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私が消えた一日  作者: ぺる
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進藤信義の場合

「おはようございます」


ざぁざぁと降りしきる雨から逃げるように駅の改札口に駆け込む乗客に、駅員の進藤信義しんどうのぶよしはいつもと変わらない挨拶を駅員室から送っていた。


垂れた瞳が柔らかい印象を与える信義は、現在四十五歳。シワの垂れた表情からも穏便な性格が見えかくれしているその身は、着古された駅員の制服に包まれている。黒く短い髪は耳より上できられ、身なりはきちんとされていたが、改札を抜けていく乗客の誰も、彼の姿をきちんと見ることはない。


現在時刻は7時半。この駅を使う通勤通学者がもっとも多い時間だ。


大抵の人間は信義の挨拶など気にも止めずに、ホームに入っていく電車に駆け込むように走っていく。それを当たり前のように、信義も返事の帰ってこない挨拶を繰り返していた。


駅のホームには人が溢れ、中には駆け込み乗車をするものも多い。慌ただしく電車が来た数分間は過ぎ去り、嘘のようにホームには人がいなくなる。


いつもと変わらない光景。


しかし今回は、改札口にひとつの異変がそこにいた。


うるさい雨の中を傘も指さずに歩いていたのだろう。ずぶ濡れで改札を通ろうとしている女子高生の姿に、信義は驚きを隠せずにいた。


この辺りでは見かけない制服に身を包む少女。しかしそれは肌にぴったりと張り付き、下着も透けてしまっている。もはや衣服としての機能を半分以上落としてしまっていたのだ。


「ちょっと待ってください」


"その服のまま電車に乗られては迷惑だ"、という駅員としての考えよりも"年頃の娘がそんな姿をさらしてはいけない"という信義個人の感情からか、駅員室を通りすぎようとした少女を反射的に呼び止めてしまった。


呼び掛けられた少女は改札で一度立ち止まると、不思議げに駅員室に視線を向けた。


濡れたせいか、恐らく普段から白い肌は血の気が引いて土気色をしており、目はどこか虚ろげな彼女は、誰がみてと異質に見えただろう。


しかし信義はそれを異質とみる前にも、単に少女を心配していた。そんな顔色ではすぐに風邪を引いてしまう、という心配からか少女が立ち止まっている隙に駅員室から出てきた信義の手には真っ白なタオルが握ぎっている。


「これをどうぞ。傘を忘れられたのですか。その格好では風邪を引いてしまいます」


優しげな声でタオルを差し出すと、少女は驚いたようにキョトンと、信義とタオルを交互に視線をつける。そのあどけない仕草が年相応で可愛らしく、同じ年頃の娘を持つ信義は思わず笑みをこぼさずにはいられなかった。


「...ありがとうございます」


黒い大きな瞳をさらに丸くさせながら、少女はそのタオルを受けとるとそれを髪に当てた。


信義は駅員のため、他の業務もある。少女にあまり時間を割けられないもどかしさもあったが、しばらくはそうして水気を拭き取っている少女の姿をみて、一旦は駅員室へと下がる。そしてまた変わらず挨拶を送っていた。


それから数分後のこと。少しは水気がましになった少女が、駅員室前へ顔を出してきた。


「あの、このタオルいただいてもいいですか。定期を忘れてしまって。家はすぐそこなので、それまでの雨凌ぎにしたいんです。」


小さな声で聞いてきた唇は、先程よりは血が通って赤間を帯びている。それに少し安心する信義だったが、まだざぁざぁと音をたてている雨の中をタオル一枚で帰ると言い出したときには、また要らぬ心配が沸き上がってくる。


タオルをください、というのも恐らくは濡れたタオルをそのまま返すのが忍びなかったからからだろうと勘ぐると信義は先程と変わらぬ笑みを浮かべた。


「それなら駅員が使っている傘をお貸ししますよ。また濡れてしまっては風邪を引きますから」


本来なら乗客にここまではしないのであるが、彼女は定期を忘れてしまったといっていたから、またここに戻ってくるのだろう。それに年頃の少女を濡れるとわかっていて雨の中に放り出すのも心苦しいものがある。信義は優しい声で提案するも、少女は首を横へと降った。


「大丈夫です。タオルで十分ですから」


弱々しく、思い詰めた声にこれ以上踏み込めなかった信義は仕方がないと諦めて、にこりと笑った。


「そうですか。それでしたらそのタオルはお渡しいたしますね」


「ありがとうございます」


少女は一度深々と頭を下げるとタオルを大事そうに抱えて駅から出ていってしまった。


雨に打たれる少女の後ろ姿が消えた頃には、信義は小さなため息をついていた。


(本当に大丈夫だろうか)


不安はあったが、信義にはどうすることもできない。できることは、普段と変わらぬ業務を行うことのみである。


気を取り直して信義は挨拶を続け、改札を通る乗客を見守っていた。なかには学生も多く、友人と話ながら信義の前を通っていった。


しかしそこで、あることにがついた。


先程の少女が、通学鞄らしきものを持っていなかったのだ。びしょ濡れの印象が強すぎてそこまで目が回らなかったことに、若干の歳を感じてしまった信義だったが、やはり彼女は少し変わった素振りを見せていたことには変わりない。


また戻ってきたときには鞄を持っているだろう。いい加減仕事に集中しなければ。


信義は自身に渇を入れ、いつにもまして業務に集中するすることにした。


そのお陰か、あっという間に一日は過ぎ少女の子とは気にならなくなった。気にならなかったというよりは、あの少女はあの時を最後に一度も駅に現れなかったのだ。


それを不思議に思ったのは、日が沈みかけた帰り際のことだったが、もう気にしたところで時すでに遅しだ。


(結局あの子は学校で休んだのかもな)


お年頃ということもあり、サボり等というやんちゃなこともしたくなるだろう。自己完結でこの話を終わらせた信義は、いつもと変わらない帰宅路を歩いていた。


車と人の通りが多い、赤い夕日に彩られた大通りを歩いているが、今日はいつにもまして混んでいた。車は渋滞し、人でごったがえている。


いったいなんの騒ぎか...辺りを見渡すと、その理由はすぐに見つけることができた。


いつも通っている歩道橋に、ブルーシートが被せられ、刑事ドラマの定番である立ち入り禁止の黄色いテープか貼られているのが目に入った。恐らく事故かなにかだろうか。あまりこういうことに首を突っ込みたくなかった信義は、気にすることなくまだ閉鎖されていない歩道橋下の道を歩いていく。


この人混みは恐らく野次馬だろう。ただ純粋に帰りたい信義にとっては迷惑きわまりない行為だったが、がやがやと聞こえてきた野次馬の声がふと耳に入ってきた。


"傘もささずにずぶ濡れで飛び降りたらしいわよ。"

"制服着てるのにタオル一枚しか持ってなかったって、回りも変だとは思わなかったのかしら"


恐らく買い物帰りの主婦たちの会話であろうそれが耳にはいるなり、信義は自分の血が一気に引いていくのを感じた。


信義の頭のなかでは、今日あったばかりのあの少女の姿が繊細に写し出されていた。


まさか、そんなことはない。

ただの偶然にすぎない。

そう思いたい一心で信義の足は逃げるように速度をあげていた。


信義はあの少女と関わりがあるわけではない。


しかし誰とも知らない赤の他人の死が、顔見知りの死と分かった瞬間のなんとも言えない絶望感は、親しい関係ではない信義にも訪れていた。


事故なのか、自殺なのか。

少なくとも正しい情報が出るのは明日くらいだろう。ただ野次馬の会話だけを鵜呑みにするのもよくない。


信義はただ、祈っていた。


明日彼女が駅に来てくれることを。

またあのあどけない顔で笑っている姿を。

生きていることを。


若い命か消えていないことを祈りながら、信義は帰宅した。


しかしそんな信義の願いも空しく、次の日の朝に地方ニュースにて、あの少女...天川千怜の死を知ることとなるのだ。

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