す。
俺はテレビを見る振りをしながら、横目でひまりの様子を窺う。
奏音が言うには、帰ってからひまりの様子がおかしかったというが――。
先ほどの奏音とのやり取りは、いつもと同じような雰囲気だった。
と思い出している内に、ひまりはドライヤーのスイッチを入れ、髪を乾かし始めた。
俺はテレビに視線を移す。
あまりジロジロ見ると怪しまれてしまうだろうからな。
先ほどまでやっていたドラマはちょうど終わったらしく、今はニュースをやっている。
ひまりの方に注意を向けつつ、俺はしばらくテレビを眺めていた。
ひまりがドライヤーにかける時間は長い。
大体10分前後はかかる。
これはひまりだけでなく、奏音もそうなのだが。
髪が長い女性は乾かすのが大変そうだな――と見る度に思う。
ドライヤーのスイッチを切ったひまりは、櫛で髪を梳きながらはぁ、とため息を吐く。
そのため息は、まるで鉛のような重たさを感じるものだった。
これは、確かに――。
「どうした?」
「えっ?」
「そんなに大きなため息を吐くようなことがあったんだろ?」
「い、いや……その……」
ひまりは嘘をつくのが下手だな、と思う。
反応がいちいち正直だ。
「……バイト先で何かあった?」
「そっ、それは――」
おもいきって切り込んでみると、ひまりはそこで露骨に目を逸らす。
やはり、とてもわかりやすいな……。
人が仕事先のことで悩む時は、業務内容より人間関係のことが多い。
だから俺はそっち方面に絞って聞いてみることにした。
「嫌がらせでも受けているとか」
「そ、それは違いますよ! みんな良い人です!」
「じゃあ何が理由だ?」
「うっ――」
ひまりは小さく呻いた後、大きく肩を落とす。
「……実は、その……バイトの先輩に告白されてしまったんです……」
「え?」
さすがにその返答は予想していないものだった。
思考が一瞬フリーズする。
でも確かに、ひまりは客観的に見て可愛い方だからな。
しかも愛想が良くて人懐こいときた。
そう考えると、ひまりが異性に好かれるのは何ら不思議ではない。
「それで浮かない顔をしているってことは、嫌な奴なのか?」
「いえ。むしろ優しくて良い人です。でも、私は――」
ひまりはそこで顔を上げ、俺の目を見つめる。
そして、沈黙。
でも、目は逸らさないままで。
ひまりの目は、僅かに潤んで揺れていた。
なぜか俺は、その目が綺麗だなと思ってしまった。
同時に、彼女の胸の内が読めてしまった。
「私は、駒村さんのことが――」
……ダメだ。
いけない。
それ以上は言うな。
俺は咄嗟に心の中で願っていた。
言葉に出してしまったら、崩れてしまう。
この生活が、この三人の関係が、間違いなく崩れてしまう。
波打ち際に作った砂の城が、ゆっくりと海水に浸食されていくように。
俺は耐え切れず、ひまりから目を逸らした。
逃げた。
それが今は正しいと思ったから。
しばしの間沈黙が続き――。
そのタイミングで、風呂場のドアが開く音がする。
奏音が風呂から出てきたのだ。
今日はシャワーだけにしたのだろうか。やけに早い気もするが、そのおかげで助かってしまった。
「ご、ごめんなさい……。あの、何でもないです……」
ひまりは立ち上がると「……絵を、描きます」と小さく呟き、逃げるように俺の部屋に行く。
安堵している自分のこの感覚が本当に正しいのか、今はわからなかった。
就寝時間になるまで、ひまりは俺の部屋から出てこなかった。
奏音に「ひまりの様子はどうだった?」と聞かれたが、俺は「確かにいつもより元気がないように見えるが、理由はわからない」とだけ答えた。
先ほどのひまりとのやり取りは、なかったことにしたかったのだ。
(――それで本当にいいのか?)
疑問が掠めていくが、それでいいのだと自分に言い聞かせた。
真っ暗な部屋。
ベッドの中で、俺は何度目になるかわからない寝返りをした。
なかなか寝付けない。
先ほどのひまりの切なそうな顔が、頭の中を過ぎっては消えていく。
ダメだ。思い出したらダメだ。
何か別のことを考えないと。
考えて、そしていつの間にか意識がなくなっているのがベストなのだが――。
『キスしたことってあるの?』
不意に、奏音の言葉が脳内でリフレインした。
なぜこのタイミングでその言葉を思い出すのか。
人の脳ってわからない。
それでも俺の記憶の回路はどんどん広がっていき――。
……確かに、したことはない。
今まで女性と付き合ったことがないから。
ないけど――。
「手は、繋いだな……」
突然、思い出した。
小学生の時に、友梨と。
それは学校からの帰り道。
寒い時期だった。
石を蹴ったり、ジャンケンで勝った時だけ数歩進める――と遊びながら帰っていると、すっかり日が暮れてしまって。
人通りが少ない暗くなった道を、二人並んで帰っていた。
さすがにここまで暗くなると、俺と友梨も「ヤバい」ということはわかってしまって。
『暗くなっちゃったね』
沈黙に耐えかねたのか、友梨がポツリと呟く。
『うん』
『お母さんに怒られちゃうかな』
『……そうだな』
『やだなぁ……怖いな……』
『……うん』
友梨の言葉につられ、俺は自分が親に怒られる姿を想像して憂鬱になった。
しばしの沈黙の後――。
『……手、冷たいね』
突然、友梨が俺の手を握ってきた。
とてもびっくりして恥ずかしかったのだが、俺はその手を振り払わなかった。
同時に、自分の胸の内にくすぐったい何かが生まれかけたけど、すぐに見ない振りをした。
友梨は怒られることが怖いという心を誤魔化したいのだ――と咄嗟に考えた。
そして、確かに俺の手は冷えていた。
友梨の手はもっと冷たかった。
だから、少しでも暖を取るためにこんなことをしたのだと考えた。
でも20年近く経った今、俺はようやく気付いた。
いや、ようやく目を逸らさずに見られるようになったと言うべきか。
あの時友梨が手を繋いできたのは、怖かったからでも寒かったからでもない。
それは理由付けでしかなくて。
きっと言い訳のようなもので。
友梨は、ただ純粋に――。
「………………」
あの日以来、友梨とは手を繋いでいないし、向こうも何も言ってこなかった。
そして、今はどう思っているのか――――って、ダメだこれ以上は。
そもそも20年近く前のことだぞ。今頃考えてどうする。
急に照れくさくなってしまった俺は、頭から布団をかぶって目を閉じた。





