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クリスの言葉通り、話が終わった頃には既に日は暮れ、辺りは真っ暗になっていた。外で待たせていたセオは、手に明かりを灯してふらふらと歩き回っている。クリスは彼に駆け寄り、声を上げた。
「セオ! 待たせたな」
「どう? 戻れそうだって?」
「明日何とかしてもらう予定だが、成功するかはわからないな。そこでお前に頼みがある」
「どうせ送り迎えしろって言うんだろ」
「わかってるじゃないか。だが僕は早退する予定だから、帰りは昼休みに頼む」
「えー、朝はいいけど、昼飯抜きはちょっとなあ」
そりゃ渋るよね。お昼ご飯食べられなかったら、午後の授業集中できないもん。やっぱり明日はお休みする他ないんじゃないかなあ。
「何言ってるんだ。行き帰り四十分だろ。十分は残ってる。お前なら余裕で食事できる時間だ」
「校内の移動を含めたら十分もないよ。それに普段早食いは体に良くないって文句言ってくるくせに、こういう時ばっかりそんなこと言って」
「あー、うるさいやつだな。ったく、ヨーク亭のチーズ煮込みハンバーグでどうだ」
「お、乗った」
わたしの心配をよそに、二人は文句を言い合いつつも話をまとめていた。なんて有難い。セオには頭が上がらないよ。
これで学校への行き帰りの問題は解決した。次の問題は家での振る舞いだ。雷の事故から、お母さんが前より心配性になっちゃったんだよね。あんまり変な行動していると、病院に無理やり連れていかれそうで怖いのだ。
「クリス、おかえり!」
玄関の扉を開けると、甥っ子のコニ―が出迎えてくれた。今年九歳になるやんちゃ盛りの男の子である。
「ただいま」
うん、ニッコリ笑顔で合格だ。そういえばクリスも弟と妹がいるって言ってたっけ。年下の扱いは心得ているはずだから、心配ないだろう。
「なあなあ、おれ見ちゃった。男におくってきてもらってたよな。もしかして彼氏?」
「はあ?」
一転して、彼は恐ろしい顔に変化した。しかも声には威圧感と怒りがふんだんに込められている。可哀想に、コニーはわーっと叫び声をあげて逃げてしまった。甥っ子に対して、わたしは普段こんな風には怒らない。前言撤回。これはとっても不安だ……。
『生意気なお年頃だから難しいかもしれないけど、コニーにはもうちょっと優しくしてよ。今のはちょっと怖いよ』
「あまりに不愉快なことを言われたからつい。でも大人げなかったな。あとで謝るさ」
うーん、まあ男の子だし、気持ち悪いって思っちゃったのかな。潔癖なクリスらしい反応と言えるのかもしれない。
それからクリスは几帳面に靴をそろえて、わたしの部屋へと向かった。そして次にちょっと意外な行動に出た。入るなり通学バッグをぽいっとベッドに放ったのだ。
いつもは片付けろってうるさく言うくせに、クリスもこういうことするんだ。一々突っ込むのも面倒だから言わないけど。などと釈然としない気分で見守っていると、彼はハッとしてバッグを慌ててフックにひっかけた。
「僕としたことが……」
『何かあったの?』
「君の身体に入ったことで、僕も多少なりとも影響されているみたいだ」
『どういうこと?』
「今の振る舞いもそうだが、この汚い部屋を見ても何も感じないんだ」
『汚いってどこが? 片付いてるじゃん。綺麗だよ?』
服はきちんと収納されているし、ごみだって散らかっていない。机の上だって綺麗に片付いている。これもクリスによる日々の指導の賜物だ。
「は? 君の目は節穴か?」
そう言うと彼は窓枠を指でつつーっとなぞった。そしてその指をわたしの前に突き出したのだ。指先には埃が付着している。
「こんなに汚れているだろ」
うわぁ……。こういう人、確かどこかの物語で見たことがあるな。新人メイドをねちねち虐める老メイドが嫌味ったらしい仕草でこんなことやってたっけ。
「でもこれを見ても、今の僕は不快じゃないんだ」
どうかしてるな、と彼は気取って仕草で呟いてハンカチで指を拭った。
いやー、もうどうかしちゃってるんじゃないですかね……。そんなの一々気にしてたら気が狂いそう。むしろよく今まで平気で居られたよね。
呆れ、感心、ドン引き。わたしの中のいろんな感情を引き起こしてくれた彼は、更なる行動に出てわたしをぎょっとさせてくれた。何と鏡の前に立ったのだ。
え、うそ、見るの? わたしの顔で、いつものミラータイムやるんですか?
冗談じゃない!
『ねえねえ、今日は鏡見るのやめようよ。クリスの顔はないんだし、わたしの顔をじっくりみても楽しい事なんか何もないからさ!』
必死に言い募っても、彼は鏡を見るのをやめなかった。じっくりわたしの顔をみつめ、頬に手を当てる。そして眉を顰めた。
「美しくない」
死んだ。
わたしの心が死んだ。
それぐらいにグサッと心に来た。これは想像以上の痛みだ。何か、凄く悲しくなってきた……。
『そりゃ、わたしは綺麗じゃないけど、そんなはっきり言わなくても……』
たどたどしく呟けば、クリスは眉を下げて見る見るうちに青ざめた。
「おい、待て、泣かないでくれ。僕は断じて顔の造形のことを言ったわけじゃない。僕が言ったのはこのボロボロの肌のことだ!」
うるさい。余計なお世話だよ。でもそんな言葉を返すのも億劫だ。もう話だって聞きたくない。なのに鏡のある部屋なので否応なく聞こえてくる。せめてもの抵抗で、わたしは彼から顔を背けた。
「連日の夜更かしのせいで、肌が荒れているんだ。これはよくない、美しくない。例えるなら荒れ果てた荒野、枯れ果てた大地だぞ。君は内面は輝いているのに、なぜもっと外に気を使わないんだ。勿体ない」
……なんか、今ものすごい事言われたような……。
「我慢ならないな。僕がこの身体にいる限り、これだけは本当に許せない! とにかくこの不愉快な肌荒れをどうにかするぞ!」
呆然とするわたしをよそに、クリスは勝手にヒートアップして、家を飛び出した。何をするかと思えば、そこら辺に生えている草を抜き始めたのだ。
『何で草取りなんかしてるの?』
「リザーズテイルを取ってるんだ」
『ああ、肌荒れに効くってやつだね』
「それから君の家で採っているロニエの蜂蜜、あれも肌荒れに良い。使わせてもらおう」
『へー、それは知らなかった』
「最近注目され始めたいい蜂蜜だぞ。抗菌作用もあるし、美容にもいい。養蜂に携わっているくせに何で知らないんだ」
『携わっているのはお兄ちゃんだよ。わたしは興味ないし。それに健康オタクでも美容オタクでもないもん』
「オタクって言うなよ」
拗ねたように呟くクリスが面白くて、わたしはさっきのことも忘れて笑った。この顔、元の顔で見たかったなあ。残念。
あっさり機嫌を治したわたしは、クリスの調薬を楽しく見守った。元々実験的なものを見るのは大好きなのだ。
まずはリザーズテイルを蒸してから、すりつぶして蜂蜜を加え、マルガナッツのオイルを一垂らし。そして最後にロッカの果汁を入れて、お手製の軟膏の完成だ。
『へえ、家にあるものだけで作れちゃうんだね』
「うん。あとはリザーズテイルの臭いがきついから、これを消してハーブの香りを加える」
そう言うと、クリスは消臭の魔法を唱えた。マニアックなもの知ってるんだなあ……。
『あれ、魔法は上手く使えないって言ってなかった?』
「簡単な魔法なら大丈夫だ。よし、これを寝る前に塗ればいいだろう……」
作業を終えたクリスは、何故か俯いて眉を顰めた。何か様子が変だ。苦しそう。もしかしてどこか痛いのかな。
『ねえ、どうかしたの?』
「クリス、済まない……」
『何? もしかしてさっきのこと? ならもう気にしてないよ』
「違う。ずっと我慢していたが、もう限界だ。トイレに行きたい」
『なら行けば……!?』
トイレだって!? そうだ、そういう問題もあったんだ。お風呂だってあるじゃん! いやでも生理現象はどうしようもないし、お風呂に入らないというのも嫌だ。でもね、自分の身体を見られて触られるというのはもっと嫌だ!!
『いや、待って、それはちょっと……』
「大丈夫、安心してくれ。この身体にいるお陰か、今の僕にはやましい気持ちなど微塵も起きない。だから身体がおかしくなる前に、このどうしようもない生理現象を解消させてもらうぞ!」
それって普段はやましい気持ちがあるってことですか。なんて突っ込みたくなったけど、切羽詰った彼にそんなことを言うのは意地悪だし、何よりわたしも恥ずかしいのでやめておいた。
わたしは自分に必死に言い聞かせた。これは仕方ないんだ。我慢したら体がおかしくなっちゃうし、匂いだって臭くなる。だから仕方ない。今の彼は女の子。だから恥ずかしがる必要なんてないんだ、と。
それからクリスはちゃんとお風呂にも入った。目を瞑って。なので洗う場所や移動する場所は、わたしが誘導した。もう無心で。終わる頃にはわたしの目は死んでいたかもしれない。
何この拷問。早く元に戻りたいよー……!




