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ギョッとした次の瞬間、アレクシアさんはドアの取っ手を掴んでいた。だけどドアは開かず、びくともしない。どんなに力をいれようが、開錠魔法を唱えようとも、うんともすんとも言わないのだ。
おお、凄い! 印刷でも効果あるんだ。なんて呑気に感心していたら、今度はアレクシアさんの右手に炎が灯る。
もしかして書類を燃やす気!? わたしは流石に慌てて彼女の右手に縋り付いた。
「やめてください! 今クリスさんを元に戻すために準備をしている所なんです!」
「離しなさい! 危ないでしょう!?」
「駄目です! 今は一刻の猶予もならないんです! ちょっとでも遅れたらクリスさんが危ないんですよ!」
「……そう、わかったわ」
必至の訴えが功を奏したのか、アレクシアさんの動きが止まり手から力が抜けた。
よかった、分かってくれたんだ……。
ほっとして手を離すと、アレクシアさんが右手をわずかに振った。すると手の中に短鞭が現れ、わたしに向けていた目をすっと細めた。ひやり、とその場の気温が一気に下がったような気がした。
「あなたもトリスメギストスの手先なのね」
「えっ!?」
手先って何。というか、鞭から電のようなものが迸ってるんですが……。どんな人間であれ、人に対して魔法で攻撃することはできないはずだ。これは一体……。
「これはね、護身用品なのよ。どんな強者だろうと、一撃で動けなくなるわ」
わたしの疑問に答えるように、アレクシアさんが冷たい声音で言い放つ。
なるほど。魔石充填タイプだったら自分の魔力じゃないから制約もかからないもんね。……って感心している場合じゃない! この人やる気だ。目が本気だ……。
「何であろうと私の邪魔をしようとするのならば容赦はしません。息子を護るためならば、私はどんなことだってします」
「ち、違います、誤解です! わたしたちは別にトリスメギストス様の手先なんかじゃなくって……」
「お黙りなさい! 言葉で言いくるめるつもりでしょうが、そうはいきませんよ」
鞭が鼻先に突き付けられる。わたしは目を白黒させながら、ドアを背にしてへばりついた。
「さあ、痛い思いをしたくなければそこをお退きなさい」
怖い。目の前の鞭はバチバチと青白い光を放っているし、アレクシアさんの静かな怒りは背筋が凍るようだ。でも今ここを退くわけにはいかなかった。
「……駄目です」
それだけ言ってわたしは目を瞑った。興奮状態の人に何を言っても無駄、むしろ逆効果だ。ならこうして黙って耐えるしかない。
「そう。なら仕方ないわね」
空気が動く気配がする。アレクシアさんが右腕を振り上げたんだ。わたしはぎゅっと身を固くして、襲い来るであろう衝撃に備えた。
「やめなさいアレクシア!」
聞こえてきたのは、鞭の打撃音ではなく深みのある男性の声。予想していた痛みも訪れない。目を開けると、身なりのいい紳士がアレクシアさんの右腕を掴んでいた。
ブラウンの頭髪にクリスとよく似た紫色の眼。その姿は新聞や雑誌で何度か見かけたことがある。ルーンデイル公爵だ。
「ハロルド、手を離して! あの男が賢者の権限を持ち出して、またあの子におかしなことをしようとしているのよ! 早く止めないと!」
その言葉で何故アレクシアさんがここまで怒るのか、何となく事情を察した。そういえばクリスも言ってたっけ。こっちの都合も考えずに押しかけてくるとかなんとか。国で一番の権限を持った人に好き勝手されたら、そりゃ心配になっちゃうよね……。
「このことに西の賢者殿は関わっていないよ」
眉を顰めて書類に目を通していた公爵様が、表情を和らげて言った。
「どうしてそんなことが言い切れるの!?」
「落ち着いてよく見なさい。これは印刷だろう。発行者だって北の賢者殿のサインだ」
「………………あら……」
さっきの激怒っぷりは何だったんだろうってくらいにアレクシアさんは大人しくなり、ばつが悪そうに顔を伏せた。
た、助かった……。やっぱり身内の言葉は違うね。すんなりと聞き入れてくれるんだもん。何はともあれ落ち着いてくれてよかった。
「お嬢さん、怖い思いをさせて済まなかったね」
「本当にごめんなさい」
「いえ、そんな……。こういう状況なら仕方がないです」
「それで責任者の方には会えるのかな?」
「ええ、今聞いてみますね」
インターフォンを押して、公爵夫妻の訪れを告げる。入っておいで、と先生の声がインターフォン越しに響くと、ドアが自動的に開いた。
部屋の様子は先程とは少し違っていた。ソファとテーブルがある応接エリアとベッドが置かれているエリアが、立ち入り禁止と書かれたパーテーションで区切られていて見えないようになっている。
「お坐りください」
応接エリアまでくると、姿もないのに先生の声が間近で聞こえた。見ればテーブルの中央には、遠隔拡声の魔方陣が青白い光を放って浮かんでいる。
「施術担当のベネディクト・バージェスです。今手が離せないのでね、声だけで失礼しますぞ。ああ、クリスもお坐り」
何となく身の置き場がなくて隅っこで突っ立っていたけれど、そう言われたら座らないわけにもいかない。わたしは公爵夫妻の視界に収まりにくい位置を選んで腰かけた。この後に起こる展開が予想できるだけに、彼らの視線を真っ向から受け止めるのは遠慮したかったのだ。主にアレクシアさんの、だけど。
やがてバージェス先生の説明が始まると、わたしの予想は悲しいかな的中した。
始終神妙な顔つきの公爵様に比べ、アレクシアさんの変わりようといったらそれはもう怖かった。怪訝そうな顔つきが、一分も経たないうちに怒りの形相へと変化したのだ。
ああ、やっぱりなあ。だってクリス情報によると、彼女は魂とかそういう話題が大嫌いだって話だったしね。これもトリスメギストス様の影響なのかなあ。ああ、憧れの人のイメージがどんどん崩れていく……。
そして説明が終わる頃には、アレクシアさんはさっきと同じ剣幕で声を荒らげていた。
「……魂ですって? 馬鹿馬鹿しい。この怪しさ、トリスメギストスと変わらないではありませんか!」
「馬鹿馬鹿しい事ではありませんよ。本来魔法と魂は深い関係にあるものです。時代が変わり、そういった情報は秘匿されるようになりましたがな。はっきり言いますが、今日を逃したら息子さんは二度と目覚めない。それでも拒むと言うのですかな?」
「アレクシア、原因不明で治療法も分からないんだ。これでクリスが助かるというのなら、私は是非とも彼らにお願いしたいと思っているよ。しかも北の賢者のお墨付きだ。怪しむ必要はないと思うが」
「…………わかりました。ただし、私たちも立ち会うことが条件です」
「それは許可できませんな」
「何故です! 私は親ですよ!」
「危険だからです。その場に当事者以外の者が居たら巻き込まれる危険性がある。時間になったら皆部屋から出て頂きます」
「分かりました。そういうことなら仕方ありませんね。だろう? アレクシア」
アレクシアさんはムスッとしていて何も答えない。けれど再度公爵さまに促されると、観念したように溜息を吐き渋々と頷いた。
わたしはほっと胸を撫で下ろした。だってアレクシアさんの目に晒されながら処置するのはきついものがある。勿論他の人に見られるのも嫌だけど、ご両親はその比じゃないもの。
「ご理解いただけたようで何より。ではまた後ほど。クリスはこの場から離れてはいけないよ。いいね?」
「はい……」
魔方陣が色を失い、黒色に変化する。その場に気まずい沈黙が落とされた。
どうしよう。公爵夫妻はその場を動こうとしないし、わたしはここに留まれって言われたし。うう、居たたまれない。何か話した方がいいかな。でもアレクシアさんはピリピリしているし、声を掛けづらいや……。
逡巡していると、公爵さまがおもむろに手を降った。何なんだろうと思ったのも束の間、お茶の入ったティーカップがそれぞれの目の前に置かれて、公爵さまがにこやかに笑った。
「さあ、お茶をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「このまま待っているのも退屈だからね、話でもしながら気を紛らわそうか」
「はい!」
有難い提案に、わたしは一に二もなく頷いた。公爵さまが優しい人で良かった……!
「クリスは今君の側にいるんだね。息子は元気にしているかな?」
「ええ……」
そういえばクリスはどうしているんだろう。しばらく話せる状態じゃなかったし、声も聴いていない。何となく怖くて鏡も確認していなかったっけ……。
恐る恐る鏡を覗くと、クリスの姿は煙のようにぼやけていた。それでも彼は幸せそうに微笑んでいる。
わたしは何とか笑顔を張り付けて、彼の現状を伝えた。
「……ご両親に会えたからかな、とっても嬉しそうにしていますよ」
「なら良かった。私もアレクシアもお前が戻って来るのを心待ちにしているよ」
その言葉を受けて、鏡の中のクリスが微かに頷いたように見えた。そして霧のように霧散する。
あともうちょっとだから、頑張ってクリス……!
「ところでお嬢さん」
「はい?」
「君はクリスの彼女なのかな?」
緊迫した状況の中、空気をぶち壊すような発言が落とされた。アレクシアさんの鋭い視線が、光の速さの如くわたしに突き刺さる。
こんな時に何てこと言うんですか、公爵様!
「違います! 友人です!」
「そうか。君みたいな可愛らしい子ならお似合いだなあと思ったんだが」
「あなたの好みをあの子に押し付けないで!」
「焼きもちかい? 心配しなくても私の心は君の物だよ」
「そんな話はしていません。余計なお節介を焼くのは止めてと言っているのよ! 第一グロブナーさんだってご迷惑でしょうに。ねえ?」
「えっ? そんなことありませ……」
咄嗟に否定しようとして途中で気が付いた。この場合は肯定しても否定しても駄目なやつだ!
案の定アレクシアさんの目がぎろりと鋭さを増したので、わたしは慌てて言い直した。
「いえっ、だからつまりその、いい友人でいたいとは思っていますが……」
「残念だな。まあいいさ、君がその気になれば私はいつでも応援するよ」
「ハロルド! いい加減にして頂戴!」
……もうやだ。早く準備終わってよ~~~!




