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何これ、どういうこと!? 夢にしてはいやにはっきりしているけど、すんなり現実と受け止めるには信じがたい状況だ……。う、うん、まずは状況整理をして落ち着こう。
わたしは今、宙に浮いていて、且つその身体は透けている。まるでクリスのように。そして真下にはもう一人のわたしの姿。彼女は現在机に座り、目を開けて確認するように顔をペタペタと触っている。どうやらわたしではない何かが体の中に入り込んでいるようだ。で、わたしの傍にいるはずの幽体クリスはいない。ということは、つまり……
導き出されたのは最悪な結論。不安と焦りが膨れ上がり、どうしようって単語がわたしの頭の中を埋め尽くす。あまりにとんでもない不可思議な現象に、思考は停止寸前だ。
一方、眼下では隣のデリックが、わたし(?)に顔を寄せて話しかけていた。
「何だよ、よだれでも垂らしたのか? お前今寝てたもんな。しかもぶつぶつ寝言言って」
「うるさいぞ、デリック。授業中に無駄話はやめろ!」
きりっとした顔のわたしがデリックを睨み付ける。この高圧的な口調、クリスそっくり……。
これでほぼ間違いないだろう。今わたしの身体の中にいるのは彼なのだ。
「す、すまん……」
「先生! 具合が悪いので保健室に行ってきます!」
デリックの謝罪をみなまで聞かずに、毅然とした態度で声を上げるクリスは、とてもじゃないけど具合が悪そうには見えない。でもあまりにも鬼気迫る表情をしていたからだろうか、先生はすんなりと許可してくれたのだった。
教室を退出したクリスに、わたしはすぐさま問いかけた。
『ねえ、わたしの中に入ってるのクリスなんでしょ!? どういうこと!?』
「僕にだってわからない。ともかくネリーに連絡だ!」
そう言うなり彼は走り出して駆け込んだ。男子トイレに。
しかも個室に駆けこもうとするものだから、わたしは慌てて彼を止めた。
『待って入っちゃ駄目! 今すぐそこから出て!』
「は? 何で?」
『ここ男子トイレでしょ! 今のクリスは男じゃないんだよ!』
幸いにも誰もいなかったからいいものの、ここで誰かが来たらわたしは間違いなく痴女になっちゃうよ! 気持ちは分からないでもないけど、もうちょっと落ち着いて行動してほしい。
「……そ、うだったな。今の僕は女、なのか……」
愕然とした表情で呟き、クリスはふらふらと男子トイレから空き教室へと移動した。そしてコネクトカードを取り出し操作しようとしたんだけど、できなかった。魔力性質の認証で弾かれたのだ。
「くそっ、不便だな……」
『やっぱりこういうので違いがでるんだねえ』
しみじみ呟くと、クリスは苛立ちも露わに溜息を吐いた。
「何でそんなに呑気なんだ。この状況は今まで以上に困ったことになるんだぞ」
『でも騒いだところでどうしようもないでしょ。それは最初の時に身に染みてるし』
「……それはそうだが……」
腕を組み顎に手を添えて思案している姿は、わたしなんだけどわたしじゃないみたいだ。力強い光が瞳に宿っているせいで、何かピシッとしている雰囲気があるんだよね。中の人が違うと、変わるものなんだなあ。
「何にせよ、連絡が取れないなら教室に戻った方がいいな」
『え、早退しないの?』
「さっきの授業で今日は終わりだ。なるべく休まない方がいいだろう」
『あ、確かにね。そうしてくれると助かるよ。あとね、今日デリックの勉強を見るって約束してたけど、断っておいてもらえるかな。彼には悪いけど今は無理だし……』
「ああ、そうだったな。任せてくれ」
『一応わたしらしくしてね』
「努力する」
うん、クリスのことだし妙な行動はとらないと思うけど、念のために言っておかないとね。まあわたしも彼らしく振舞えって言われて、まるきりその通りにできる自信はないから、ちょっとくらいの差異は気にしない。教室に戻った時の妙におしとやかな挨拶だって許容範囲だ。問題は授業が終わった後である。
「おい、デリック、悪いが今日の約束は果たせそうにない。じゃあな」
うん、これはない……。わたしから誘っておいて、この断り方。流石にデリックに失礼だ。
「へ……?」
ほら、デリックが驚いて固まっちゃってるよ。今のわたし、彼の目にはきっと最高に嫌な女として写っていることだろう。
『そんな断り方ってないでしょ! 第一わたしはそんな風に言わない! わたしらしくってお願いしたでしょ!』
クリスは一瞬苦虫を潰したような顔をしたものの、すぐに科を作ってデリックを見上げた。
「ごめんなさい。実はまだ具合が悪くって……。この埋め合わせはきちんとするから、ね?」
う、上目遣いが気持ち悪い……。断る態度としてはまだこっちの方がいいんだろうけど、心情的にはさっきの方がましだ。でもきっとこれが彼なりの精一杯なんだろう。あんまり口うるさくも言えないや……。
「い、いいって、そんなの気にするなよ! 早く帰れって」
うわぁ、やっぱりデリックもドン引きしてるじゃん。今あからさまに目を逸らしたもん。でも気遣ってくれるあたり、結構優しいね。デリック、このお詫びは必ずするからね……。
「女の子らしくというのならやりおおせる自信があるんだが、君らしくというのは中々難しいな」
降下場までやってきたクリスは、疲れたように溜息を一つ落とした。何それ、聞き捨てならない。まるでわたしが女じゃないみたいじゃない。
『あの、わたしも一応女なんですけど』
「そんなことはわかってる。君の個性を演じるのは僕にとって辛いってことだ」
肩を竦めてクリスがエアボードのハンドルに手を伸ばす。しかしハンドルに手が触れる寸前、わたしは大事なことを思い出した。
『あーっ! ちょっと待って! 触っちゃ駄目!』
「うわっ、何だ!? 急に大声を出さないでくれよ!」
『さっき魔力性質認証でエラー出たでしょ? だったらエアボードもつかえないよ!』
コネクトカードの場合は使えないってだけで済むけど、エアボードの場合はそうはいかない。防犯対策が作動して大騒ぎになってしまうだろう。長時間の拘束は免れないし、絶対触らないようにしてもらわないと。
「なら空を飛んで帰る!」
と言って魔力を集中させ始めたけど、髪が舞い上がっただけで何も起きず。彼はがっくりと肩を落として項垂れた。
「くっ、魔力が上手く練れない……。なんてことだ……」
そっか、クリスも飛行術の免許持ってるんだ。貴族だもんなあ。
特権階級の人たちは、力で成り上がってきた者が大半である。なので魔術を得意とする人が多いのだ。でもわたしの身体に入ったことで、馴染めずうまく魔力が操れないのかもしない。わたしが身体飛行術を出来ないせいもあるのかも。出来てせいぜいちょっと浮くぐらいだ。
『ねえ、落ち着いてよ。それ以前にわたしは免許持ってないから、もし飛んでるとこ見つかったら捕まっちゃうってば』
「そうだ、そうだったな……。無免許飛行なんてとんでもない。僕としたことが……」
まいった、とでも言いたげな苦悩のポーズを取る彼を見て、わたしは恥ずかしくなった。やめてくれないかな、そういう気取った仕草。クリスの姿ならいいんだろうけど、わたしがやってるのは馬鹿みたいにみえる。
くっ、この状態の間は、こういう変なわたしを度々目にしなきゃならないのか。ミラータイムだって絶対やるよね。で、鏡を見たクリスが顔を歪めて言うんだ。美しくないって。
そんなこと言われたら死んじゃう。心が死ぬ。うん、事実ではあるけどそんな事実は他人の口から聞きたくないんだよ……。
とにもかくにも今は早く帰ってネリーに相談しなくては。でも現時点で帰れる方法といえば、市営ゴンドラしかなかったりする。凄く時間がかかるけど、もうそれしか方法がないのだ。
『クリス、もう市営ゴンドラで帰るしかないよ……』
「いや、ゴンドラは使わない。セオに頼む」
『えー、いいのかなあ。クラブもあるのに』
「いいんだ。あいつのトレーニングにもなるだろう。それに今は遠慮してる場合じゃない」
まあ送ってくれるならその方がありがたいけどね。何にせよ、今はクリスにお任せする他ない。
そんなわけでセオを探して校舎に逆戻りである。部室か教室にいるだろうと見当をつけて、まずは教室に行くと早速級友たちと談笑中のセオを発見した。
「セオ、大変なことになったの。ちょっと来てくれる?」
両腕を組んだクリスが、セオに向かって顎をしゃくる。自信と傲慢さに溢れた有無を言わせないこの態度。いつもとは違うわたしの様子に、クラス中が注目していたことは言うまでもない……。