春木零下の場合
明かりのついた、誰もいない教室。
春木零下は、暗い雨など気にすることなく意気揚々と教室へと入ってきた。
まだ通学生の少ない時間に早く学校に来たわけだが、その目的は文学や部活動に励みに来たわけでもない。その理由は、学生として..いや、人として真っ当とは言えないものだ。
「今日の日直は...あぁ、林道さんか。あの子気弱だからなぁ。大したことやってなさそう」
零下は必ずといっていいほど、日直の次に登校し、まず日直を確認してからとある生徒の机を確認する。
それが零下の日課であり、趣味だ。ストレス発散とでも本人は思っているが、あまりにも悪趣味な日課。
零下はクラス全員を使って天川千怜を虐めていた。
元々容姿もよく、人を惹き付けるカリスマ性を持っていた零下は所謂スクールカーストの頂点に君臨している。
もとは黒だった髪は茶に染まり、緩くパーマをかけたロングヘアは小顔の零下にはよく似合っており、読者モデルを勤めるほどだ。
そんな彼女だからこそ当たり前のように人が寄ってきては、彼女の回りに集まっていた。それが彼女にとって当たり前であり、日常なのだ。
しかし、そんな彼女の日常が通じない相手がやって来た。
転入生、天川千怜の存在だ。
同族嫌悪というやつか、転校生紹介で初めて彼女を見た零下の印象は、気が合わないだろう、というあまりよくないものだった。
その真っ黒な髪も、少しつり目の顔も。なんとなくだが近寄りがたい空気を醸し出していたことは今も繊細に思い出せる。
しかし零下は性根は歪んでいるが、決して性格が悪いわけではない。表面上でも、必要とあれば嫌いなものとでもある程度のコミュニティを築くことはできた。最初から決めつけて嫌うほどの子供ではなかったのだ。
だからこそ、彼女が転入してしばらくは、何事もなく過ごしていた。
そんなとき、事件は起こった。
美術工作の時間に、千怜が色水の入った容器をひっくり返してしまったのだ。単に手が滑っただけだが、そのときに零下の靴も飛んできた色水で汚してしまった。
さすがの零下も、靴を汚されて笑顔でいるほど寛大な心の持ち主ではない。
慌てた素振りで謝ってくれたら許したかもしれないが、千怜は淡々と謝罪したのみであった。
まるで赤の他人にぶつかって謝るような、そっけない態度。
それは彼女が零下を慕っていなかった現れであったが、零下がそれをよしとはしなかった。
当たり前のように尊敬されていた零下にとって、自分を尊敬しないどころか、同格にさえみない千怜の態度は彼女の自尊心を傷つける結果となったのだ。
その日の放課後から、零下の取り巻きによる千怜への虐めが始まった。
机に書かれた誹謗中傷。物が消えたり、酷いときは机の上に虫の死骸を置いたりなどそれは日に日にエスカレートしていく。それを見て止めるものはおらず、我が身可愛さに皆千怜を遠ざけた。
というのも、零下の虐めは千怜が初めてではない。千怜が来るまでは別のクラスメートがその対象となっていた。単にターゲットが変わっただけだが、リアクションが変わってみていて面白くなるだろう、というのが零下の素直な感想だ。
しかしそんな思惑とは裏腹に、エスカレートしていく嫌がらせを目撃しても、零下はいつも冷静に対処していった。
いつもクールに、何をやっているんだと見下されたような視線は、さらに零下の逆燐に触れてしまう。
取り巻きを使った嫌がらせも、さすがに一ヶ月もすれば手口がなくなってくる。そこで考えたのは、零下やその取り巻き以外も巻き込んだ嫌がらせだ。
千怜が帰ったあとに、あらかじめSNSで呼び出しておいたクラスメート全員に、零下は日直になったものが嫌がらせをするという絶対命令を下した。
勿論、嫌がる素振りを見せたものが大半だったが"逆らったら次は自分"という圧力から、皆従わざるを得なかった。
そして今日、零下は日直が林道梨花子であることを確認してから、千怜の机に向かったが、気弱な梨花子らしく嫌がらせはカッターで机を切りつける程度のものだ。勿論、それでも梨花子にとっては精一杯の行為らしく、現に彼女は罪の意識からこの場にはすでにいない。
しかし、零下を満足させるには至らなかった。
もちろんそれも想定していた零下は、最近乗り気ではないクラスメートの見せしめのために梨花子をつるし上げることにしていた。
「ほんと、教室にいないことまで予想通りでかえってつまんないなぁ」
明るい声で一人呟くと、零下は鞄から木工ボンドを取り出した。授業でもよく使う、白く重いボンド。業務用の詰め替えを買ってきていたため、それはビニールに包まれていた。
ビニールの封を切り、中身をすべて千怜の机にぶちまける。机はたちまち白く汚れ、机としての意味をなしていなかった。
こんな派手なことをしても、教員たちは止めることはない。クラス全員が共犯となったいまでは、教員たちも止める手段がなくなっている。だからこそこの悪質な虐めは数ヵ月も続いていたのだ。
後は、皆が登校してくるのを待つだけ。
血の気の引く梨花子も、汚れた机で授業を受ける千怜の姿も、想像しただけで高揚感に包まれる。
零下は、早くそのときが来ないか心待ちにしながら自身の机に向かった。
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案の定、林道梨花子の反応は想像していた通りだった。少し違うとすれば、真面目な彼女にしては珍しく授業を休んだことだろうか。
しかしそれもそれで面白い。予想外の反応というものは退屈をしのいでくれる。零下はこの結果は満足のいくものだった。個人的な恨みもない林道にはこれ以上なにか嫌がらせをしようなどとは思っていないが、何かされるかもしれないという恐怖心を植え付けられたため、見せしめとしても成功していた。
後は千怜の反応のみ。
いつもはもう少し早く登校してくるはずの彼女だったが、今日はまだ姿を見せない。
これではせっかく用意したボンドが乾いてしまうが、乾いたら乾いたでとれなくなるのでそれはそれである。
しばらく待ったが彼女は現れず、零下は舌打ちした。
「なにあいつ、バックレやがったわけ?」
登校拒否など既にしても問題ないくらいにはエスカレートしていた虐めだが、千怜が学校を休んだことは一度もない。
だからこそ、今日も登校してくると確信していた零下にとってはとんだ裏切り行為だ。苛立ちを露にする零下を取り巻きたちが宥めていると担任が教室へと入ってきた。
慌ただしく皆が着席すると、男の教員は一度千怜の汚れた机を見たが、それにたいしてなにかいうまでもなく出席簿を取り出した。
「出席をとるぞ。天川は遅刻だそうだ。登校してきたら職員室に来るように誰か伝えといてくれ」
とだけ触れると、いつもと変わらず出席確認をとる教員。
これももはや、当たり前の光景となっていた。違うと言えば、今日は一人休みの人がいたことくらいだが、そんなもの取るに足らない変化だった。
担任は出席と連絡をするとさっさと出ていき、皆一限目の準備を始めた。
「あいつ遅刻かよ。」
「あれかな、腹でも壊したんじゃない。漏らして学校行けませーん、とか?」
けらけらと下品に笑う声に混じり、零下も笑う。
朝から来ないことには不満があるが、こうして話のネタにできる。来なかった分は、あとできっちり示しをつければ其れでいいだろう。
早く来ないか待ち遠しく思いながら授業を受ける。
...しかし一限が終わり二限に入ろうが千怜は現れなかった。ついには二限目にも姿を現さず零下はいっそう苛立っていた。
「ちょっ、零下!これやばいよっ」
それは二限の休み時間でのこと。零下の苛立ちを沈めるため、ネットでなにかネタがないか探していた取り巻きの一人が、携帯端末を零下に指しだした。その表情は真っ青で、声も上ずっている。
ただ事ではないその雰囲気に、零下は端末を覗き込む。画面はSNSのホーム画面を開いていた。
最近の若者の間では、150文字の小さな文字数で世界中の人間とやり取りするSNSが流行っていた。
不特定多数の人間と早く情報交換ができ、交友の幅も広がると零下もやっている。
「はぁっ、なによこれ!?」
そのSNSのとある人物の呟きが目にはいる。
【私は今日、自殺します。この呟きは死ぬ直後に残したものです。私を死に追いやったすべての人が憎いです。その証拠を、ここに記しています。裁きが下されることを願い、ここにお願いします。無念を晴らしてください。さようなら】
そうして書かれた呟きの下にはURLと写真が記載されている。
写真は投稿者の制服らしく、泥だらけのそれが脱ぎ捨てられた光景が写し出されていた。
その制服は、紛れもなく零下達が来ているものと同じである。途端に血の気が引くのを感じ、URLを震える指でクリックするととある人物のブログページに飛ばされた。
ブログはついさっき一斉公開されたもので、そこには生々しい虐めの惨状が写し出されている。
投稿者の名前も書かれていないものだったが、零下たちはすぐにそれが誰のブログか判断できた。
天川千怜のものだと。
写し出された写真のどれもが、自分達でやったことだったのだ。当事者達が知らぬわけがない。
「自殺するって、なに言ってるの。そんな度胸あるようなやつじゃ...」
不安からこぼれた零下の言葉は、慌ただしく開かれた扉の音によって遮られた。
その場にいた全員が音のした方へ視線を向けると、顔を真っ青にした担任がいた。
「今から自習だ!生徒は教室から出ないように!」
それだけを早口に伝えると、担任はまた慌ただしく教室をさっていった。
普通ではない教員の態度。自殺する、とネットに書き込んだクラスメート。そしていまだ、その姿を誰も見ていない...。
まさか本当に死んだのではないか。零下の頭にそれが浮かぶと、途端に絶望に襲われる。それは罪悪感というものではなく、自分が犯罪者にされてしまうかもしれないという恐怖から来るものだ。
「零下、まじでやばいよっ。どんどん拡散されてる」
SNSでは他人の呟きを自分のホームに紹介する機能がある。それを拡散、と皆が呼んでいるがそれが先程の千怜と思われる人物の呟きに反映されていた。
瞬く間に数字が増えていき、今現在でもそれが続いている。
拡散されるということはつまり、より多くの人間にこの呟きが目に入るということを意味している。
そしてネットとは怖いもので、不特定多数の【匿名】で書き込みができるのだ。つまりは、自分の呟き、発言に面と向かって責任を追わなくていいということ。
誰しもが、軽はずみな発言ができてしまうのだ。
"この制服○○女子高のだ。妹が通ってる。"
"写真から投稿者の住所特定。その家の子高2だって"
"私の友達この高校だよ!隣のクラスでひどい虐めがあっていきたくないっていってた!"
次々と寄せられてくる情報から、投稿者の特定がなされていく。投稿者、つまり千怜の事がわかれば零下たちにも自ずと繋がっていく。
芋づる式に繋がる連鎖は、もはや人権などなにもない。ネットで敵を作るとは即ち、不特定多数の敵を作るのと同義。そしてネットの質が悪いところは真偽のほどを確かめる手段が少ないことだ。
「職員室見てきたけど、電話なりっぱなしだよ。抗議の電話っぽい」
自習と聞いて様子を見に行っていた取り巻きが戻ってきた。しかしそこから聞けたことは、今目の前の液晶端末に写っていることが紛れもなく現実だということだけだった。
"虐めのあったクラスって2-3だよね。"
"2-3って確か読モの子がいるよね。可愛いって人気だったのに裏ではこんなことやってんだ"
"先生見て見ぬふり。腐ってるね"
"モデルって春木零下じゃん。私こいつに彼氏寝取られた。めちゃくちゃ性格悪いよ"
次第に零下たちの事が明るみに出ると、今度はあることないことを呟き始められる。
ネットで自身の無実を証明するのは難しい。現に虐めていたのは事実なのだ。誰も零下たちの言葉など信じない。
「天川の奴っ、とんでもないことしてくれたわねっ」
これをどう対処していいのか。さすがの零下もそんなものわかるわけがない。SNSでは現在進行形で零下たちのことが晒され、誹謗中傷が飛び交っていた。
「私帰るっ!!警察に訴えてやる。こんな写真、いくらでも捏造できるし、証拠になんてならないわよっ!!」
零下は鞄を引ったくると走るようにして教室を飛び出した。
しかし、その日を最後に零下は学校に来る事はなかった。
そう、この日を最後に零下の狂った日常は終わりを迎えたのだった。