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わたしは訳が分からなかった。だって今の出来事でクリスが泣く要素なんて一切ない。具合が悪いというわけでもなさそうだし……。
『あの、大丈夫? 一体どうしたの……?』
「どうしたもこうも……。君が激しい感情を抱くと、僕にも伝わるみたいだな」
昨日もそうだったし。と彼は呟き、今度は上品にハンカチで顔を拭う。
『つ、伝わるってどのくらい……?』
「凄く悲しいっていうのはわかる」
それを聞いて少しほっとした。今わたしの心の中は、ドロドロのぐちゃぐちゃだ。こんなもの、他人に見られたくない。特にクリスには。
『そっか。ごめんね』
「君が謝ることはないだろう」
そう言って彼は、トイレに入ることなく歩き始めた。
『どこ行くの? トイレは……』
「いい。エアボードも取りに行かなくちゃならないしな」
『うん……』
意外にもクリスは、今の件に関して触れては来なかった。ただ足早にボード置き場へと向かう。そしてエアボードを回収して玄関までくると、丁度やって来たセオと鉢合わせた。
彼はクリスを見てわかりやすくギョッとした。それもそのはず、今のクリスの目は充血していて、たった今泣いていたというのが一目でわかる状態だったからだ。
「あのさ……」
セオがおずおずとクリスを伺う。泣かれるのは嫌って言っていたし、きっと気まずさを感じているのだろう。
「何だよ」
「さっきは悪かったよ……」
「は? もしかしてそれが原因で泣いたと思っているのか? そんなわけないだろ。単なる体調不良だ」
クリスのぞんざいな言い方に、セオが渋面を作った。
「わかってるよ。でも一応」
「うん、まあ……さっきの事なら僕も悪かった。ということでこの件は終わりだ。ほら、乗せろ」
クリスがセオの背中を叩いて彼の背におぶさる。そんな二人の姿を見て、わたしは心底羨ましいと思った。
わたしはアメリアと彼らのようにはなれなかった。わたしは結構仲がいいって思っていたのに、アメリアにはあんな風に思われていたなんて……。
さっきの衝撃から未だ抜けきれない。思い出せば思い出すほどドツボにはまって、悲しみが蘇る。すると何故かクリスがセオの肩に顔を押し付けていた。
「うわ、ちょっと、何……!?」
「気にするな。黙って飛んでくれ」
「いや、なんか濡れて気持ち悪いんだけど」
「黙れって」
あ、ちょっと涙声。わ、わたしのせいだね。でもしばらくこの最悪な気分から抜け出せそうにないよ……。
結局、ネリーの家に着くまでクリスはしくしくと泣き続ける羽目になった。クリス、本当にごめん……。
そしてニ十分後。昨日と同じように家の前で降ろしてもらうと、クリスがセオに向かって軽く手を上げた。
「じゃ、世話になったな」
しかしすぐに飛び立つかと思いきや、セオは眉を下げて呟いた。
「帰りは平気?」
相変わらずクリスの目は泣きはらしたように赤いので、心配になったのだろう。それもこれもわたしがうじうじと考えていた所為なんだけど……。
「絶対元に戻るから平気だ。早く戻れよ、授業始まるぞ」
しっしとまるで犬でも追い払うみたいな仕草に、セオが笑って頷いた。
「そっか。じゃ、またね。可愛い方のクリスもまた明日!」
『あ、ありがとう、セオ……』
わたしは口端を引きつらせて、反射的に呟いた。気落ちしている所為か、彼の明るい挨拶に心が付いていかない。それどころか可愛いという言葉が引き金になったのか、アメリアに言われたことが思い出されて、わたしの心はズドンと落ちた。
再びクリスの目に涙がジワリと浮き上がる。彼は何も言わずにそれを拭って、シモンズ家の扉を叩いた。
「はいはーい」
「やあ、ネリー」
「待ってたよ……って、どうしたの、その顔」
「今の状態については気にしないでくれ」
「気にするよ。雑念のある状態だと上手くいかないんだから」
『ごめん、わたしのせいだってネリーに伝えて』
けれどクリスは軽く頭を振っただけで、わたしの言葉を伝えてはくれなかった。
「じゃあ少し落ち着くまで時間をくれ」
「うん、そうだね、まだ時間はあるわけだし。でも遅くても一時間前には始めたいからそれまでには何とかしてね。あたしはそれまで準備してるから。お茶、用意してあるから、それでも飲んでリラックスするといいよ」
「ありがとう」
トランク片手に、ネリーは離れの方に向かって行った。クリスはというと、彼女の用意してくれてあったティーポットを手に取り、優雅な仕草でお茶を入れ始めた。
黙々と動いていた彼は、やがて椅子に腰を落ち着けた。泣きすぎた目は腫れて、疲れているようにも見える。それを見たら、本当に申し訳なさでいっぱいになって、わたしは再び謝った。
『あの、ごめんね……』
「あんなことがあれば無理もないよ」
彼はカップを手に取り、一口こくりと飲んだ。そして安堵したように、ほっと息を吐いた。
「ネリーはいい子だな」
『うん……。凄く頼りになるし優しいんだよ。クリスにとってのセオみたいなものかな』
「まあ、そうだな」
あれ、素直に認めるなんて、ちょっと意外。でもそれだけセオのことを信頼しているんだね。
「ネリーとは喧嘩したりするのか?」
『昔は結構してたかも。今は全然してないけどね』
「そう。僕らと同じだな」
『今日してなかったっけ……?』
「あんなの喧嘩のうちに入らない。酷いと殴り合いになるんだぞ」
『えっ、嘘でしょ!?』
それってセオの力を考えたら、クリス死んじゃうんじゃない……? あ、でも朝のトレーニングとか欠かさずやってそうだし、そこまでひ弱ではないのか。
「本当だよ。ま、今ではそこまでひどくなることはないが、昔は酷かったんだ。子供の頃はあいつも結構乱暴な奴だったし」
『ふーん、ちょっと意外……』
それからクリスは色んなことを語って聞かせてくれた。レナード王子が昔泣き虫だったこととか、料理が趣味だってこと、それからヘルメスさまのお話し。わたしは次々と語られる彼の話に聞き入った。落ち込んでいた心も段々と落ち着いていく。
現金なもので、少し余裕が生まれると今度はわずかな疑問が浮かび上がってきた。なので話が途切れたのをきっかけに、わたしは彼に聞いてみた。
『今日の事、何も言わないんだね……』
「言ってほしいのか?」
『ううん、そういうわけじゃないけど。ただ、クリスなら何かしらコメントしてくるかなって……』
「君はそういう時、放っておいてって性質だろう。話したくなったら自分から話すだろうし」
『うん、まあそうだけど……。よくわかったね』
「短い付き合いの中で学習したんだ。ほら、マリナステラ見学の時、僕が余計なことを言ったせいで君を怒らせてしまっただろ」
『ああ、あれ……』
彼は空を見つめて、ふっと口端を釣り上げた。
「むしろあの時の君には、僕の言葉よりもケーキの方がよっぽどの慰めになっていたよな」
『あはは……』
それを言われるともう笑うしかない。そして笑いながらも、わたしは恥ずかしさのあまり俯いた。だって今のクリスの笑い方、とっても意地悪いんだもん。きっと食い意地が張っている奴だと思っているに違いない……。
「チーズ系のケーキが好きなのか?」
『ち、違うよ。凄く美味しくって感激したから、悲しいのなんて忘れちゃったんだよ……』
うん、この答えは食い意地の張った奴そのものだ。わたしってば、慌てると本当にろくなこと言わないんだから……。
「そうか」
くつくつと楽しそうな笑い声が聞こえる。わたしは顔を上げて、部屋の鏡越しにクリスを軽く睨んだ。
『単純だって思ってるでしょ』
「そうだな。でもこういう時は単純でいられる方が得だと思う。僕はね」
クリスがわたしに向かって微笑む。その顔は、腫れぼったい目でいつもよりも不細工な自分のはずなのに、なぜか目が離せない。次第に身体の中心からぽかぽかと暖かくなっていき、気が付けばわたしの顔にも自然と笑みが浮かんでいた。
「落ち着いたみたいだな」
『うん。お陰様で』
「そうか。今度は怒られなくて良かった」
『あれは忘れてよ、もう……』
クリスの揶揄に、わたしは口を尖らせた。マリナステラでの出来事は、今の段階ではまだまだ恥ずかしさと居たたまれなさを感じる記憶である。でももうちょっと時間が経てば、笑い話にできる日が来るのかな……?
「お、やっと来たね。じゃ、手伝って」
離れに向かうと、しゃがんでいたネリーが立ち上がり、クリスに白墨を投げてよこした。彼女の足元には薄らと白い半円が描かれている。どうやら魔方陣を描いている途中のようだ。
「この魔方陣は?」
「悪いものが寄ってこないようにするためのもの。まあいわゆる悪霊ってやつ」
「ああ、なるほど……」
クリスが視線を落として呟いた。そんな彼を見て、ネリーの片眉がぴくりと動く。
「……幽体離脱っていうのは危険なものだからちゃんとしないとね」
あれ、今の意味深な感じだったけど、気のせいか。ネリーならはっきり言うはずだもんね。
「君はあたしが描いた後をなぞってくれればいいから」
「わかった」
作業は黙々と続いた。しかしこの魔方陣、結構手間がかかるみたいで、なかなか終わらない。わたしも手伝えればいいのにな。っていうか手伝いたいよ。自分の事なのに手も出せないなんて……。
そんな感じでやきもきしながら見守っていたので、ようやく完成した時には何かの重圧から解放されたような心地だった。
『二人とも、お疲れ様!!』
「うん。結構時間がかかるんだな、これ」
「まあね。じゃ、クリス君、ここに寝て」
とネリーが魔方陣の中心を指し示す。クリスは指示に沿って、寝転び目を閉じた。
「そうしたらリラックスして。つま先から頭に向かって順に力を抜いていくの。次に頭の中を空っぽにして。何も考えない、それか身体から離脱するイメージを思い浮かべるの。あ、それからクリスの方もできれば何も考えないでね。で、クリス君が出てきたらすぐに自分の身体に飛び込むんだよ。それもクリス君があんたの身体から抜けきる前にね」
わたしはネリーに向かってこくりと頷いた。頭を空っぽにして、何も考えないで……。
不思議なもので、そんなことをしていると徐々に頭がぼーっとしてきた。幽体では決して感じなかった感覚であり、生身の時と同じような感覚だ。
そして待ち構えていた瞬間は訪れた。横たわるわたしの身体から、するりと見覚えのある姿が抜け出ていく。それはしばらく顔を見ることのできなかった、あの美しいクリス・グロブナーだ。
『あ……』
たった一日顔を合わせていなかっただけなのに、まるで何日も顔を合わせていなかったような気がする。っていうか、クリスってこんなに綺麗だったっけ……。
わたしはネリーの言葉も忘れて、うっかり彼に見とれてしまった。
「クリス、ぼーっとしないで! 早く!!」
あっ、そうだった! もうクリスの身体は腰まで見えている。さっさとしないと!
しかしどういうわけか、ふわふわして身体が思う様に動いてくれなかった。まるで分厚い空気の壁に阻まれているみたいだ。彼の身体が露わになっていく程に、その抵抗は強くなっていく。身体が出てきたらすぐに戻れって、こういうことだったんだ。わたしってなんて馬鹿なんだろう。こんなに近くにいるのに、近寄れないなんて……!
そうして焦りが極限に達した時だった。クリスの閉じていた瞼が開かれ、美しい紫の瞳がわたしを射抜く。
『クリス! 僕の手を掴め!』
彼がわたしへと手を伸ばす。わたしも必死に彼に向かって手を伸ばした。やがて手と手が触れ合い、ぎゅっと硬く握られて身体が引っ張られる。わたしの身体はクリスの抱き留められた。そして彼はわたしの身体を――
横たわるわたしの身体にぎゅうぎゅうと押し込み始めたのだ。まるで荷物でもしまい込むみたいに。その光景はとても間抜けだったに違いない……。
『いたっ! 痛い! なんか痛いよ!』
『うるさい! 大事な時にぼーっとしてるんじゃないこのバカ!』
「あっ、その調子だよクリス君! もっともっと強く押し込んで! クリスは自分の身体に戻りたいって願って!」
はい、はい! 戻りたいです! もうこんな痛い思いしたくない! 自分の身体を男の子に操られるのも嫌! 自分じゃない自分を見るのも嫌! 羞恥プレイはもう沢山だ! 戻りたい、わたしは何が何でも戻りたい! 凄い良い身体ってわけじゃないけど、わたしは自分の身体が一番いいんだ! 戻りたいよー……!!
ひたすら戻ることを願っていると、今度は眠りに落ちるときのように意識が徐々に闇に溶けていく。完全に意識がなくなる寸前、わたしはクリスの穏やかな声を聞いた。
『君にとっては色々と災難だったよな。でも僕はおかげで久々に生きてるって実感が出来た。ありがとう……』
はは、さっきの怖い声が嘘みたいに優しく聞こえるよ……。うん、でもこちらこそありがとう、だよ。クリスのお陰で、わたし今まで思いもしなかったことを色々と考えることができた気がする……。それが自分を良い方向に変えられるきっかけになったら、いいな……
――!!
意識が段々浮上していく。誰かが焦ったように叫んでいる。この声は……
――ス!!
ネリー? 珍しいね、ネリーがこんなに叫んでるなんて……。
……うん? あれ……!?
「クリス!!」
「!?」
わたしはぱちりと目を開けた。生身の身体の重たい感覚だ。わたしは無事に自分の身体へと戻ることができたのだ。だがしかし――
今のわたしには喜ぶことよりも、まずやらなければならない重要なことがあった。
「クリス、良かった!!」
ネリーが歓喜の声を上げて、横たわるわたしに取りすがる。それに対して、わたしが彼女に告げたのは、安堵の言葉でもお礼でもなかった。
「ネリー、トイレ貸して!!」
わたしは無情にも縋り付くネリーを振り切って、一目散にトイレに駆け込んだ。ごめん、ネリー! 今はそれどころじゃないの!
よくよく思い返してみれば、彼は起きてから一度もトイレに行っていなかった。となれば戻ったわたしがこうなるのも当然なわけで……。よくもまあこんな状態で、しかも涼しい顔して幽体離脱なんて出来たものだね!
クリスの自制心と我慢強さに、わたしは心底感心するばかりであった……。




