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頭ではわかってる。わたしがショックを受ける筋合いなんかないっていうのは。でも心は素直に従ってはくれないみたい。ただのクラスメートでしかないっていう事実を改めて突き付けられて、刃物で刺されたみたいにグサリときてしまうんだから。
もうこれで完全に諦めが付いたでしょ。いい加減にしなよ。
そうやって自分に言い聞かせて、わたしは無理やり涙を引っ込めた。
瞼がとても重たく感じる。結構泣いたから、きっと目が腫れてちゃってるんだろうな。確認のためとぼとぼ洗面台に向かったけれど、鏡を見てすぐさま項垂れた。そっぽを向いて気まずそうにしているクリスの姿が写ったからだ。
別に彼のことを忘れていた訳じゃないけど、さっきのは我慢できなかった。でもいざ鏡で存在を確認してしまうと、羞恥が込み上げる。
この現象、わたしにとっても彼にとっても、色々な意味で本当によくない。早く何とかしないとって気持ちが余計に強くなる。そして願わくば、今の出来事について彼が何も言いませんように、と心の中で願ってトイレを後にした。
だけど……
『あの、もし気分が悪いようだったら、今日の病院行きは見送ってくれて構わないんだが……』
数歩歩いたところで、こんな風に遠慮がちに言うものだから、頬がカッと熱くなった。
彼はどうやら見て見ぬ振りが出来ない性質のようだ。この気まずい状況を何とかしようとしてくれたのだろうが、そんな気遣いも荒れた心境の中にいる今は鬱陶しいと思ってしまう。
わたしは硬い口調で呟いた。
「大丈夫です。病院には行きますから」
『……そうか。それなら助かる』
「いえ……」
『……あの、今望みが薄いとしても、日々の積み重ねと努力であいつの気持ちも変わるかもしれない。だからそんなに落ち込まなくても……』
……今なら顔から火が出せそう。ああーもう! これは完全に分かっちゃってるよね……。わたしがセオのことを好きだってこと。
彼にしてみればこんな場面に居合わせてしまったのは不可抗力でしかない。それでもこの件について触れてほしくはなかった。知られたくなかったことも知られてしまったせいで、苛立ちが湧き上がる。
「ついこの間振られたばっかりなんです。それと、もうこの話はお終いにしましょう。忘れたいんです」
『あ、うん……。えーと、そうだ、忘れたいなら新しい恋が一番かもな。意外とデリックなんかが上手くいくかもしれないぞ……?』
これには心が大いにささくれだった。どうしてそっとしておいてくれないんだろう。しかもよりによってデリックの名前を出すなんて。
「やめてくださいよ。気持ちってそんなにすぐ切り替わるものじゃないんです……。クリスは失恋したことないんですか?」
『ない』
そうだった。この人ナルシストだった。
「今まで自分以上に好きになった人がいないとかですか」
『そうかもしれない』
皮肉を込めて聞いてみれば、生真面目な答えが返ってきてわたしはすぐさま後悔した。
自分より大変な状況に陥っている人に八つ当たりするなんて、何考えてるんだろう。失恋と幽体離脱じゃ、後者の方が断然重症だ。
半分死にかけ。下手したらずっとこのまま。そうしたらクリスは、恋もこの先起こる全ての素晴らしい出来事も経験できずに、他人の人生を眺めるだけで終わることになってしまうのだ。想像しただけでも苦しく辛い状況だ。
現時点では解決方法なんて分からない。見当もつかない。この先一体どうすれば……。
いつの間にか頭の中は、セオのことからクリスのことで頭がいっぱいになっていた。しかも考えれば考える程憂鬱な気分になってきて、思わず頭を押さえて「ああっ」と呻く始末である。
『考えるな』
「え?」
『憂鬱な時に深い思考に耽るのはよくない。どうせ考えるなら僕を元に戻す方法を考えてくれ』
いや、今まさにそのことで苦悩していたんですが……。
チャームを見ると、彼は困ったように眉を下げてわたしを見ていた。
今のも彼なりの気遣いかな。多分話題を逸らそうとしてくれたんだよね。逃れられない立場にいる彼はつくづく大変だなあ、と申し訳なく思う。
「うん。でもそれはドリューの助言待ちかな。今考えても多分、ろくな事思い付かないと思うから」
なるべく深刻に聞こえないよう、力なく笑う。でも事実だ。今の時点じゃ何にもわからないんだもん。
『じゃ、明日の天気の事でも考えるといい』
「いきなり適当になりましたね」
『今はそれでいいだろ』
「……うん」
面倒くさくなったのか、クリスの声は何となく投げやりだ。でもかえってそういう態度の方がありがたかった。軽く流されるとこっちも深刻にならずにいられる。本当はそれじゃいけないんだろうけど、今は、今だけは許してほしい。
「えーと、あの、ありがとう……」
『いや……。ああ、そういえば』
「え?」
『誕生日まで一緒だったとはな。凄い偶然だ』
「そうですね。散々な誕生日だったけど」
『全くだ』
苦笑して言えば笑い含みの声が返ってきて、わたしの心は少しだけ軽くなった。
一通り見学が終わると、わたしたちは応接間に通された。管理人さんの最後のお話しでも聞けるのかと思って行ってみれば、それだけじゃなくお茶とイチゴのチーズタルトが用意されていたのだ。
何とお茶は王室ご用達のものらしい。しかし残念なことに、わたしは常日頃からお茶を飲む人間ではないので、普通のお茶との違いがよくわからなかった。香りはいいかな、ってぐらいだ。
お次はタルト。これは見ただけで、絶対美味しいって確信できちゃう見た目をしていた。
タルトの上にふんだんに敷き詰められたイチゴ。その上には真っ赤なイチゴのソース。トッピングには大粒イチゴとブルーベリー。飾りとしてセルフィーユの葉が添えられてる。
ワクワクしながら一口食べると、果実とソースの甘酸っぱい風味が口いっぱいに広がった。タルト生地はしっとりサクサク。中身はとってもふんわりしていて口の中でとろける感触。イチゴの甘酸っぱさのお陰で、あっさりとした味わいだ。これならもう一切れだって食べれちゃいそう。
このタルト、作ったのは別荘のシェフさんだとか。こんなものを毎日食べられるなんて羨ましい……。だってきっと自宅にだってお抱えシェフさんとかいるんだよね? 現代貴族って一体どんな生活してるんだろう。あー、聞いてみたい!
文句なしに美味しいタルトおかげで、どん底だった気分が回復、ううん、それどころか急上昇だ。
最後に聞けた管理人さんのお話も面白かったし、もう最高!
落ち込む出来事はあったけれど、マリナステラの見学はそれを補って余りある程の素晴らしい経験となったのだった。