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「やっぱり身ぎれいにすると気持ちがいいな」
お風呂から出たあとのクリスは、鼻歌でも歌い出しそうなぐらいにご機嫌である。入浴中あんなにぎこちなかったのが嘘みたいだ。いい気なもんだね。わたしは恥ずかしくて、顔も合わせられないって言うのに。
『それはよかったね……』
「うん」
相槌を打つ彼の声はとっても嬉しそう。ちらりと彼を見ると、満面の笑顔でストレッチをやり始めていた。なんか、わたし一人で悶々としてるのが馬鹿みたい……。
「君、身体硬いな。授業以外に動かないだろ」
『そんなことないよ。お祭りでは踊ったりするって』
「祭りなんてそう頻繁にあるもんじゃないだろ」
『パーティーとかでも踊るし……』
「フッ」
『もー、わたしの身体に対するコメントなんて聞きたくない。やめてよ』
「はいはい」
むくれつつも行動を見守っていると、彼は机に本を開いてベッドに入り込んだ。
『えっ、何その謎な行動。読むんじゃないの? まだ十時だよ』
この時間、わたしはいつも勉強に充てている。だからってクリスにも勉強しろとは言わないけど、いくらなんでも早すぎるんじゃない? 眠れるの?
「夜更かしは体に良くないし、勉強なら朝やった方がはかどる。その本は君用だ。そういうわけだ、おやすみ」
『君用って……』
穏やかな寝息が聞こえてきたのは、それから五秒後である。早すぎる……。
彼が寝てしまうと、本格的にすることがなくなって途方に暮れた。わたしはクリスの傍を離れられないから出歩けないし、物にも触れられないから何もできない。暇だ。そっか、だからクリスは本を開いておいてくれたんだ。でも絵本なんてずっと見続けられるものでもない。
こういう不安定な状態での空き時間ってよくないなあ。色んなことが押し寄せてきて、不安を掻き立てられる。こうして考えることができるのに、この身体は空腹や眠気、疲れも感じない。しかも感触すらも感じないので、ふわふわして落ち着かない。怖い。本当にわたしは元に戻れるのかな……。
考えても仕方がないっていうのはわかってるんだけど、今はそれを紛らわす方法もない。どうしたらいいんだろう……。
「絶体、元に……戻るんだ……」
『え?』
思わず聞き返してしまったけど、今のは寝言か。夢でも見ているのか、彼は難しい顔をして小さな唸り声を上げてる。
そういえばクリスはどうやって夜を過ごしているんだろう。わたしみたいに不安になったりするのかな。何もすることがないし、きっとそうだよね。それをもう一週間以上だ。さっきあんなにご機嫌だったのも、今なら何となく理解できる。だって彼にしてみれば久々のお風呂だったんだ。食事にしてもそう。
わたしはすやすやと眠るクリスに向かって、さっき言いそびれた言葉を呟いた。
『おやすみ、クリス』
これでちょっとでも気が休まるといいね。
わたしにとって長く憂鬱な時間は、午前四時にようやく終わった。クリスが目を覚ましたのだ。まだ夜も明けきってないのに、随分と早いお目覚めだ。でもわたしにとってはありがたい。だって退屈な時間がやっと終わるんだもん。
嬉しくなったわたしは、彼が寝ぼけ眼にもかかわらず、いそいそと声を掛けた。
『おはよう。早いね』
「おはよう。早寝早起きは僕の習慣だからな……」
『まだ眠そうだけど、大丈夫?』
「いつもはこうじゃないんだが……。君の身体だからかな。少し眠い」
そう言った割には機敏な動きで、彼はベッドから抜け出して鏡に直行した。うわあ、またそれですか! やめて!
『それ、わたしの身体の時は止めてほしいんですけど……』
「何故だ? 鏡を見るのは自分の為になるんだぞ」
『それはあなたの姿でやればいいでしょ』
「何でそこまで嫌がるのかわからないな。いいか? 鏡を見ることで自分を知ることができるし、体や肌の不調だって気づくことができる。そして自己意識の向上にもなる。昨日よりも魅力的な自分になろうってね」
『クリスって女の子みたい』
「君は女の子なのにな……」
皮肉を込めて言うと、哀れみの眼差しを向けられてしまった。ああ言えばこう言うんだから、もう……。
『女でも鏡を見る習慣のない人はいるんです』
「その逆も然り。男でも鏡を見る習慣がある人はいるんだ。うん、昨日の軟膏のお陰で肌荒れがマシになったぞ。これを確認したかったんだ」
『あ、そういえばそうだね。赤みが引いてる』
「五日分作ったから、今日から治るまでは寝る前に塗れよ」
まるで戻れるのが決まったように彼が言う。わたしは言葉を返せず、視線を落とした。
「不安か? 今日戻れるのかって」
『え、あ、うん……。よくわかったね』
「その体でいると色々考えてしまうからな。おまけに暗くなりがちだ。君の不安はよくわかるよ」
『やっぱり? クリスはどうやって気を紛らわせてるの? 特に夜とか』
「僕の場合は……」
クリスは少し言いよどんだあと、口を開きかけてにっこり笑った。
「秘密だ」
『何それ』
「まあ今日のことに関しては、ネリーの言うことを聞いておけば大丈夫だろう。彼女は中々頼もしい」
あ、あからさまに話題を逸らした。怪しい……。
その後のクリスはジョギング、勉強、と規則正しい模範的な行動を取り、朝食は果物のみで簡単に済ませてしまった。そして次に彼の向かう先は、わたしの部屋。というよりも鏡である。またか。もう突っ込むのも面倒くさいから言わないけど。
『朝食あれだけで足りるの?』
「ゆっくり時間をかけて咀嚼したから充分だ。僕は身支度に時間を掛けたい。慣れない身体だから手間がかかるだろうしな」
まあそれならわからないでもない。着替えるとき、彼は律儀にも目を瞑ってやってくれるので普通よりも時間がかかるのだ。
しかし昨日の悪戦苦闘が嘘みたいに、クリスは慣れた手つきで着替えを済ませてしまった。なのにまだ鏡の前を離れようとはしない。セオが来るまではニ十分もあるっていうのに。まさかメイクでもするつもりなんだろうか。男の子だけど、彼ならできちゃいそうだし。
『着替え終わったなら鏡はもういいんじゃないかなー……』
「まだだ。ヘアメイクが残ってる」
そう言って、クリスは髪の毛を弄り始めた。器用に髪の毛を編み込んでいき、最後に前髪をちょっと横に流して完成。あっという間の出来事だった。
「よし、流石僕。いい感じだ」
いつもと雰囲気の違うわたしがニヤッと笑う。確かに髪型が違うだけで、結構変わるもんだ。でも鏡に向かって自画自賛している姿は、自分がナルシストになったみたいでなんか嫌だ……。
妙な仕草をするのをやめさせたくて、わたしは彼に話しかけた。
『その髪型、ウォーターフォールだっけ。上手いね。どこでそんなの覚えるの?』
「妹の髪をたまにセットすることがあるからな」
『へー、いいなあ。うちのお兄ちゃんには絶対できない芸当だなあ』
「機会があればやってやるぞ。教えてもいいけど、君はちょっと不器用だしな」
『いやー、ちょっとどころじゃないよ。でもやってくれるんなら今度お願いしようかな』
「任せろ」
いつもと雰囲気が違う自分が見れるというのは、結構テンションが上がるものだ。しかもあのクリスがわたしの髪の毛を弄るんだよね。想像するとわくわくして、少しだけ胸が躍った。
『あ、メガネするの忘れないでよ』
「あれを掛けるのか……」
『掛けなきゃ文字が見づらいんだよ』
クリスが渋々といった感じでメガネをかける。嫌そうだなあ。メガネが嫌いなんだろうか。
「前々から思っていたが、このメガネ全然似合っていないぞ」
あ、そういうことか。見た目にこだわる彼らしい納得の理由だ……。
『確かにちょっと無骨だけど、それ丈夫だし安かったから……。とにかく今はそれで我慢してよ』
「僕は似合っていない物を付けるのは苦痛だ。クリアキットを借りるぞ」
クリアキットとはメガネ用のアクセサリーである。これをメガネに付けると透過するようになっているのだ。ドリューからの誕生日プレゼントだったんだけど、魔石を消費するから使わずにいたんだよね。そんなことで使うなんて勿体ないもん。……うん? 待てよ、プレゼントでこれをくれたっていうことは……。
『もしかして、ドリューもこのメガネがダサいって思ってこれくれたのかな』
「それしかないだろう」
そうか……。ドリューの目から見ても変だったのか。なんかショックだ……。
「クリスー!」
ドアの向こうからモニカの呼び声が聞こえた。そしてパタパタと慌ただしい音を立てて、ドアが勢いよく開かれた。
「お迎え来てくれたよーって、可愛いじゃないそれ!」
「でしょ?」
モニカに褒められて、クリスが自慢げに笑う。
「それどうなってるの? 後ろみせてよー」
彼女の要求に、彼はノリノリでくるっと一回転して見せた。その姿は女の子そのものである。わたしは女だけど、絶対やらない仕草だ……。
「クリスもようやく女の子らしいことに目覚めたんだね。彼氏効果かな」
最後の呟きで、クリスの笑顔が引きつった。
「あれは彼氏じゃないから」




