32
ぱちりと目が覚めた。倦怠感もなく、すっきりとした寝覚めだ。でも部屋はまだ暗い。もしかしてまだ夜中なのかな。いったい何時なんだろう。わたしはベッドサイドの時計を見ようと身を起こした。
『おはよう、丁度四時だぞ。一人でも起きれたじゃないか』
クリスの言う通り、時計は四時を指していた。凄い、わたしもやればできるじゃない。
「おはよう。身体が慣れてきたのかなー」
それともいいことがあったからかな。へらっと笑いながら、枕元に置いたアメリアからの手紙をもう一度開く。そこに書かれているのは、昨日と変わりない文字である。
うん、夢じゃない。良かった……。良かったー!
充足感で満たされた身体は、いつになく軽くて魔力も満ち満ちている。今なら空だって簡単に飛べちゃいそうだ。無免許になっちゃうからやらないけどね。
朝のあれこれをテンポよく消化し、鏡の前に立つ(出かける前の身だしなみチェックはもはや習慣と化している)。
……うん、わたしにおかしなところはない。でもクリスは何だかおかしかった。興味なさそうに鏡から顔を背けているんだもん。
『もう行ったらどうだ? 早くミス・ブライスと仲直りしたいんだろう?』
「あ、うん。もう出るよ」
多分今も昨日みたいにそういう気分じゃないってことだよね。
少し浮かれていたわたしは、大して気にも留めずに家を後にした。
アメリアの登校時間は気まぐれだ。早い時もあれば遅刻ギリギリで来るときもある。
出来れば今日は朝話したいなあ。そんなわたしの願いが届いたのか、アメリアに出会えたのはエントランスホールに入ってすぐのことである。
わたしは彼女の後姿をみつけるなり、早速声を上げて駆け寄った。
「アメリア、おはよう!」
「おはよ……」
気まずそうにアメリアは呟いた。それでも今日は話しをしてくれる気があるようで、足並みを揃えて歩いてくれる。その事実が本当に嬉しくって、わたしはちょっと涙ぐみそうになった。
「手紙ありがとね」
「ありがとうって、あのねー……」
能天気に笑うわたしに、彼女は呆れていた。こういうやり取りも久々で、わたしにとっては喜ばしいものでしかない。とにかく嬉しい。そればっかりで、当分顔に張り付いた笑みは消えそうにない。
「まーいいけど。ね、教室行く前にお茶して行こーよ」
アメリアが頬を緩めて、食堂を指さした。わたしの返事は当然決まっている。
「うん!」
とまあ、威勢のいい返事をしたけれど、わたしが手にしたのは水である。ただの水。だってお茶一杯だけでも結構高いんだもん。庶民たるわたしにはきついお値段だ。
わたしたちはそれぞれのカップを手に、窓際の席に座った。
窓から差し込む朝日を浴びながら、アメリアのカップから漂う香ばしいコーヒーの臭いを嗅ぐと、この上なく優雅な朝だって感じがする。あー、幸せ……。
「ただの水なのに美味しそうに飲むねー……」
「うーん、今なら多分何を口に入れても美味しいって思うかも。あ、食べられる物に限るけどね」
なんて言いながら、もう一口水を飲んで至福の溜息を吐く。するとアメリアが肩を竦めた。
「なーんかさ、クリスといると毒気抜かれちゃうなあ。負けたなーって気分にさせられる」
「え、そう? 幼馴染からは緊張感ないねーとはよく言われるけど、そのせいかな」
「クリスのいいところだと思うよー」
そう言うとアメリアは口端を吊り上げ、綺麗に整えられた爪を弄り始めた。
「私さぁ」
「うん?」
「先々週の土曜にね、差し入れ持ってセオの応援に行ったんだよねー……」
セオは飛行クラブのエースである。だから土日は大抵クラブの練習に参加しているのだ。アメリアは寮生なので、そこそこの頻度で見学やら応援に行くみたい。わたしも何度か彼女と一緒に見学に行ったことがあったっけ。懐かしいなあ。
「そしたら振られちゃった」
呑気に思い出していたわたしは、その一言で固まった。セオと何かあったんじゃないかってクリスは言ってたけど、本当にその通りだったとは。
「……告白したんだ」
アメリアは溜息を吐いて首を振った。そして違うの、と一言。
「告白する前に言われちゃったんだよ。俺は誰とも付き合う気はないって。自分では割といい感じだと思ってたからさ、もーショックでショックで。なのにクリスはセオと仲良くなっていっちゃって……悔しかった」
「そっかぁ……」
それはさぞやショックだっただろう。告白して振られるより悲しいかもしれない。不完全燃焼なんて中途半端で辛いよね……。成程、だから先週の月曜日様子が変だったんだ……。
「しかもクリスってば急に可愛くなっちゃうし。これはもう二人そういうことなんだなーって思ったら、余計にね」
「それは本当に誤解だから。セオには困りごとの相談に乗ってもらってただけなんだよ。他でもないクリスの事についてだから、余計に親身になってくれたんだろうね」
「え、クリスって、クリス様の事?」
「うん、そうだよ」
「へー、もしかしてそれって……」
アメリアの唇が、楽しそうに弧を描く。そこでようやくわたしは自分の失言に気が付いた。
……しまった。ついいつもの調子で呼んじゃった。以前はグロブナーさんって呼んでたもんね。なのにいきなり親し気な呼び方になっていたら勘ぐられても無理はないか。というかこれは恋愛相談だと思ってそうだ……。
「あ、違う違う。アメリアが考えてるようなことじゃないの。第一セオに振られたのって事故の日だし、グロブナーさんはその日から意識不明でしょ。好きになりようがないってば」
「それもそっか」
わたしはちょっと焦った。あまりこの件に関して突っ込まれるとまずい。詳しいことを話せないから、嘘を重ねる事になってしまいそうだ。そうなると上手く取り繕える自信がない。
「ね、そろそろ時間だし、教室行かない?」
「そうだねー……」
墓穴を掘る前に、と思ってアメリアを促したけれど、彼女から返ってきたのは気のない返事。楽しそうな様子から一転して、表情を無くして俯いている。席を立とうともしないし、何か話したいことでもあるのかな。
「アメリア? どうかした?」
「あのさ、これだけはちゃんと言っておこうと思って……」
「うん?」
「ごめんね」
「え、それなら手紙で……」
「ちゃんと、直接言いたかったの……」
ごくごく小さな声だったけれど、わたしの耳にはちゃんと届いた。よく見ると長い髪の隙間から覗く頬は赤く染まっている。それを見たら胸が無性に熱くなって、わたしはアメリアのことが好きだなあと改めて思ってしまった。
「うん。じゃあこの件はこれでお終いにしよ。ほら、行こうよ」
アメリアに向かって手を差し伸べる。彼女はぎこちない笑みを浮かべて、わたしの手を握ってくれた。
この時のわたしは世界で一番の幸せ者だ、なんて思うくらいに浮かれていた。だからすっかり忘れていたのだ。
「あ」
廊下でデリックの姿を見かけて、わたしは硬直した。そうだった、デリックの事がまだあったんだっけ。うう、できればなかったことにしたいけど、そんなことできないし。断るなら早い方がいいよね。いつにしよう……。
「クーリス」
「あ、ごめん、行こう……って何で笑ってるの?」
突然固まってしまったわたしを、アメリアは不審がらずに何故か笑って眺めていた。その笑顔は小悪魔的って言葉がぴったりの、可愛らしくも何かを企んでいそうな笑いである。
「もしかしてさー、デリックから告白されなかった?」
「えっ、何で知ってるの!?」
「実はね、この前ちょっとむしゃくしゃしてたから、つい焚きつけちゃったんだよねー……」
さっきの殊勝な態度はどこへやら。アメリアは悪戯が成功した子供みたいに、悪びれずにそう言ってのけた。
ア、アメリアってばもう……。