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宇宙とぼくの星。

作者: 五十嵐十五 5015


 ほんの少しだけ語らせてほしい、星が視える、あいつのことを。

 もう十年くらい前になる、あいつとの出会いのことを。



 この小学校に転校してきて、一ヵ月が経った。

 転校前に不安がなかったこともないけど、でも同じ年の子どもなんてばかばっかりだ。男子は一緒になってばか騒ぎをしたり、隠れて持ってきたゲームを貸したりしてればいい。それだけですぐ輪に入れた。女子には真面目なふうにしてれば、めんどーだけどウケはいい。

 別に嫌いってわけじゃない。ばかだと思ってるけど、おれだってばかだ。

 ばかなりに周りをみて、それに必要とされる役になればいい。

 ここではおれは転校生っていうちょっと変わったやつで、でもなんでもないやつ。

 それがおれがこれまでに学んできたことだ。われながら、うまくやってるなあと感心する。

 転校生ってちょっとエンリョされやすそうだけど、浮かないようにうまく立ち回れた。自分を褒めてもいい。転校してそれからイジメられるとか、最悪だし。

 充分満ぱんっていうのは、こういうことを言うのだ。多分。

 だけど――

「おーい、宇宙(うちゅう)、いくぞ。次、理科室だろ」

「んー? あー。……そっか、そうだねー」

「ったく。……しょうがねーやつだな」

 声をかけたのはとなりの席の宇宙。そいつはぼーっとしてどこかを見ており、その方向をちらちらと見ながら気の抜けた返事をした。

 ふわっとした髪がゆれた。

『宇宙』と書いて『そら』と読むらしいけど、おれは『うちゅう』と呼んでる。それは転校初日、そう呼んでしまって、訂正されたんだけど、

「宇宙、ってヘンなの」

「違うよー。そら。ぼくはそら。宇宙って書いて、そらなんだ」

「ち、ちげーよ。わざとだよっ」

 ついつい、むきになってそう言ったけど、ほんとはふつーに間違えただけだった。

「そっかー、わざとかー」

「え、いいのか、それで……?」

 でもそいつは笑って、そんな言い訳に納得してしまった。おれだったら自分の名前を間違われたらむかつくし、なんなら自分の名前を間違われてへらへらしているそいつにちょっとむかついた。だからそれから、ちょっとばかにする意味で『うちゅう』って呼んでやんだ。

 友達もできた。

 学校にも馴染めた。

 ばかだと思うけど、みんなのことは嫌いじゃない。

 でもこいつのことは、……宇宙のことは、嫌いだ。


 *


「……」

「なんだ、帰ってたのか。お帰り。学校では友達できたのか?」

「……心配しなくても、うまくやってるよ」

「……そうか」

「……」

 だれのせいで、そんなこと心配しなきゃいけないんだよ。


 *


 宇宙のやつは、クラスで浮いていた。聞いたことないけど、ハーフってやつなんだろう。その頭は黒っぽいけど青い髪の色だ。瞳は澄んだみどりで、最初にみたときはすごいびっくりした。

 でも宇宙が浮いてるのは、そーゆー見た目からの理由じゃない。前の学校にもこんなやつ一人くらいいたけど、すっごいマイペースなやつだ。授業中も話をろくに聞かないできょろきょろしていておこられたり、給食食べてる時に話を振ってもうわの空でぽけーっとしてたり、そんなのばっかだ。

 そんなのはぜんぜんいいほうで、ときどきふらふら~っていきなり動きだしたりするし、ちゃんと前見て歩いてないのか、頭とか腕とかぶつけたりもよくしている。そんなとき、だいたい涙目で「う~!」とか言ってるんだけど。いちばんびっくりしたのは、体育の授業でマラソンしているときにトラックからはずれて行ってしまったことだった。

 周りのやつらはそんな宇宙を見て、だいたい笑っている。

 笑われて、宇宙も、笑ってる。

「えへへ~」

 照れかくしなのか、撫でるみたいにふわりとした髪を下にひっぱって目をかくす宇宙。それでもかきしきれていない目も、ぜんぜんかくれていない口も、へらへらと笑っている。新しくできた友達にそのことを言ってみると、

「変なこといっつもしてるのに、いっつもにこにこしてるよな」

 にこにこって、ふん。

 あいつは周りを見てないだけだろ。おれのことだって、みていない。

 笑ってるんじゃなくて、笑われてるんだって、気付いてないだけだ。

 だから、宇宙のことは、嫌いだ。


 *


「いただきます」

「どうだ、今日は腕によりをかけてつくったんだぞ、美味しいか」

「……うん。おいしい」

 おいしい。でも、もっとうまいハンバーグを知ってる。

「……ごちそうさまでした」

「お、おい、もういいのか」

「ごめん、お腹すいてない」

 放課後はお腹がぐうと鳴っていたのに、食べるのがめんどうだった。

 一日くらい食べなくたっていいだろ。

 なんせあの日は、もう明後日だ。

 新しい学校のことを話すんだ。きっと頭も撫でてくれる。


 *


「あーもう、トイレ掃除めんどくせー」

「てきとーに水まいて終わりにしよーぜー」

 声を上げたのは友達に同調したのは男子トイレの中。今週はトイレ掃除の当番が回ってきてしまった。くさいし、水使わなきゃでめんどうだし、トイレ掃除はいいことない。

 水で流してブラシでこするんだけど、汚れなんてぜんぜん落ちない。なんでこれ下級生はやらされないんだろうって思う。下級生のときはやらなかったんだから頑張ってって先生が言ったけど、おれは下級生のときこの学校に居ない。

 転校なんてしなきゃ、おれは。

 ……。

 ……。

「やあっ!」

「うわっ、何するんだよ!」

 いきなり目の前で、宇宙のやつが手を叩いた。猫だましって言って、前の学校で昔流行っていたのを思い出したけど、別にいい思い出でもない。かっとなって怒鳴った。

「あ、ごめん」

 驚かせてきたはずの宇宙が、おれの怒鳴り声にきょとんとした顔で首をかたむけた。なんでお前がびっくりしてるんだって聞いてやりたいけど、それよりもそれから言われたことに今度はおれがびっくりした。

「そんなこと言わないで、ちゃんとやろーよ」

「はあ?」

 思わず低い声が出たけど、こいつがこんなふうに意見を言ってくるのははじめてだった。いつもふらふらしてて、へらへらしてる。そんなイメージだったから、なんか、かちんと来た。

 周りを見てないから、空気も読めないんだな、こいつ。

 そう言ってやろうと思って口を開いて。

「真面目だな、そらはー」

「こいつすぐチクるからやっちまったほうがはやいぜ」

「じゃあお前が一番めんどくさい便器磨きだ、分かったな⁉」

「あいあいさー!」

 友達の一人がふざけて敬礼をしながら宇宙のやつに命令して、宇宙のやつは元気よく返事をしながら敬礼を返した。それから、みんなが掃除に取りかかった。

 ……なんで? そういう流れじゃなかったろ?

 なに真面目にやってんだよ、女子も先生も見てねーのに。

「ほら、いっしょにやろ?」

 宇宙が声をかけてきて、おれは、開いたまま何も言えなかった口を閉じながら、空気を読んで、仕方なく真面目に掃除をはじめた。でも、頭の中はずっともやもやしている。

 おれは、まわりをみて、頑張って、輪に入れたのに。

 なんでそんな自分勝手にやってるのに――お前は。

 宇宙のことが、もっと嫌いになった。

 でも、いいんだそんなこと。明日はいいことがあるんだ。

 そのとき、言い出しっぺの宇宙が、掃除の手を止めてこっちを見た気がした。


 *


「……え?」

「だから、明日のことなんだけどな、あいつ急用でな、どうしても来れないって、だから」

「うそだ、うそだ!」

 嘘だ!


 *


 ……。

 宇宙のやつが、またふらふらとどっかに行った。次は理科室だったけ。気付いたのは隣の席のおれだけか……まあいいや、どうでもいいし。

 ……。

 ……くそ。

「なんでお前、いつもふらふらしてるんだよ」

「……あの、授業サボっちゃ、駄目だよ?」

「えぇー……?」

 こいつだけには言われたくない、とこんなに強く思ったのははじめてだ。

 どうでもいいと思った。

 ぜんぶ、どうでもいいと思った。

 だから、ふらふらしてどっか行っちゃう宇宙を止めないで、ついてきた。

「……おまえはどうなんだよ、ここどこだと思ってるんだよ」

「うわ! どこ、ここ⁉」

「おまえ、まじで言ってるのか?」

 宇宙はおれが後ろにいることにまったく気付かず、ふらふらしながらもどんどん歩いて行ってしまって、完全に理科室からは反対の方に、いつのまにか体育館にいくときの廊下にまで来ていた。

 流石にやばいと思って声をかけたら、まさかのサボリ魔扱いだったけど、おまえが言うな。

「おれは、おまえを止めに来たんだよ」

 嘘だ。これは今考えたことだ。何も考えてなかった。あれ、もしかしてこれをサボるっていうのか?

「え、あー。……そっか、ごめんね。またやっちゃったか。うーん」

 また、目線をかくすように青黒い髪を撫で下ろす宇宙。そのエメラルドっていう宝石みたいな瞳は、どこかを見ているようで、おれの方は見ていない。

 ……。

「またって、なんだよ」

「ぼくね、星が視えるんだ」

「は? 星?」

「うん、星。いろいろあるんだけど。こーいうのだったり、こんなのだったり」

 言いながら、空中に指先で◯や☆を描いていく宇宙。おかげでそれをイメージすることはできたけど、だからこそ何言ってるのか分からなかった。

「他にも赤だったり、青だったり、いろいろ。ぷかぷか浮いてて、ゆらゆら浮いてるんだよ。だめだよなーって思ってるんだけど、ついついそれを追ってっちゃうんだー」

 まるで他人事のように言う宇宙の話を聞いていて、ばかばかしくなってくる。変なやつだと思ってたけど、ここまでだとは思ってなかった。もうこんりんざいこいつとは関わらないようにしようと密かに決めて、話を切り上げようと思った。

「……なんだそれ、サボリの口実にしちゃ、ぜんぜんだぜ」

「そうだね」

 その言葉が、声が、おだやかで、静かなその口調に、そのセリフに、ぞっとした。

「君はばかばかしいと思うだろうね。それがきっと普通だし、僕がへんなんだろうね?」

「へん、って」

 何か言いかけて、何も言えない。

 へんなやつだと思ってた。

 でも宇宙はそう思われてることを分かっていて、堂々とそう言い切った宇宙が、頭の中のこいつに対するイメージにずれが生じて、怖くなった。

 へんで、周りが見えてなくて、笑われてることに気付かないようなばかなやつ。そう思っていた宇宙が、おれが考えているよりもずっと周りを見ていることを、その一言で思い知らされた気がした。

「こんなこと話されても困るよね。でも、そんな僕に付き合せちゃったみたいだから、謝らなきゃと思って。……ごめんね」

 ごめんを繰り返す宇宙。その顔は照れかくしを交えずにこっちを真っ直ぐに見ていた。

 どこか見下していた人の、どこか大人びた一面を知って、なんか、怖くなっていたおれは、それを知られることがもっと怖くて、ごまかすように聞いた。

「そんなふうに謝るなら、なんで追っかけてるんだよ、その、……星を」

 星なんて見えるわけがないだろ。ほんとはそう言ってやりたかったけど、それを言っちゃうと普通すぎて負けた気になりそうだったから、あえて宇宙の話にのって見せた。

「キレイなんだ」

「きれい?」

 言って、宇宙は笑った。

 このときはじめて、笑った気がした。

「赤くて丸い星。青くて小さい星。黄色いぎざぎざの星。緑のはやい星。ピンクののんびりした星。凛とした白い星。曖昧な黒い星。いろいろで、いっぱいで、きらきらで、――どうしようもなくキレイで、どうしようもないくらいに、惹かれちゃうんだ」

 満面の笑みを浮かべて、自分の世界を語る宇宙。

 へんだと思われてて、それが分かってて、それでも、自信満まんに、もっとへんなことを言っている。自信満まんどころか、ちょっと誇らしそうに、愛おしそうに。

 へんだって、笑ってやるのが普通だったんだと、後で思った。

 でも、薄暗い青の髪と明るい緑の目に彩られたその笑顔が、このときのおれには、きれいに見えて仕方がなかった。それ以外に、思えなかった。

 でも、でも、でも。

 やっぱり宇宙のことは嫌いだ。

 おれを見てるはずのその目が、どこか遠くを見ているようで。

 やっぱりだれも、おれをみてくれないような気にさせたから。


 *


「はあ……着いた……」

 ひとりで電車とバスを使うのはちょっとした冒険だった。つーかもうちょっと調べてから来ればよかった。けっきょく乗るバスを間違えたりはしてないと思うけど、途中で間違えてないかすごくどきどきした。

 前の住所がうろ覚えだったのがよくなかった。

 でも、いい。

 たどりつけたんだから、いい。

 今はそんなことは、いいんだ。

 おこるかな……?

 笑ってくれるかな……?

 ……でも、いい。

 顔だけでも、見せてくれたら。

 叶うなら、また頭を撫でてくれたら。

「あ、あの……あ、あれ、あの、だれ、ですか」

「そういう君は。……そうか、目元が似てる。××の……」

「なんで、その名前」

「俺はね、あいつと一緒に住んでるんだ。君くらいの年齢なら分かるよね。あいつは、もう昔のことは忘れたいって言ってた。だから――そっとしてやってくれないかな」

 忘れたいって、そんなの、そんなの。

 父さんは急用って言ってたのに。

 だからこっちから、来たのに。

「そんな、おれは」

 顔、だけでも。

「頼むよ――もう俺たちに、あいつに構わないでくれよ。それが××のためなんだ」

 それが、―――――――――――それが、そうなら。

 おれは。

 おれは………。


 *


 ……。

 ……。

 ……。

 どうでもいい。

 もうどうでもいい。

 なにもかもどうでもいい。

 なにがどうなったっていい。

 どうでもよくないこともどうでもいい。

 うざいうざいうざいうざいうざいうざい。

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。

 うああああああああああああああああああああああああ。

 ……。

 ばかみたいでやんの。

 ばかでやんの。

 一番ばかなの、おれじゃん。

「……しんじゃえばいいのに」

 こんなおれなんか、生きててどうしろってんだよな。

 お父さん心配してるかな、そうだろうな。

 黙って来ちゃったし、もう真っ暗だし。

 変態とか出たらどうしよう。

 真っ暗な闇の中の公園。そのゾウの遊具に隠れるように体育座りをするからだが、かちかちと震えだす。それが寒さからか、怖さからなのかはわからない。凍えてしんじゃうかな。変な人に襲われてひどいことされるかな。寒いし、怖いな。

 でも、どうでもいいや。

 なんかもう、ぜんぶどうでもいいや。

「もう、いやだな……」

 座った姿勢のまま、遊具の奥の方へとずりずりと入っていく。

 それくらいで寒さが変わるわけがない。同じようにからだは震えてる。それどころか街灯の明かりも見えなくなって真っ暗さが強調されたけど、それも、もうどうでもいい。

 真っ暗だ。

 何も見えない。

 寒いなあ。

 怖いなあ。

 しんじゃえれば、いいのに。

 もう、真っ暗だもん。

「……?」

 ぽつりと、真っ暗な世界のなかに、光るものがあった。

 影よりも闇よりも深い黒のなかに、浮かんだ光があった。

 さいしょ点だった光はゆっくりと時間をかけて大きくなっていく。

 さいしょ霞のようだった光はやがてその輪郭を見せていく。

 ……天使? いや……

「宇宙……?」

 目の前に現れたのは、あの宇宙だった。

 いつものようにふらふらと軸の定まっていない足取りで、

 いつものようにゆらゆらと浮ついた視線で、

「宇宙、なんでこんなとこに……」

 おれの前に立ったそいつは、だけどいつものそいつじゃなかった。

 エメラルドのような緑の輝きが、まるで夜にのみこまれちゃったんじゃないかっていう青へと変色していた。頭と同じような色に、いやその頭はもっと変わっていた。

 宝石がちりばめられたような、夜の闇に負けない輝きを放っている。最初はそう思った。でも目を凝らせば凝らすほど、そんな言葉なんかで理解できるようなものじゃないって思った。

 目の錯覚なのだろうか、髪の毛であるはずのシルエットが液体のようにも見える。はねて、ゆれて、流れてた。その生命をもった液体のような髪の毛の中で無数の光がきらめいた。まるで宇宙の頭に、その名前のとおりのものが繋がっているようだ。

 静かに青を主張する瞳は、星空よりもはかり知れない。

 いちばん違うのは――頭にできた、いや、宇宙のやつの頭を一周する輪っかだ。

 天使や土星を連想させたそれは、目を凝らしてみると、きらきらとした小さなつぶの集まりで、ぐるぐると光りながら宇宙のやつの頭の周りをまわっている。そしてそれが放つ光が、そいつを照らしていたのだ。

 瞳の色は間違えて覚えていたって思える。不思議な髪は見間違いだと思える。でもそればっかりは発光していて宇宙のやつ自身を照らしているものだから、言い訳を考えても否定できない。

 なんでこんなことになっているのだろうか。

 宇宙は昼間に見せたあの笑顔を浮かべているだけで、何も話さない。

「なんだよ、なんか、言えよ」

 なんか言ってくれよ。

 なんでだれも、おれを。

「なにか、言えったら!」

 つかみかかろうとしたのか、突き飛ばそうとしたのか、このときのおれは人生で一番やけになっていたから、なにをしようとしたのかよく覚えていない。でもなにをしたかは分かる。おれはこのとき、宇宙へと手を伸ばしたのだ。

 その指先が、きらりひらりと光彩を放つ輪っかに触れた。

 その瞬間、おれが見ていた世界が爆発した。

 闇が吹き飛んで、光が吹き荒れた。

「――――――――――――――っ。」

 思い出したのは宇宙から聞いたばかりの、夢物語。大中小の、赤青黄の、丸四角三角の、いろとりどりで個性豊かな星たちが輝きを一面に放つ、そんな小説みたいな、ゲームみたいな、幻のような、世界。

 赤くて丸い星。

 青くて小さい星。

 黄色いぎざぎざの星。

 緑のはやい星。

 ピンクののんびりした星。

 凛とした白い星。

 曖昧な黒い星。

 色鮮やかで、――すくみそうなくらいな世界が。

 きらきらで、きれいで、魅力的な世界が、散らばっていた。

「これが――お前の見ていた景色なのか」

 そう理解するのに時間は要らなかった。きっとあの輪っかに触れたことが理由なんだろうという理解もすぐだった。なにより目の前に広がる光景が、宇宙が言っていた言葉が何一つ嘘は無かったのだと理解させてくれた。

 ごめんな、疑って。

 そう謝りたいのに、急に体がだるくなった。

 動けない、いや、動く気力がわかない。

 ああ、やだなあ。

 こんなにきれいな景色が見れたのに、もう何もしたくない。

 ふと後ろを見ると、おれの背後にも星がひとつあった。

 他のどの星と比べてもとくべつに巨大な真っ黒のその星は、闇に紛れるようにしてたけど、それがすぐに無駄だってわかるくらいにぐんぐんと大きくなっていった。ただ大きくなるだけじゃない。ばきばきと自らに無数のひびをつくりながら、その割れ目から赤い液体を漏らしながら、なお巨大化していくその黒い星は、無数に棘状の突起を伸ばしてくる。牙のようにも感じるそれらは震えるおれのからだを包んでいく。

 そうか。

 そっか。

 これは―― ……この星は、


「おかあさん……っ」


 もうずっと口にしていなかった、その言葉。抑えていた感情が、涙と一緒に吹き出していく。溢れ出して、止まらないでいる。ずっとずっと我慢していた想いが、止まらない。止められない。ぎゃあぎゃあとわめいている自分をどうしようもできない。

 なにも嘘はなかった。

 顔だけでも、見せてくれなかった。

 一番うまいハンバーグは、もう食べられない。

 つけてくれた名前も、もう呼んでくれない。

 だれのせいで?

 そんなの、なにもできなかったおれのせいだ。

 お父さんが優しいのは分かってるんだ。

 お母さんが温かいのも分かってるんだ。

 だからきっと、おれのせいなんだ。

 だからだれも、おれを見てくれないんだ。

 だから、このまま、しんじゃえばいいんだ。

 この棘に埋もれて、しんじゃえばいいんだ。


「大丈夫」


「……なんで」

 棘の内側に入ってきた宇宙が、泣き続けるおれのからだを抱きしめた。

「大丈夫、だから」

 思ったよりもずっと強い力でおれをしめつける腕が、胸をしめつける痛みを和らげる。

 思ったよりもずっと優しい体温が、冷え切った心を癒していく。

 ふるえは止まっていた。

「なんでそんなこと、言えるんだよぉ……」

 なんにも知らないくせに、

 なんにもわかんねーくせに、

「大丈夫。もう、大丈夫だよ」

「う、ぅぅ、うぅ、うううううう………!」

 なんでおまえは、おれを見てくれるんだ。

 なんでおまえが、おれを分かってくれるんだ。

 海よりも青空よりも深く澄んだ宇宙の瞳の中で、なきむしが泣いていた。

 棘が小さくなっていく。

 ひびが塞がっていく。

 赤い液体が引いていく。

 おれから出ている歪んでしまった黒い星が、ものすごい速さで小さくなっていって、そして、おれの胸の中におさまっていく。小さくなっても、棘だらけの星だった。

 宇宙はおれから腕をはなして、ちくちくと胸を刺し続けるそれをすくい上げて手で包み込もうとした。

 その手を、おれはつかんだ。

「……いいんだよ?」

 宇宙がそう声をかけるが、おれは首を振った。

「これは、おれんだから。おれの、おれだけのものだから。……おれがずっと、持ってるから」

「……そうだね、はい」

 宇宙は微笑むと、ぱっとその手を放した。とげとげの星は、おれのほうへとふわふわと漂ってきて、それを慌てて受け止めて、ちくりとしたその痛みにまた涙が出そうになる。でも、我慢してそれを胸の中に押し込んでいく。見えなくなるまでそれを胸の奥に沈めた。

 その瞬間、いくつもの光線がおれの体から飛んでいった。

 色とりどりのきらめくそれらは空の彼方や大地や果てしない遠くまで飛んで行って、一瞬で消えてしまった。でもその一瞬で光線たちは、浮かんでいる星たちと重なり合って混ざり合って触れ合って、この世の何よりも輝いていた。

 それで、終わり。

 もう星は見えなくなって、光っているのは宇宙の輪っかだけになった。

「偉いね」

 宇宙がおれの頭に手を乗せて、髪の毛をぐしゃぐしゃにする。

 やっぱり、お前なんか嫌いだ。

 お前が来てくれたから、しにたくなんかなくなっちゃった。

 またあの景色を、見てみたいと思っちゃったから。




 これが俺とあいつとの出会いの話。

 真っ暗で真っ黒な子どもの世界に、極彩色の光が飛び込んだという話。

 詳細は省略するが、そのときのことをあいつは覚えていない。

 だから俺もあの夜のことが幻だったのではないかとごくごくたまに不安になる。

 それでも、美しいものがいっぱいあることを、あの夜に俺は知った。

 だからもっと見たくて、あいつの見ている世界を俺も見たくて、あいつと一緒に見たくて。

「おい行くぞ。次の授業もう単位落とせねーんだろ。――宇宙(そら)

 呼びかけに、ふわりと柔く軽い暗い青を揺らす。

「んー? あー。……そっか、そうだねー」

 また今日も、気の抜けた返事が返ってきた。



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