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当然ながら、あの後わたしは二人からきついお叱りを受けた。特にネリーからはこっぴどく、拳骨付きで。
「痛っ!!」
「痛くて結構! 痛みがあるのは生きている証拠なんだから!」
「ごめんなさい……。自分でもバカだと思ってる……」
「本当に大馬鹿! あのままじゃ、クリス死んでたんだからね!」
ネリーはそう言ったきり押し黙った。唇は歪み、目が次第に潤んでいく。わたしはたまらなくなって彼女に飛びついた。
「ごめん、ごめんね、ネリー!」
いっぱい迷惑かけて、心配させて、本当にごめん。ありがとう、ネリー。もしもこの先ネリーが困った時は、何があっても駆けつけるからね。わたしはそう心に固く誓って、抱きしめる手に力を込めた。
何はともあれ、わたしは無事に自分の身体に戻れることができたわけだ。しかし何故このような現象が起きたのか。それはネリーの見解によると――
「今回の件は正直あたしにもよくわからない。一回や二回ぐらいじゃ確かなことは言えないの。先生ならわかるかもしれないけど、今は忙しいから連絡つかないし……。でも例の時間は気を抜かないでね。居眠りやぼーっとするのは絶対禁止! 今の二人にとっては魔の時間ってことを心に留めておいて」
つまりは不明である。わかったのは、合わせ鏡の他にも注意すべき事項が増えたということだけだ。
「クリスの生まれた時間は魔の時間、かー。ディザスタータイムに生まれし少年クリス! 何かかっこいいね」
足取り軽く自分の部屋に駆け込んだわたしは、呑気に呟いた。ああ、自分の身体って素晴らしい! ちゃんと物にも触れられるよ! 本が捲れるよ! ベッドにだって寝っ転がれるよ!
勢いよくベッドにダイブしたわたしは、ハッとなって今度はお行儀よくバッグを片づけた。だめだ、クリスがいるんだった。ちゃんとしないと……。
『何がかっこいいものか。それに魔物が生まれたみたいに言うのはやめてくれ。せめて神秘的な時間と言って欲しいね』
「そんなこと言ってないでしょ。それにね、神秘的って言葉はもうちょっと素敵な出来事に対して使ってほしいな」
あなたの思い悩む姿は神秘的ではありますけどね。なんて心の中で呟きながら、鏡越しのクリスを見て、今度は改めて自分の顔をじっくり眺めてみた。
気のせいかなって思ったけど、そんなことなかった。やっぱり朝のわたしとは全然違う。ピシッとしていて目に力もあって、見ているこっちまで気分がしゃんとしてくるような雰囲気だった。でも今のわたしはといえば、泣きすぎたせいで瞼が腫れぼったく間抜けな顔をしている。腫れが引いても、垂れ気味の目のせいで気弱な顔が映ることだろう。
わたしは心底虚しくなった。中身が違うとこんなに差が出るものなんだ、と。そして思い知った。昼間はわたしでも頑張ればなんとかなるかもって思ったのは、中身が彼だったからだ。今のわたしじゃとてもそういう気分にはならない、絶対無理だ。
でも、でもそんなの比べること自体間違ってる。クリスとわたしは違う人間なんだもん。差が出て当たり前だよ。だから仕方ない――
――人の事可愛いねーいいなーって言ってるばっかりで、何も変えようとしないんだよ!
不意にアメリアの言葉が脳裏をよぎった。それはまるで、自分への言い訳を並べ立てるわたしに対しての怒りの言葉のようだった。きっと彼女は、常日頃からそんなわたしに呆れていたのだろう。それでも笑顔で一緒にいてくれたのは、勉強のため。それだけしか取り柄がなかったから。
昼間の言葉がふつふつと蘇る。そしてわたしの心に宿ったのは、怒りだった。
最初はショックだし悲しかった。でもあんな風に言われるのはやっぱり不愉快だ。そしてなによりも、あそこまで言われっぱなしの自分にも腹が立つ。
本当にわたしはバカだ。何にもしてないうちから無理、なんて決めつけるのは早すぎる。……うん、結果はどうあれ、とにかくやってみよう。
そうと決まれば、まずはどこから変えていこうかな。やっぱり劇的に変わるとしたら化粧だよね。美容に詳しいクリスなら知ってるかな。
わたしは鏡とにらめっこをしながら、同様の行動をしているクリスに尋ねた。
「ねえクリスってさ、もしかしてメイクも詳しかったりする?」
『まさか、僕だって流石にそこまでは。したいのか?』
「うん、見た目をちょっと変えてみようかなって。だから詳しければアドバイスもらおうかなって思ったんだけど……」
『手っ取り早い方法ではある。だがメイクに詳しくない僕でもわかるぞ。今の肌の状態でやったら自殺行為にも等しいってことがな』
「そっかー……」
じゃあ他に変えられるものって何かあるかな。……そういえば、アメリアはスッと整っていて綺麗な眉してたっけ。わたしの眉毛といえば、見事にぼさぼさだ。でもこれを整えたらちょっとは違うかも……。
「メイクは無理でも眉毛を整えるくらいはできるよね」
『そうだな。それならアドバイスできるぞ。でも道具はあるのか?』
もちろんわたしがそんな物を持っているわけがない。この家で持ってそうな人といえばモニカだ。わたしは早速彼女の元へ行って頼み込んだ。すると手渡されたのは大きなメイクボックス。そしてモニカはにんまりと笑ってこう言ったのだ。
「恋してるね、クリス」
してるよ。してるけどね。いくらなんでも当の本人がいる目の前で、はいそうです、といえるほどわたしは勇者ではない。わたしは適当に笑って誤魔化し、にやつくモニカの視線から逃れるようにそそくさと部屋へと戻った。
鏡の前に座ったわたしは、メイクボックスを広げてみた。大きいだけあって中には色々と入っている。しかしその手のことに詳しくないので、何をどう使うのかさっぱりだ。とりあえずその中から必要であろうと思われる道具を取り出して、作業に取り掛かった。
前髪は邪魔にならないようにピンで固定。次はカミソリを取り出し、眉に当てて――
『おい待てバカやめろ! 何する気だ!』
クリスの勢いの良い制止に、わたしの手が止まる。
「眉を剃るんだけど、何かおかしかった……?」
『まさか全部剃る気でいるわけじゃないよな!?』
「え」
違うの? と言おうとしてやめた。だって信じられないって感じで、クリスがわたしを見てくるんだもん。単に剃って描けばいいって考えてたけど、そう単純でもないんですね……。
『あのな、剃るのは無駄な毛だけでいいんだ。そして眉からはみ出した長い毛は鋏でカット……うん、まあやりながら説明しよう。眉鋏と毛抜きとコームを出して。それじゃない、右のやつだ』
そこから先はクリスによるツッコミの嵐だった。違う! アホか! 馬鹿か! と何度言われたことか。どうやら彼は美容に関することになると、いつもにも増して厳しくなるようだ……。
そうして数十分の嵐の後、もっさりしていた眉がすっきり綺麗に整えられた。
「結構変わったかも……?」
いつものぼけっとした外見がマシになったような気がする。しかし終わった後の疲労感はかなりのものだ。何せ眉毛を抜くのは痛いし、剃るのは神経を使う。時間もかかるし、これを度々やるのは中々の手間である。
「みんなこんなに苦労して整えてるんだねー……」
『僕はそこまで苦労だとは思わないが。まあ努力なくして美しさは得られないってことだ』
「クリスやルシェルなんかは何もしなくても綺麗じゃん……」
『僕は日々の手入れを怠っていないし、あいつだってそれなりに何かやってるさ。言っておくがな、自然体でも美しくあれるというのは植物だけだ!』
「そ、そうだね」
わたしはどもりながらも頷いた。明らかに彼らは基礎から違う。遥か高みにいる存在だ。だけどこうも自信満々に断定されると、確かになって思えるから不思議だ……。
『しかしどういう風の吹き回しだ? 君がこういうことに興味を持つなんて正直驚いているんだが』
「……見返してやりたいなーなんて……」
こういう理由は自分でもどうなんだろう、って思ったけどこれが正直な気持ちなんだから仕方がない。クリスも呆れるだろうな。
『へえ、君にもそういう気概があったんだな』
しかし意外にも彼は、感心といった風に頷いていた。あ、そういえば売られた喧嘩は買うって人だったね……。
『そういうことなら、これから遠慮なく口を出させてもらうぞ』
ニヤーっとクリスが意地悪く唇を釣り上げる。わたしの背筋に悪寒が走った。
「ほどほどにお願いします……」
『よし、じゃあ次は髪だな』
「えっ、今日はもういいよ。疲れちゃったし……」
『何言ってるんだ! 見返してやりたいんだろう! あの友達面した悪魔どもを!』
「いや、悪魔って……」
『黙って僕に従え、悪いようにはしない。勿論やるよな?』
「は、はい……」
クリスの勢いに飲まれて、わたしはつい頷いてしまった。
『うん、それでいい。僕が提案するのは、不器用な君でもできる簡単なポニーテールだ』
「あっ、それならわたしでもできるよ!」
あれってようは高く結べばいいんだよね。というわけで、即座に髪をまとめて高めに結い上げた。これで完成! どうだ! と目線で訴えてみれば、クリスは深々と溜息を吐いて首を振った。なんて駄目な奴なんだ、と声に出さなくても伝わる仕草である……。
『違う、そうじゃない。顔周りにおくれ毛を垂らすんだ。それからハーフアップにして一度ゴムで止める。それから――』
ど、どこが簡単なんだろう……。矢継ぎ早に出される指示に、わたしはあたふたとしながらも従った。眉の時と同様、叱られながら自分の髪の毛と格闘する。そして数分後、わたしが披露したものとは全く違う髪型が仕上がった。
「わー、すごーい……。わたしじゃないみたい……!」
わたしの髪の特徴を活かしたのか、ふわりとした感じのポニーテールである。髪の毛と眉のお陰で、柔らかく優しげな雰囲気だ。
これで瞼の腫れが引けば、いつもよりもちょっといい感じに見える……かも! これはテンション上がるよ! 楽しいかもしれない!
いろんな角度で自分を眺めながら、わたしは自らの変化に舞い上がってはしゃいだ。
『可愛くなるのって楽しいだろ?』
「かっ、可愛い……?」
わたしはクリスの言葉にバカみたいに反応してしまった。別に彼はわたしの事を可愛いって思って言ったわけじゃないんだろうに。
『うん、可愛いよ』
え……?
わたしは思わずクリスを見つめた。彼もわたしを真っすぐに見つめて、微笑みを浮かべている。紫水晶のような瞳には、いつになく優しい光が宿っていた。まるで本当に可愛いものでも見ているみたいに。
わたしはそれ以上クリスを見ていられず、さりげなく視線を逸らした。それでもじわじわと顔が熱くなってしまうし、胸が高鳴るのは抑えられない。
『なんたって僕がアドバイスしたんだからな。可愛くならないわけがない』
あっ、はい。ですよねー……。